ダムの議論
「脱ダム宣言」とか「ダム不要論」があります。しかし、本当の議論は、”Yes” or ”No”ではなく、個別のダムについて、その必要性、有効性、効果等を評価して決定すべきであると考えます。
ところが、そのような議論はなく、「単に必要だから推進する。」や「不必要であるから中止する。」の議論に終わっていると思います。必要か不必要かではなく、ダムにより期待する効果は何であるのかと、ダムにより失われるものは何であるのかを評価する必要があります。プラスとマイナスを評価して、最終評価をなすには、各項目を金銭価値に置き換えてプラスサイドかマイナスサイドかを見なければなりません。
但し、金銭価値に置き換えるに際し、換算レートと言うべきか、経済価値をどう見るかが各個人により大きく異なる可能性がある項目もあります。例えば、ダムは規模の差はあれ、水没地域を発生させます。この自然環境破壊について、天然林の中を自然河川が流れる風景が失われることを、幾らの価値喪失と見るか、単に観光収入○○円で評価しても意味がないはずです。勿論、建設地点により、大きく異なるし、希少生物の生息地だったら、また話も変わってくるでしょう。
ダムによる洪水緩和を期待している場合、ダムで洪水を100%防止することは不可能ですが、過去の河川統計を基に、何年に一度の洪水までは対処可能と期待洪水緩和量を予測しているはずです。一方、ダムによらず、堤防のかさ上げで対処をする代替案との金額比較、発生する被害の原状までの災害復旧費用や機会損失費用との比較等様々なことは可能です。勿論、人の命を金銭で評価することが含まれれば、その難しさはあります。
ダムによる水利用を考えた場合、ダムに貯水して、貯水の中から使った水が利用水となります。ダムから専用の水路や管路を設けている場合は、それを通じた供給量であり、ダムの下流で取水する場合は、ダム放流量に応じた取水となります。いずれにせよ、従来から河川を通常流れている水量もしくは関係当事者間で合意した最低維持水量を自然流量として河川に流した後の水量がダムにより確保できる水であります。降水量により、年格差も生じます。そして、水の経済価値も難しい部分を含んでいます。水は、必需品であると同時に、井戸や海水淡水化によってでも得ることが可能です。いずれにせよ、農業にはなくてはならない物であり、農地開発とは水との戦いでもありました。
水力発電については、必ずしも大きなダムを必要とせず、大きなダムは大きなダムとして、水力発電の利用方法として、利用価値が生まれますが、いずれにせよ水力発電は貯水を目的としないことから、ダムについてはフレキシブルです。なお、水力発電に大きなダムは不要と書いたことについて補足しますと、現存する日本の揚水を除く水力発電所の数は1500程ありますが、この90%以上が戦前に建設された発電所であり、小さいダムで取水している水力発電所です。(例えば、吉村昭の小説「高熱隧道」は、黒部川第三発電所建設が、そのテーマですが、建設された仙人ダムは総貯水容量682千m3の小さいダムです。下の満濃池や狭山池とも比べてみてください。)
金銭価値に置き換えて評価をするには、将来価値と現在価値を、割引価値計算を適用して考えると共に、将来の社会構造・経済構造の変化に伴う相対価値構造の変化も考慮する必要があると思います。
良いダムは、長期にわたり人々の役に立ちます。香川県仲多度郡まんのう町に、満濃池(総貯水容量15,400千m3、Wikiはここ)というため池があり、8世紀に建設されたそうです。あるいは、大阪府大阪狭山市の狭山池(総貯水容量2,800千m3 、Wikiはここ)というため池は、更に古く7世紀に建設されたようです。当然、人々が保守をし、時には新規建設と同じぐらいの大補修や洪水流出の際の復旧をして、守ってきました。
日本は緑豊かで、水も豊かな国と思います。ひとくくりで、”Yes” or ”No”としない個別プロジェクトの評価で決めるべきです。しかし、残念ながら、評価するための資料や、評価報告書を含めプロジェクトの情報公開の量がほとんどありません。
私の結論は、あらゆる情報を、せめてWebで公開してください。Webが、公開するにあたり、費用も安く、かつ入手する際も、安く簡単です。電子政府とは、国民のために、存在する手段です。Webを利用した情報公開を強く望みます。(電子政府の推進について )
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