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2011年2月 5日 (土)

宮古島での自動車運転過失致死無罪を考える

現在2チャンネルで話題になっているようです。2008年に沖縄県宮古島市で起こった自動車事故で、バイクに乗っていた高校生が車に衝突され死亡した。車(軽自動車)には、運転をしていた人を含め6人が乗っており、その6人の氏名は判明しており、警察は運転をしてた女性を送致し、酒気帯び運転と自動車運転過失致死の罪で、その女性は起訴された。

一審では容疑が認められ、懲役3年の実刑判決となりました。しかし、福岡高裁那覇支部での2010年8月17日の控訴審判決では弁護側の主張である「事故当時は同乗していた長女(当時15歳)が運転していた」というのが認められ、一審判決は破棄され、自動車運転過失致死罪については無罪となり、酒気帯び運転についてのみ罰金30万円となった。

この高裁判決を受け、福岡高等検察庁那覇支部は判決から2週間後の8月31日、上告しないことを決め、この女性の無罪は確定しました。

その結果、警察は再捜査することになり、15歳の長女が運転していたのであれば、長女を検察に送致し、検察は起訴をする必要があります。ところが、再捜査の結果は「新たな被疑者はいない」と結論付けたとのことです。即ち、当初容疑者として送致した女性以外に被疑者は存在しないこととなります。

検察は上告を断念しており、女性の無罪は確定しています。次の憲法第39条の考え方であり、犯行を犯していない長女を含め他の5人の同乗者を逮捕・起訴することは、当然あってはならないことです。

憲法第39条 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない

一方、当時17歳であった高校生の遺族は、悲しみだけでなく、受け入れられない現実と向き合っているのだと思います。

皆様なら、どう思われますか?

1) 検察は最高裁に上告すべきであったか

刑事訴訟法では、上告の事由について、405条第1項のように「憲法の違反があること又は憲法の解釈に誤があること。」のように限定しています。最高裁では、事実の判断について争われないこととなっています。

従い、冤罪の逆ではあるが、検察を糾弾することが正しいのか、単純に結論づけられない点があります。

2) 弁護士の責任は

このような裁判結果に接すると、弁護士とは真実や真理を追求するよりも、裁判で勝たせることが役割であり、人間の感情に無関係な冷酷な人達であると思ってしまいます。もし、罪を犯せば、このような弁護士を雇いたいと思ってしまう。

しかし、弁護士とは真実や真理を追求する仕事ではありません。依頼人のために、弁護をすることが仕事です。勿論、弁護の途中で依頼人のことを信頼できなくなり、辞任することもあるでしょうが、疑いがあっても、(嘘をつくことはできませんが)依頼人のために懸命に弁護することは重要です。

この事件について、何も知っていませんが、弁護士が悪意を持って、弁護士活動をしたのではないはずです。

3) 裁判官の責任は

当時15歳の長女が運転していたとの容疑者の主張に裁判官は疑問を持ったはずです。同乗していたのは、容疑者の友人の女性2人と娘3人でした。容疑者又はこの5人の中の誰かが運転していたのに間違いがない。親子であれば、娘が身代わりに犯行を認めることは、生じた状況であったはず。

判決文も裁判記録も見ていないので、何も言えません。言えることは、裁判とは真相を明らかにする場ではないことです。この裁判も「容疑者が刑事罰を受けることについて、その容疑を認める十分な証拠が存在するか」です。この女性が運転していた事実を推認させる客観的な証拠はなく、同乗者らの供述は信用できず、合理的な疑いが残るとして、無罪判決を出したのです。

4) 運転していた女性被疑者

真実は、この女性のみでなく同乗していた全員が知っています。裁判で真実は明らかになっていないが、真実は存在し、その真実を知っている人も存在します。

刑法の罪については罰に問われない。しかし、良心の罪、宗教的な罪、道徳的な罪に一生さいなまれることになると思います。刑罰により良心の痛みが軽くなることはないでしょうが、刑罰を逃れたことにより、良心の痛みが、更に増すことはあると思います。

良心の痛みに耐えて生き続けることは辛いことだと思います。この女性が運転していた場合、いっそのこと、第一審の懲役3年を受け入れて、被害者に精一杯の賠償をすることで、幸せになれたのではと思います。

5) 民事賠償責任・民事裁判

報道からすると、民事裁判が終わっていないようです。容疑者であった女性は、民事賠償責任から逃れることはあり得ません。警察が再捜査結果として、新たな被疑者はいないとしたことは、責任を逃れようと刑事裁判で娘に罪を転嫁し、遺族の精神的に受けた苦痛は極めて大きいとして、高い賠償金額・慰謝料の請求になる可能性が高いと思います。

遺族からすると、金銭で解決はつかないが、金銭以外に求めるものはない。被害者として、謝罪以外に、金銭より他に要求するとなると、何もないし、また求めてはいけないことです。命を差し出せ、奴隷になれとは言えません。

刑事罰については、このような結果ですが、それを民事で埋め合わせ、可能な範囲で解消することはできると思います。人間が作り出した社会のルールは、人間が幸福になるように運営すべきだと考えます。

=====参考 新聞記事=======

最後に参考とした新聞記事のリンクを掲げます。

沖縄タイムス 2011年2月2日 「新たな被疑者なし」 宮古死亡事故 県警、再捜査で結論

沖縄タイムス 2011年2月2日 「何のための再捜査」 宮古死亡事故 被害者の母 怒りあらわ

宮古毎日新聞 2010年9月5日 高校生死亡事故逆転無罪に困惑

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