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2015年11月29日 (日)

菊地直子東京高裁無罪判決から思う裁判員裁判

オウム・菊地元信者に逆転無罪の東京高裁判決がありました。

日経 11月27日 オウム・菊地元信者に逆転無罪 都庁爆弾事件で東京高裁

一審判決の有罪判決が無罪判決に変わったのであり、逆転ではあります。しかし、意外な判決ではなく、むしろ刑事裁判として当然の判決であるように思います。

すなわち、爆薬原料の薬品を山梨県内の教団施設から都内のアジトに運んだことが、人を殺傷するテロ行為を認識していたと認めるには合理的な疑いが残るとする東京高裁の判断は刑事罰を課するにあたっては、重要な判断であると考えます。また、オウム真理教とは何であったのかと考えると、大勢の信者がマインド・コントロールと呼ばれるような状態で、自らの考えや判断で行動するのではなく、集団ヒステリーの様な状態であったと思う。このような時の相手に、刑事罰をどのように対処するかは、難しい問題と思います。

さて、2014年6月の東京地裁の裁判ですが、裁判員裁判でした。裁判員にとって、一般の市民感覚で判断をすることが、その役割であると考えた場合、オウム事件は社会的に大きな衝撃を与えた事件であり、被告が述べることは言い逃れであるとする方向に傾くと思います。

私は、裁判員裁判を否定しません。裁判員が市民感覚で裁判に参加し、自らの考えと判断を重要視して決断を下すことは重要と考えます。むしろ、日本の裁判員裁判は一審のみに導入された制度であり、高裁や最高裁は一審判決にとらわれることなく、裁判所として正しい判決を下すことが、裁判員制度を維持し、日本社会を発展させていくためにも重要であると考えます。

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