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2020年8月16日 (日)

日本を救った玉音放送

玉音放送から75年。録音ではあるが、「茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」と天皇が「なんじ臣民」と国民に語りかけた。戦前の日本において、天皇が国民に対し直接語りかけることなど、あり得なかった。歴史的な8月15日である。玉音放送のNHKアーカイブスはここ にあります。

三上智恵氏の「証言 沖縄スパイ戦史」を読んだ。衝撃的内容である。太平洋戦争において日本国内で唯一戦場となった場所。戦場となることの意味は何であるか。32軍司令部・沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長長の自決の6月23日に沖縄守備軍の指揮系統は消滅したが、沖縄戦が終了したわけではない。戦争を終わらせること。戦闘を終わらせることは非常に難しい。

イラク戦争を考えてもそうである。フセインを捕らえて、イラク戦争は終わらなかった。ISISとは何であるのか?昨年、中村哲医師がアフガニスタンで亡くなった。同じ民族同士が憎しみあい、殺しあう。

沖縄戦の頃、それ以後も、本土決戦を唱えていた人や不敗の神国日本を固く信じていた人は多くいたと思う。本土決戦となったなら、大きな不幸は生まれていたはず。沖縄戦司令部消滅の6月23日は、ドイツ降伏5月8日から1月半後である。勝ち目がない戦争をしていた。

「負けた」と言えば、戦争は終わる。有利な条件で負けられないかとするから、外交で・・・・との発想になる。国内的な問題もある。そういった国内的な問題を含め本土決戦派をも何とか説得する方法として玉音放送は最高の切り札だったと思う。その点に関して天皇と当時の日本の指導者に感謝をしたい。

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コメント

日露戦争開戦決定の御前会議で、明治天皇は『今一度、私がロシア皇帝に親書を送って』と言って、何としても戦争を回避しようとした.が、『もう、そんなことをしている時ではありません』と、伊藤博文に宥められた.
1941年9月6日の御前会議で、昭和天皇は明治天皇の歌を詠んで、自分の心は明治天皇と同じであると言ったのだが、では、太平洋戦争開戦前にルーズベルトは昭和天皇に親書を送ってきたが、昭和天皇はルーズベルトに親書を送って戦争を回避する努力をしたのかどうか?.

あなたが言うように天皇の玉音放送で戦争が終わったのなら、天皇の言葉で戦争を回避できたはずなのに、なぜ天皇は戦争を回避しなかったのですか?.

この文書を読んで、昭和天皇がどの様な神様であったかよく考えてください.
ホイットニー文書
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm

投稿: rumichan | 2020年8月16日 (日) 13時50分

日中戦争当時、大方の予想では戦争は長くは続かない.なぜなら日本は外貨が尽きて軍事物資を調達できなくなるはずだから.....
ところが戦争は終わらなかった.どうやって日本は軍事物資を調達していたのか?.
横浜正金銀行の行員だった人がNHKの番組で証言していた.
『金塊を木箱に詰めて船でアメリカに送り、アメリカ政府に知られないように売却して、軍事物資購入の資金にしていた』
ちなみに、横浜正金銀行は天皇が大株主の銀行でした.さて、アメリカに密輸された金塊はどこから出てきたものなのか?.

それはそれとして、アメリカの横浜正金銀行の支店は、金塊を非常に上手く高値で売りさばいたらしく、予定金額より高値で売れた分、余剰金としてアメリカの銀行に預金していたのだが、アメリカの資産差し押さえにあってしまった.当時の石油輸入代金の3年分に相当する資産を差し押さえられたと言われている.

投稿: rumichan | 2020年8月16日 (日) 14時04分

もう一つ、お金の話
1945年8月6日、広島原爆投下.....の、翌日の7日.
昭和天皇は外務大臣の東郷茂徳に命じて、皇后の名前で確か10億円程のお金を国債赤十字に寄付を行った.

太平洋戦争当時、連合軍は日本に捕まった捕虜の待遇改善のため、日本に寄付を行っていた.そのお金を日本は横浜正金銀行を通じて受け取っていたのだが、不当な為替レート、不当な手数料により、大半は何処かへ消えてしまったらしい.

で、天皇が国債赤十字に寄付したお金は、連合国が捕虜の待遇改善のために寄付した銀行の口座と同じ口座を通して送金されたため、イギリスは天皇が寄付したお金を差し押さえようと訴えて、裁判になった.

投稿: rumichan | 2020年8月16日 (日) 14時16分

1945年8月8日夕刻(夜だったかも知れない)、国務大臣の情報局総裁が天皇を訪ね、『その時にはマイクの前に立って欲しい』と天皇に頼んで、玉音放送が行われることになった.

『大本営政府連絡会議』を『最高戦争指導会議』に変え、戦争遂行の権限を明確にしようとしたのは、小磯國昭内閣である.
情報局総裁を国務大臣として誕生させたのも、小磯國昭内閣である.

小磯國昭は蒋介石と単独和平工作(繆斌工作)試みたのだが、昭和天皇に嫌われて小磯内閣は崩壊した.

投稿: rumichan | 2020年8月16日 (日) 14時32分

日本が国体護持にこだわってポツダム宣言の受諾が遅れたのは有名な話で、日本人なら皆知っていることです.
1945年8月9日の最高戦争指導会議は、翌日の未明まで行われて、最後は天皇が臨席して『天皇の大権に変更無きことを前提にポツダム宣言を受諾する』と決定し、10日にアメリカに回答しました.

それに対しアメリカの回答が11日にあったはずですが、国体護持に関して不明瞭であると更にもめ続け、日本は態度を明瞭にしませんでした.
アメリカは日本本土に対する爆撃を12日、13日、二日間休んだのですが、日本がきちんとした回答をしなかったので、14日は爆撃を再開し多数の犠牲者が出ました.

日本時間の12日、13日頃のニューヨークタイムスに、『おそらく天皇制は維持されるであろう』と言う記事が掲載され、それは間違いなく天皇に伝わっていたはずです.ですから天皇は14日にポツダム宣言の受諾を決定し、日本の敗戦が決定しました.

アメリカでも、ポツダム宣言で国体護持を保証すれば、日本はすぐに受諾するはずだという意見が多数あり、事実、ポツダム宣言の草案にはそのように書かれていたそうです.が、たぶんトルーマンが削除しました.

カイロ会談
カイロ会談はルーズベルトとチャーチルが蒋介石をカイロに呼んで行われました.
当時既に蒋介石軍は毛沢東軍に対して劣勢で、このまま戦争が終われば毛沢東が実権を握るのは間違いのない事になっていました.
自分が劣勢なのは蒋介石自身も良く分っていて、蒋介石が勝手に戦争を止めて日本と手打ちをする可能性が出てきたので、それを止めるために行われたのがカイロ会談なのです.3人は日本の無条件降伏まで戦い抜く約束をしました.
『お前が将来の中国の実権を支配するのだ』、ルーズベルトとチャーチルは、こう言って蒋介石を励ましたようです.ですからカイロ会談には宣言文のような文書は何もありません.

で、ポツダム宣言に戻れば.....
蒋介石に対して日本と勝手な妥協をしてはいけないと約束させたのがルーズベルト.そのアメリカが、ポツダム宣言に日本と妥協するような国体護持を加えることが出来なかったのは当然の話.

ポツダム会談
ポツダム会談はソ連がヨーロッパで略奪を繰り返し始めたため、その対策を話し合う目的でチャーチルがルーズベルトに要請して行われました.
ですからこの頃のチャーチルは自国の事で精一杯で、日本のことはそれほど重要ではなかったと思われます.

と考えれば、アメリカがポツダム宣言に国体護持を加えようとした時、問題になったのは蒋介石だけ.

小磯内閣の繆斌工作
先に書いたように、蒋介石は日本と妥協して講和をする可能性があったので、カイロ会談が行われたのです.
ですから繆斌工作が実現しなくても、日本が講和をする姿勢を示して、蒋介石に対して接触を試みる姿勢を続けていれば、ポツダム宣言の時アメリカが蒋介石に対して妥協する意志を確認して、ポツダム宣言に国体護持を盛り込んだ可能性があったのではないかと思えます.

ちなみに蒋介石は、東京裁判の戦犯の筆頭に昭和天皇をあげたのですが、アメリカの圧力で取り下げました.

投稿: rumichan | 2020年8月19日 (水) 22時54分

近衛上奏文
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87
https://note.com/bouheitai1958/n/n6aaba703c765

1945年2月14日、近衛文麿は早期講和と言うより、一刻の猶予はならない即時講和を進言したのだが、昭和天皇は『今一度、戦果をあげてからでないと難しい』と言って拒否した。
高松宮も同様な進言をしたのだが同様に拒否され、「今一度お考え直しを」と更に食い下がったら、「くどいぞ」と怒鳴り飛ばされた。
これは日本人なら誰でも知っている有名な話。

1945年3月10日、東京大空襲で10万を超える人が亡くなったのは、日本人なら誰でも知っている。

太平洋戦争では厚生省発表で310万人が犠牲になったのだが、犠牲者の半数以上が、東京大空襲以降、8月15日の敗戦決定までの六ヶ月間に亡くなっているのであり、東京大空襲が避けられなかったにしても、それを機に講和を求めていれば、戦争の犠牲者の数は半数程度で済んだと思われる。

今一度戦果を上げて講和を有利に進めよう、何とかして国体を護持しようと、そればかり考えている内に犠牲者はどんどん増えていったのです。

投稿: rumichan | 2020年9月15日 (火) 18時41分

近衛文麿は『共産主義革命が起きる恐れがある』と言って、即時講和を上奏した。

小磯国昭はソ連の仲介で講和を進めるように言ったらしいが、蒋介石と講和をしようとして、昭和天皇によって首相から下ろされた。

沖縄戦の敗北が決定し、中国の日本軍の弱体化を知らされた昭和天皇は、やっと敗戦を覚悟して、国体護持を前提にアメリカと停戦交渉をしようと考えた。国体護持を前提にアメリカが講和の交渉に応じてくれるようにスターリンにアメリカに頼んでもらおうと、近衛文麿をソ連に派遣しようとしたが、ソ連に無視され冷たくあしらわれたのだった。

考えていることは国体護持だけ、やってることは支離滅裂で、結果、日本は原子爆弾を2発落されました。

投稿: rumichan | 2020年9月15日 (火) 21時20分

国体の護持、天皇制の護持とは.....

国体、天皇制とはと考えると、
1.『天皇は神聖にして犯すべからず』
絶対的な権力者で、人間ではなく神であったのだが、人間宣言をした。

2.『大元帥天皇は、陸海軍を統帥する』
軍人としての権威権力は、全て失われた。

3.華族制度
華族は天皇の遊び相手、結婚相手だったのだが、華族制度は廃止された。
現在は皇族の結婚相手が民間人の借金のある無職の男で、だいぶもめているようです。

4.枢密院
明治時代はものすごく強い権限を持っていたが、次第に権力を奪い取られて弱体化していた。
良く分からないのだけど、御前会議ではいつも昭和天皇の代わりに枢密院議長が発言していて、天皇と密接な関係の組織であったのは間違いないはず。
普通選挙法成立に際して、引き換えに治安維持法を成立させたのは枢密院であり、結果国民は天皇を批判することが全く出来なくなった。戦争反対、とか、平和とか言うだけでも、治安維持法違反で特攻警察、憲兵隊に捕まった。
枢密院は戦後は廃止された。

5.天皇教
戦後、教育勅語は廃止され、教育現場から天皇教は一掃されて、教育と宗教が分離された。

6.宮内省
第二次世界大戦当時は、昭和天皇が世界一の金持ちだったとも言われている。
資産の多くは、田畑、山林等の不動産なのだが、日銀他、企業の株券などもものすごい額で、皇居内にあった宮内省は天皇の資産運用会社であった。
戦後、宮内省は宮内庁に改められ、天皇の資産が没収されると共に資産運用会社は消滅した。

7.横浜政金銀行
天皇が大株主で天皇の御用銀行だったが、戦後解体され為替業務は東京銀行に引き継がれた。
日本銀行も天皇が大株主でしたが、さすがに天皇の都合で公定歩合を変更したりは出来ません。それに対して外国為替を扱う横浜政金銀行は、為替相場をいじったり、手数料の決定権は銀行にあったわけで、相当な利益を上げていたと思われます。

国体護持と言うだけで、それがどの様なことなのか、正しいにしろ間違っているにしろ、それなりにきちんと書いた人にお目にかかったことはありません。皆、分っているつもりで書いているだけです。
私が思いつくままに書いて、こんな感じ。間違いなく残っている事より廃止された事が多いはずで、私の感覚では、GHQに依り天皇制のほとんどが廃止されたと言えると思います。
ですから、皆、簡単に国体護持と言うけれど、それがどの様なことを意味するのか、当時のアメリカにも分っていなかったはずで、アメリカが公式に国体護持を一切言及しようとしなかったのは、当然のことと言えます。
結果は何も残っていないのですから、もし、いい加減な感覚で国体護持を口にしていたら、GHQの政策は何も出来なかったでしょう。

天皇制が残ったのだから日本の要求が通ったのであり、すなわち日本は無条件降伏をしたのではないと、右翼の人は言っているが、さて、さて.....お人好しと言うか、何という馬鹿と言ったらよいのか。

投稿: rumichan | 2020年9月15日 (火) 22時13分

天皇陛下は神様です。
誰も逆らうことは出来ません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/e4a31d17326f82df4ef4a1a863077dd43847d8b7

投稿: rumichan | 2020年9月18日 (金) 22時16分

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