2020年8月16日 (日)

日本を救った玉音放送

玉音放送から75年。録音ではあるが、「茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」と天皇が「なんじ臣民」と国民に語りかけた。戦前の日本において、天皇が国民に対し直接語りかけることなど、あり得なかった。歴史的な8月15日である。玉音放送のNHKアーカイブスはここ にあります。

三上智恵氏の「証言 沖縄スパイ戦史」を読んだ。衝撃的内容である。太平洋戦争において日本国内で唯一戦場となった場所。戦場となることの意味は何であるか。32軍司令部・沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長長の自決の6月23日に沖縄守備軍の指揮系統は消滅したが、沖縄戦が終了したわけではない。戦争を終わらせること。戦闘を終わらせることは非常に難しい。

イラク戦争を考えてもそうである。フセインを捕らえて、イラク戦争は終わらなかった。ISISとは何であるのか?昨年、中村哲医師がアフガニスタンで亡くなった。同じ民族同士が憎しみあい、殺しあう。

沖縄戦の頃、それ以後も、本土決戦を唱えていた人や不敗の神国日本を固く信じていた人は多くいたと思う。本土決戦となったなら、大きな不幸は生まれていたはず。沖縄戦司令部消滅の6月23日は、ドイツ降伏5月8日から1月半後である。勝ち目がない戦争をしていた。

「負けた」と言えば、戦争は終わる。有利な条件で負けられないかとするから、外交で・・・・との発想になる。国内的な問題もある。そういった国内的な問題を含め本土決戦派をも何とか説得する方法として玉音放送は最高の切り札だったと思う。その点に関して天皇と当時の日本の指導者に感謝をしたい。

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2020年1月10日 (金)

太平洋戦争開戦(その9)雑感

太平洋戦争開戦に関して、その1からその8まで、8回にわたり幾つかの資料を参考として書きました。次が、その第1回から第8回であり、歴史のある一断面に接することが出来たと感じています。第9回として、私の思ったことを 書くこととします。

第1回 太平洋戦争開戦
第2回 開戦の通告

第3回 ハルノート

第4回 日米交渉

第5回 ハルノートから真珠湾攻撃まで

第6回 新聞報道

第7回 日米の国力差

第8回 御前会議

1) 御前会議

御前会議とは天皇陛下の出席を頂いて国家の最重要事項を決定する会議であった。太平洋戦争開戦(その5)太平洋戦争開戦(その8) で、1941年11月5日の御前会議と12月1日の御前会議に関して書いた。米国と戦争をするという太平洋戦争開戦に関する決定を下した2回の御前会議であった。米国との戦争は、冷静に考えれば、勝利の可能性がない戦争であり、その結果としては、数多くの日本人犠牲者を出した。

日本人の死者数は軍人・軍属で230万人、一般市民が80万人でその合計310万人という数字が一般的である。この数字には朝鮮人・台湾人戦没者が含まれていないので、その数字を加え、一方で開戦前の1941年以前の日中戦争期における死者を差し引くと300万人弱になると推定する。一方、米国人戦士の太平洋戦争での死者数は15万人にも満たない様である。日本の戦死者には戦病死を含んでおり、大雑把な比較であるが、戦死者比率が10:1なんて戦争をしたのであった。(なお、米国人戦士の第2次大戦における死者数は42万人という数字があるが、これは欧州戦線を含んだ数字である。)

明治憲法(大日本帝国憲法)は、第13条が「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」であり、天皇の関与なしでの戦争開始はあり得ない。一方、第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を考えると、象徴天皇に近いと思える。太平洋戦争開戦(その8)の中で御前会議次第を掲げたが、天皇が御前会議に参列する入御は、各大臣による説明及び質疑応答・意見の聴取が終了した後であり、天皇の参加は形式的である。天皇とは神聖であり侵してはならない存在であるなら、神であり、責任を天皇に振り向けてはならない。明治憲法において、御前会議について触れている条文はなく、御前会議について定めている法律もないと理解する。しかし、天皇の出席を得た御前会議の決定は最大限尊重されることとなる。

戦前の日本国家はガバナンスが機能しない制度であると思う。憲法が第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とし、第12条で「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」としている。だから、11月1日の大本営連絡会議でも「外交は作戦を妨害しないこと」というような発言が陸軍参謀次長より出てくる。

今の日本の会社でもあり得る話かも知れない。一定の手順を踏んだ社長決裁という決定がなされると情勢が変化した場合に、あるいは見落とした点を是正しようとしても、そこに社長決裁という形式があれば、変更は容易ではない。一方で社長決裁があれば、それを理由にその推進者は他人の意見をくむことなく突っ走ることができる。結果、失敗に結びついてしまうことがある。すべてが、そうとは思わないが、無理矢理にでも社長決裁を得たならば、それで動いてしまい、歯止めが掛からない状態に陥っては大変である。

2) ABCD包囲網・大東亜共栄圏

太平洋戦争前1941年頃の日本人が持っていたアジア観にABCD包囲網・大東亜共栄圏という思想があった。ABCDとは、America、British、China、Dutchのことであり、フィリピンは米、マレーシア・シンガポール、ミャンマーが英、Chinaとは蒋介石一派のことで、インドネシアがDutchとなる。ABCD包囲網は大東亜共栄圏と重なってくる。友好を重視しない敵視思想と思えるが、当時の考えでは、アジア民族の解放であった。読売新聞が1941年8月16日から8月21日まで6回にわたりABCD包囲網という特集記事を掲載している。その第6回は次の書き出しで始まっている。

いわゆるABCD陣営の対日包囲線は最近来ますます露骨な攻勢をみせている、あるいは経済圧迫にあるいは恫喝にデマ撒布に太平洋の波はまたしても掻き濁されようとする、これら執拗な牽制は、わが大東亜共栄圏への毅然たる歩みをいささかも阻み得ないばかりでなく、徒らに彼らの貪慾をむき出しに過ぎない、ビルマ、シンガポール、蘭印比島から豪洲、サモア、ハワイ、グアム等へ馬蹄型にのびる一連の軍事基地‐本来東亜民族の勢力圏であるべきこれらの地が、いかにして白人のためにふみにじられ、ついには“みずからの東亜”に向って歯を剥くにいたったか、われわれは過去五世紀にわたる白人侵略の歴史と、屈従と忍辱に挫がれた現実の姿態とに眼を向けなければならない‐南方問題の一権威である太平洋協会の沢田謙氏がけうの“語る人”である

(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・読売新聞 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003ncc_00503550 より)

オーストラリア、サモア、ハワイも大東亜共栄圏と考えていたのかも知れない。どのような考えでいたのか、何故太平洋戦争を始めてしまったのか、Link先の神戸大学新聞記事文庫で全文を読んで頂くと、参考になると思う。

広い視野を持ち、議論(ディベート)することが重要である。権威主義や精神論は間違いを助長することがある。「和を以て貴しとなす」なんて諺はゴミ箱に捨てるべきである。力の強い者が、弱い者を従わせ、不正をするに都合を良くするように使われることもある諺だと思う。深く考えることが重要である。

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2019年12月29日 (日)

太平洋戦争開戦(その8)御前会議

太平洋戦争開戦(その5) において1941年12月1日の御前会議において太平洋戦争の開始が決断されたことを書いた。その決定とは

十一月五日決定ノ帝国々策遂行要領ニ基ク対米交渉遂ニ成立スル至ラス
帝国ハ米英蘭ニ対シ開戦ス

 であった。そこで、1941年11月5日決定の帝国々策遂行要領とは何であるかを見てみることが必要と考える。資料は国立公文書館アジア歴史資料センターの資料からの引用である。

1) 帝国々策遂行要領

帝国々策遂行要領とは1941年11月5日の御前会議において決定された次の文章であった。

一 帝国ハ現下ノ危局ヲ打開シテ自存自衛ヲ完ウシ大東亜ノ新秩序ヲ建設スル為此ノ際対米英戦争ヲ決意シ左記措置ヲ採ル
(一) 武力発動ノ時機ヲ十二月初旬ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完成ス
(二) 対米交渉ハ別紙要領ニ依り之ヲ行フ
(三) 独伊トノ提携強化ヲ図ル
(四) 武力発動ノ直前泰トノ間二軍事的緊密関係ヲ樹立ス
ニ 対米交渉ガ十二月一日午前零時迄ニ成功セバ武力発動ヲ中止ス
別紙  対米交渉要領
対米交渉ハ従来懸案トナレル重要事項ノ表現方式ヲ緩和修正スル別記甲案或ハ別記乙案ヲ以テ交渉ニ臨ミ之ガ妥結ヲ図ルモノトス

武力発動の時機を12月初旬として作戦準備を行い、12月1日までに対米交渉が成功すれば、武力発動を中止する。対米交渉の要領は甲案・乙案の通りであるとの決定である。

乙案の内容は、太平洋戦争開戦(その4)日米交渉 の中で、緑字で書いた部分である。乙案に関して、11月5日の御前会議の質疑応答の中で東郷外相は次のことを述べたと質疑応答の概要に記載されている。

外相: ・・・・・乙案ニ就テモ話ハツキ兼ネルト思フ。例ヘハ仏印ノ撤兵ノコトテアル。又第四ノ支那問題ニ就テモ米ハ従来承知セヌコトナノテ承諾シナイノテハナイカト思フ。尚備考ノ2ニ就テ米側ハ日本ノ履行ヲ求メテ居ル訳ナル故中々承諾セヌト思フ。唯日本ノ言分ハ無理トハ思ハヌ。米カ太平洋ノ平和ヲ望ムナラハ、又日本ニ決意アルコトカ反映スレハ米モ考フル所アルヘシト思フ。唯米ニ対シ日本ヨリ武力テ強圧スルト云ウコトニナルカラ反発スルコトニナラントモ限ラヌ。又時間ノ関係ハ短イノテアル。御決定後ニ訓電シテ交渉スルノテアツテ、十一月中ト云フコトテアル故交渉スル時間ニ2週間テアル。之レモ他方面ノ必要カラシテ已ムヲ得ヌ。従ツテ交渉トシテハ成功ヲ期待スルコトハ少イ。望ミハ薄イト考ヘテ居ル。遺憾ナカラ交渉ノ成立ハ望ミ薄テアリマス

相当押さえた言い方と思うが、11月5日の御前会議では、東郷外相にとっては、この言い方が精一杯だったのかも知れない。乙案で日米交渉が妥結するとの見通しは持てていなかったと思う。

御前会議とは、どのような会議であったかは、次の会議次第を見ると分かる。

Gozenkaigi1941115

首相が開会する旨を述べ、首相、外相、企画院総裁、蔵相、軍令部総長、参謀総長が説明を行い、その後質疑応答と意見の開示になる。そして首相が原案可決を述べる。これで入御となり天皇の列席を得る。列席者の花押と天皇の御璽御名がなされる。(御前会議への列席者には、他に枢密院議長、海軍大臣、軍令部次長、参謀次長、内閣書記官長、陸軍事務局長、海軍事務局長がいる。陸軍大臣は東条首相が兼務。軍令部は海軍であり、参謀は陸軍である。)

11月5日の御前会議で、石油に関して、どのように考えられていたかは、企画院総裁の次の説明があった。

第七ニ南方作戦実施ノ場合ニ於キマスル石油ノ総供給量ハ第一年85万竏第二年260万竏第三年530万竏デアリマシテ之に国内貯油840万竏ヲ加ヘ需給ノ見通ヲ付ケマスレバ第一年255万竏、第ニ年15万竏、第三年70万竏ノ残額ヲ有スルコトトナリ辛ウジテ自給態勢ヲ保持シ得ルモノト存ジマス、航空燃料ニ就キマシテハ其ノ消費状況ニ依リマシテ第二年若クハ第三年ニ於テ若干危険ヲ感ズルコトト予想セラレルノデアリマス
即チ大本営連絡会議ニ於キマスル陸海共同研究ノ蘭印占領ニ伴フ石油ノ需給ニヨリマスト
(1) 蘭印ヨリ取得見込量ハ
   第1年 30万竏第2年200万竏第3年450万竏

蘭印とはインドネシアであり、スマトラとカリマンタンから第1年目30万KL、第2年目200万KL、第3年目450万KLを取得するとしている。なお、国内に於ける当時の貯蔵量は840万KLと報告している。(私が、計算してみると、年間消費量・損失量をどう見ているのかよく分からず、うまく計算できない。「辛うじて自給態勢を保持」と強弁していると感じる。)

年間400万KL輸入していた米国からの石油が止まってしまった。その結果蘭印の石油と言うわけである。

東郷外相の説明は、御前会議次第にあるように、首相に次いで2番目であり、次のような説明で結んでいる。日米交渉が所轄の大臣であり、戦争は避けたいとの気持ちが強いと思う。

・・最後ニ付言致シ度イコトハ本交渉成立ノ際ハ帝国政府カ執リマシタル非常措置ハ何レモ当然之ヲ旧ニ復スヘキモノトノ了解ニ基キマシテ折衝ニ臨マントスルコトテ御座イマス。
尚不幸ニシテ本交渉妥結ヲ見サル際ハ帝国ハ独伊両国トノ協力関係ヲ益々緊密ナラシメ・・・・所存テアリマス。

御前会議の質疑応答は、首相の「御意見ナケレバ原案可決ト認メマス」の発言で終わっている。

2) 1941年11月1日大本営政府連絡会議

1941年11月5日の第7回御前会議要領には議題として『 「帝国国策遂行要領」(昭和16年11月1日大本営政府連絡会議決定)』と書かれている。帝国国策遂行要領は11月5日の御前会議で採択されたのだが、帝国国策遂行要領は1941年11月1日の大本営政府連絡会議が実質的な決定とも言えるのであり、この大本営政府連絡会議を調べてみる必要がある。

2-1) 11月2日上奏資料より

1941年11月2日の第66回連絡会議は11月1日午前9時に始まり11月2日午前1時半に終了している。会議終了後、その状況を上奏(天皇への報告)しており、その上奏資料である「11月1日連絡会議状況」(以下、連絡会議状況と略す。)を見ると次のことが書いてある。

議題 3案中の何れを採用すべきか
(1) 戦争を極力避け臥薪嘗胆する
(2) 開戦を直ちに決意し準備を進め外交は期待を措かず単に軍事行動の秘匿を主とする
(3) 開戦決意の下に作戦準備を完整すると共に外交を続行する

(1)の臥薪嘗胆案について、連絡会議状況では、次の様に書かれている。

日本カ限度以上ノ譲歩シテ日米妥協シ一応日米国交調整シタル場合ノ臥薪嘗胆スル場合ニ就テハ既ニ議題研究ニ於テ論議セラレタル如く断シテ採用スヘカラサルモノトシテ即決ス(蔵相、外相特ニ強ク否定ス)

2-2) 杉山メモより

国立公文書館に「日米交渉~開戦への経緯~」というWebがある(Homeはここ)。参考資料室の中で、1941年当時参謀総長であった杉山氏が残した資料を見ることができる。杉山メモからは、11月1日の連絡会議 における生々しいやりとりがうかがえる。

2-2-1)3案中の何れを採用すべきか

(1) 戦争を極力避け臥薪嘗胆する案についてのやりとり

杉山メモで、臥薪嘗胆案についての議論を見ると次である。

(イ) 第一案(戦争ヲヤラヌ案)
賀屋蔵相: 此儘戦争セスニ推移シ3年後ニ米艦隊カ攻勢ヲトツテ来ル場合海軍トシテ戦争ノ勝算アリヤ、否ヤヲ再三質問セリ
永野海軍軍令部長: ソレハ不明ナリ
賀屋蔵相: 米艦隊カ進攻シテ来ルカ来ヌカ
永野海軍軍令部長: 不明タ、5分5分ト思ヘ
賀屋蔵相: 来ヌト思フ、来タ場合ニ海ノ上ノ戦争ハ勝ツカドウカ。(マサカ負ケルトハ統帥部ニ聞ク訳ニユカヌ)
永野海軍軍令部長: 今戦争ヤラスニ3年後ニヤルヨリモ今ヤッテ3年後ノ状態ヲ考ヘルト今ヤル方カ戦争ハヤリヤスイト言ヘル、ソレハ必要ナ地盤カトッテアルカラタ
賀屋蔵相: 勝算カ戦争第3年ニアルノナラ戦争ヤルノモ宜シイカ永野ノ説明ニヨレハ此点不明瞭タ、然モ自分ハ米カ戦争シカケテ来ル公算ハ少イト判断スルカラ結論トシテ今戦争スルノカ良イトハ思ハヌ
東郷外相: 私モ米艦隊カ攻勢ニ来ルトハ思ワヌ、今戦争スル必要ハナイト思フ
永野海軍軍令部長: 「来ラサルヲ恃ム(たのむ)勿レ」ト言フコトモアル
先ハ不明、安心ハ出来ヌ、3年タテハ南ノ防備強クナル。敵艦モ増エル
賀屋蔵相: 然ラハ何時戦争シタラ勝テルカ
永野海軍軍令部長: 今!戦機ハアトニハ来ス(強キ語調ニテ)
鈴木企画院総裁: 賀屋ハ物ノ観点カラ不安ヲモツテ居リ戦争ヤレハ16、17年ハ物的ニハ不利ノ様ニ考ヘテル様タカ心配ハナイ。18年ニハ物ノ関係ハ戦争シタ方カヨクナル、一方統帥部ノ戦略関係ハ時日ヲ経過セバダンダン悪クナルト言フノタカラ此際ハ戦争シタ方カヨイコトトナル(ト再度賀屋東郷ノ説得ニ努メタ)
賀屋蔵相: 未タ疑アリ(トテ第1案ニ対スル質問ヲ打切ル)

カタカナ文であり、句読点が省略されていたり、今の我々には読みにくい面があるが、正確を期するため原文を写した。但し、横書きなので漢数字で表示すると読みにくくなる部分は通常の数字とした。また、原文では役職名が記載されていない部分が多いが、分かりやすくするために役職名を追加した。

東郷外相は「今戦争をする必要なはい。」とまで言って、自説を述べ、また賀屋蔵相も戦争に反対している。しかし、賀屋蔵相の「疑い有り 」とする言葉で議論は遮られ、次の直ちに軍事行動に移す案の議論となった。

(2) 開戦を直ちに決意し準備を進め外交は軍事行動の秘匿とする案についてのやりとり

(ロ)第二案ニ就イテ
賀屋蔵相、東郷外相:只左様に決心スル前ニ2600年ノ青史ヲモツ皇国ノ一大転機テ国運ヲ賭スルモノタカラ何トカ最後ノ交渉ヲヤル様ニシ度イ。外交ヲ誤魔化シテヤレト言フノハ余リヒドイ、乃公ニハ出来ヌ
塚田陸軍 参謀次長: 先ツ以テ決スヘキモノハ今度ノ問題ノ重点タル「開戦ヲ直ニ決意ス」「戦争発起ヲ12月初頭トス」ノ2ツヲ定メナケレハ統帥部トシテハ何モ出来ヌ外交ナトハ右カ定マツテカラ研究シテ貰ヘ度イ、外交ヤルトシテモ右ヲ先ツ定メヨ
伊藤海軍軍令部次長: (此時突如トシテ)海軍トシテハ11月20日迄外交ヲヤッテモ良イ
塚田陸軍参謀次長: 陸軍トシテハ11月13日迄ハヨロシイカソレ以上ハ困ル
東郷外相: 外交ニハ期日ヲ必要トス外相トシテ出来サウナ見込みカ無ケレハ外交ハヤレヌ期日モ条件モソシテ外交カ成功ノ見込カナケレハ外交ハヤレヌ而シテ戦争ハ当然ヤメネハナラヌ(此クシテ東郷ハ時々非戦現状維持ヲ言フ)

右ノ如クニテ外交ノ期日条件等ヲ論議スル必要生シ総理ハ第3案(戦争外交2本立)ヲ併セ討議スルコトヲ提案セリ

軍人と文民大臣とのぶつかり合いであるが、「誤魔化して外交をやるなど、俺には出来ん。」と堂々と連絡会議で東郷外相と賀屋蔵相は述べているのである。しかし、正しいことが通るのではなかった。

(3)開戦決意の下に作戦準備を完整すると共に外交を続行する

(ハ)第三案(第二案ト共ニ研究ス)
塚田陸軍参謀次長: 参本原案ヲ繰リ返シ述ヘ「外交ハ作戦ヲ妨害セサルコト、外交ノ状況ニ左右セラレ期日ヲ変更セヌコト其期日ハ11月13日ナルコト」ヲ主張ス

而シテ此期日11月13日カ大イニ問題トナレリ

東郷外相: 11月13日ハ余リ酷イテハナイカ、海軍ハ11月20日ト言ウテハナイカ
塚田陸軍参謀次長: 作戦準備カ作戦行動其モノタ飛行機ヤ水上艦船等ハ衝突ヲ起スソ
従テ外交打切リノ時機ハ此作戦準備ノ中テ殆ント作戦行動ト見做スヘキ活発ナル準備ノ前日迄ナルヲ要ス之カ11月13日ナノタ
永野海軍軍令部長: 小衝突ハ局部的衝突テ戦争テハナイ
東条総理、東郷外相: 外交ト作戦ト並行シテヤルノテアルカラ外交カ成功シタラ戦争発起ヲトメルコトヲ請合ツテクレネハ困ル
塚田陸軍参謀次長: ソレハ不可ナリ11月13日迄ナレハヨロシカ其以後ハ統帥ヲ察ス
杉山参謀総長、永野海軍軍令部長: 之ハ統帥ヲ危クスルモノタ
島田海軍相: (伊藤海軍軍令部次長ニ向ヒ)発起ノ2昼夜位前迄ハ良イタラウ
塚田陸軍参謀次長: タマツテ居テ下サイソンナコトハ駄目テス 外相ノ所要期日トハ何日カ

右ノ如クシテ外交打切リノ日次カ大激論トナリ20分間休憩スルコトトナル
茲ニ於テ田中第一部長ヲ招致シ総長次長第一部長ニオイテ研究シ「5日前迄ハヨロシカルヘシ」ト結論セラレ之ニ依リ「11月30日迄ハ外交ヲ行フモ可」ト参本トシテハ決定シ再会ス
此間海軍令部モ同様第一部長ヲ招致シ協議セリ。再会ス。

東条総理: 12月1日ニハナラヌカ、1日テモヨイカラ永ク外交ヲヤラセルコトハ出来ヌカ
塚田陸軍参謀次長: 絶対ニイケナイ11月30日以上ハ絶対イカン、イカン
島田海軍相: 塚田君、11月30日ハ何時迄タ夜12時迄ハヨイタラウ
塚田陸軍参謀次長: 夜12時迄ハヨロシイ

右ノ如クシテ12月1日零時(東京時間)ト決ス
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上ノ如クシテ
(イ) 戦争ヲ決意ス
(ロ) 戦争発起ハ12月初旬トス
(ハ) 外交ハ12月1日零時迄トシ之迄ニ外交成功セハ戦争発起ヲ中止ス
ニ関シテハ決定ヲ見タリ

こんな議論の末に12月1日に戦争開始が決まってしまった。

2-2-2) 乙案に関して

甲案は、それまでの日米交渉方針と基本的には同じであった。乙案を米国に提示することについては、連絡会議ですんなりと決まったわけではなく、紛糾した。(仏印とはベトナムである。)

杉山陸軍参謀総長、塚田参謀次長: 乙案ハ支那問題ニ触ルルコトナク仏印ノ兵ヲ徹スルモノニシテ国防的見地カラ国ヲアヤマルコトニナル、仏印ニ兵ヲ駐ムルコトハ、支那ヲシテ日本ノ思フ様ニナラシメ、南方ニ対シテハ之ニヨリ5分5分ニ物ヲトルコトヲ可能ナラシム又戦略態勢ハ対米政策上又支那事変解決上之ニヨリ強クナルノタ、米ト約束シテモ物ヲクレヌカモ知レヌ、乙案ニ不同意、又日次も少ナイカラ新案タル乙案テヤルヨリ甲案テヤレ
東郷外相: 自分ハ先ツ従来ノ交渉ノヤリ方カマズイカラ、条件ノ場面ヲ狭クシエ南ノ方ノ事タケヲ片ツケ支那ノ方ハ、日本自分テヤル様ニシタイ、支那問題ニ米ノ口ヲ容レサセルコトハ不可也、此見地カラスレハ従来ノ対米交渉ハ9ケ国条約ノ復活ヲ多分ニ包蔵シテルモノテ、殊ニ不味イコトヲヤツタモノタ、度々言フ様ニ四原則ノ主義上同意ナト丸テナツテ居ナイ、依テ自分ハ乙案テヤリ度イ、甲案ハ短時日ニ望ミナシト思フ、出来ヌモノヲヤレト言ハルハ困ル
塚田陸軍参謀次長: 南部仏印ノ兵力ヲ徹スルハ絶対ニ不可ナリ、(トテ之ニ付繰リ返シ反論ス)乙案外務原案ニヨレハ支那ノ事ニハ一言モフレス現状ノ儘ナリ又南方カラ物ヲトルコトモ仏印カラ兵ヲ撤スレハ完全ニ米ノ思フ通リニナラサルヲ得スシテ何時テモ米ノ妨害ヲ受ケル、然モ米ノ援蒋ハ中止セス資金凍結解除タケテハ通商ハモトノ通リ殆ント出来ナイ、特ニ油ハ入ツテ来ナイ。此様ニシテ半年後トモナレハ戦機ハ既ニ去ツテ居ル、帝国トシテハ支那カ思フ様ニナラナケレハナラナイ。故ニ乙案ハ不可、甲案テヤレ

以上ノ如ク協議セラレ第3項ヲ「資金凍結前ノ通商状態ヲ回復トシ且油ノ輸入ヲ加フル」如ク改メ又第4項ヲ新ニ加ヘ「支那事変解決ヲ妨害セス」トセルモ南部仏印撤兵問題ハ解決セス

東郷外相: 通商ヲ改メ又第4項ニ支那解決ヲ妨害セスヲ加ヘ而モ南仏撤兵ヲ省ク条件ナレハ外交ハ出来ヌ、之テハ駄目タ、外交ハヤレヌ、戦争ハヤラヌ方宜シ
塚田陸軍参謀次長: タカラ甲案テヤレ
永野海軍軍令部長: 此案テ外交ヤルコト結構タ

右ノ如ク南仏ヨリ北仏ニ移駐スルコト及乙案不可ナルコトニ就テハ杉山陸軍参謀総長・塚田参謀次長ハ声ヲ大ニシテ東郷外相ト激論シ東郷外相ハ之ニ同意セス時ニ非戦ヲ以テ脅威シツツ自説ヲ固持シ此儘議論ヲ進ムルトキハ東郷外相ノ退却即倒閣ノオソレアリ武藤参謀本部軍務局長休憩ヲ提議シ10分間休ム
休憩間杉山参謀総長、東条首相、塚田参謀次長、武藤参謀本部軍務局長別室ニ於テ協議ス

「支那ヲ条件ニ加ヘタル以上ハ乙案ニヨル外交ハ成立セスト判断セラル南仏ヨリノ移駐ヲ拒否スレハ外相ノ辞職即政変ヲモ考ヘサルヘカラス若シ然ル場合次期内閣ノ性格ハ非戦ノ公算多カルヘク又開戦決意迄ニ時日ヲ要スヘシ之際政変並時日遷延ヲ許サルモノアリ」
更ニ右ヲ要約セハ
(イ) 此審議ヲ此上数日延スルコトヲ許サス(統帥上12月初旬ハ絶対也)
(ロ) 倒閣ヲ許サス(之結果非戦内閣出現シ又検討ニ時日ヲ要ス)
(ハ) 条件ヲ緩和スルヤ否ヤ
(イ)(ロ)ハ許サレス(ハ)ヲ如何ニスヘキカ問題ノ鍵ニシテ陸軍トシテ已ムナク折レテ緩和スルカ、スヘテカコワレテモカマワス同意スルカヲ熟慮シソノ結果緩和ニ同意セサルヲ得サルコトトナレリ然ラサレハ外務トノ意見不一致ニテ政変ヲ予期セワルヘカラス又非戦現状維持ニ後退セサルヘカラス
統帥部トシテ参謀総長及次長ハ不精不精ニ之ニ同意セリ

このようにして乙案は連絡会議で同意された。東郷外相としては、全力を尽くしたと思う。乙案を通すことと、米国との外交交渉の日程確保がギリギリできた。しかし、余裕は残されていない。

3) 来栖大使の派遣

外務省は残された日程での米国との交渉に全力を尽くすべく来栖大使を派遣し、交渉は野村大使と来栖大使の2人対し体制で臨むこととした。11月4日に東郷外相から野村大使宛ての電報第730号がその連絡である。この電文に7日の香港発「クリッパア」にて(米国政府の好意的斡旋による)貴地に出張とある。クリッパアとは、ここにWiki があるが、Pan Amが運行していた太平洋横断旅客機サービスであった。在日米国大使館に便宜を図って貰ったのだと思う。 来栖大使が首都ワシントンで交渉に加わったことは、11月17日付の野村大使電報第1118号に書かれている。クリッパア は島伝いに飛行し、首都ワシントンまでは10日程度かかったようである。

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2019年12月19日 (木)

太平洋戦争開戦(その7)日米の国力差

太平洋戦争当時の日米の国力差とは、どの程度であったのかを見てみます。

1) 日米GDPの比較

すぐに思いつくのはGDPです。当時GDPという概念は定着しておらず、また信頼すべきGDP統計は特に日本では未だ存在していなかった。実は、GDP以外でもあてはまるが、国と国の統計比較は人口のように単位が共通な場合は、比較が容易であるが、経済力の国際比較は容易でない面がある。

ここでは、Univesity of GroningenのMaddison Historical Statiscs(Home Pageはここ )の統計データを使い、比較を行った。

1870年(明治3年)から2016年までの147年間の日本と米国のGDPをグラフにした。2011年を基準とした実質GDPのグラフです。グリーンは、米国GDPを日本GDPで割った除数であり、米国GDPが日本GDPの何倍になっているかを示している。1993年には2.6倍近くまで縮まったものの、2016年は3.7倍強に拡大している。一方、1945年には16倍以上のGDPの国が米国であったのである。

Japanus18702014

もう少し期間を戦争を間にした短い期間の1926年(大正15年/昭和元年)から1946年(昭和21年)までの戦前・戦中についてグラフにしたのが次です。1929年にウォール街の株価大暴落が発生し、世界不況が始まった。米国ではGDPが1929年の水準に戻るまでには10年を要し1939年にやっと回復した。この間の日米GDP格差(比)は1933年には4.8倍程度に縮まったが、太平洋戦争が始まる1941年には6倍強となっていた。

Japanus19251946

更に戦争に関わる期間として盧溝橋事件の前年の1936年から1946年までの期間をグラフにしたのが次である。6倍程度のGDPの差があったが、戦争に突入して、その差はいよいよ大きくなった。日本のGDPは、軍需産業もあり1943年にピークとなったが最早それまでであった。

Japanus19361946

2) 石油

太平洋戦争開戦(その4)日米交渉 の中で、昭和16年11月26日東郷外務大臣より在米国野村大使宛(電報)を紹介した。この電報には米国より昭和13、14,15年と同様に年間400万トンの石油を輸入したいと書いてある。更に、蘭印より年間33万トンの石油確保の見込みと書いてある。米国の日本向け石油輸出禁止は1940年8月の航空機用ハイオクガソリンに始まり、1941年には全面的に禁止となった。

日本で石油を何に使うかと言えば、軍艦の燃料と軍用飛行機の燃料である。石油の面でも日本は米国と戦争できる状態ではなかった。実は、米国こそ、当時世界の石油を支配していたのである。

Worldoilproduct19302000

1940年頃の世界の年間原油生産量は20億バレル。米国の生産量は15億バレル。原油生産量の75%程度が米国であったのである。15億バレルを重量にすると約2億2千万トンである。日本が米国から何とか輸入したいと思ったのが4百万トンなので、米国産原油の2%が欲しかったのである。

石油に関する日米の差は余りにも大きかったのである。

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2019年12月17日 (火)

太平洋戦争開戦(その6)新聞報道

日米開戦・真珠湾攻撃に至る日米交渉や当時の状況は単純なものではなかった。今回は、新聞はどのように報道していたかを見てみたいと思います。

1) 朝日新聞11月28日

次が朝日新聞11月28日の紙面です。ワシントン特電26日発となっており、ハルノートの手交を伝えているが、報道は悲観的内容ではなく、これを契機として交渉が本格化するような読者にある程度は期待を持たせる内容と思います。 Asahi19411128

2) 朝日新聞12月7日

12月7日の朝日新聞報道は次の様に、野村大使と来栖大使がハル長官と12月5日に会談したことに関して伝えている。翌日の新聞は日米開戦を伝えたわけであるが、その前日の新聞は交渉は難行する可能性があるものの、継続することの期待を書いていると思う。

Asahi1941127

ハルノートの受領以後首都ワシントンにおける会談は途絶えたわけではない。在米大使館は、「米国大統領との会見要旨報告」を11月27日付電報1206号で行っている。野村大使・来栖大使とルーズベルト大統領との会談が実現している。この要旨報告によれば、来栖大使は「従来ノ交渉経過ヨリ観ルニ日米両国ノ意見ノ相違ハ根本的主義ノ問題ニハアラスシテ之カ実際的通用ニ関スル問題ナリ簡単ナル一例ヲ挙クレハ米側カ通商無差別ノ原則ヲ主張セラルルニ対シ日本側ハ主義トシテ異存ナキモ之ヲ直ニ支那ニ適用シテ現実ノ経済状態ニ急激ナル変革ヲ与フルコトヲ考慮スル時日本トシテハ当然種々ノ留保ヲ付スルコトトナリ・・・」 と言うような発言もしている。又、東郷外務大臣より在米大使館に対し11月30日に「「ハル・ノート」に関し米国側の反省申入れ方訓令」という電報857号を入れているが、この電報の末尾に(尚本訓令執行二際シテハ右申入ニ依リ交渉ヲ直ニ決裂ニ導クカ如キコトナキ様御配慮アリ度シ)と書いてある。

朝日新聞が報道している12月5日のハル長官との会談については、大使館は12月5日付の電報第1261号で 「仏印兵力増強等に関する米国国務長官との会談要旨報告」 として報告している。そして、この電報の最後に「辞去ニ際シ「ハ」ハ今後何時ニテモ会見スヘシト述へ居タリ」と書いてあるのである。そして、この電報送付とほぼ同一のタイミングで真珠湾攻撃に際しての米国への通知文章の電文が到着し始めるのである。結局ハル長官が言った「今後何時ニテモ会見スヘシ」は実現することなく、日米戦争が始まった。

3) 米国の新聞報道

米国の新聞報道を幾つか調べた。NYで発行されている新聞を対象としたが、反ナチスが基本であり、英国は密接な同盟国であり、フランスの当時のナチス色があるビシー政権については複雑であった。米国は、当時既に世界最大の大国であり、世界のリーダーたらんとしていた。新聞報道を読むと、それは政治家のみならず多数の米国人の考えであったと思う。

3-1) 日本外交官は本国の指示を待つという11月26日付Ogdensburg journal紙面

11261941ogdensburg-journalseq1

3-2) 本国からの指示を待つ日本外交官と報じる11月19日のEndicott daily bulletin

11191941endicott-daily-bulletin

3-3) ハルノートを手交に関する11月27日のplattsburgh-daily-press記事

ハルノートを”US Plan for Peace”と呼んでいるのであります。

11271941plattsburgh-daily-press

3-4) 12月6日付けNassau daily review-stars

真珠湾攻撃の前日の新聞です。危機は消滅していないと報道しています。しかし、開戦が翌日とは思っていない。2)で朝日新聞の真珠湾攻撃前日報道を紹介したのですが、やはり同じ。

1261941nassau-daily-reviewstars

 

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2019年12月16日 (月)

太平洋戦争開戦(その5)ハルノートから真珠湾攻撃まで

ハルノートの内容は、12月11日の太平洋戦争開戦(その3)ハルノート で紹介しました。ハルノートの第6項目には日米の自由貿易に関する記述があり、石油禁輸の解除が述べられていた。

(6) 最恵国待遇ヲ基礎トスル日米間互恵通商条約締結(要旨報告)

6. The Government of the United States and the Government of Japan will enter into negotiations for the conclusion between the United States and Japan of a trade agreement, based upon reciprocal most favored-nation treatment and reduction of tradebarriers by both countries, including an undertaking by the United States to bind raw silk on the free list.

ハルノートには、中国とインドシナ(仏印)からの撤兵条件もあるが、少し異なった感じであるが、乙案でも 5-2)に仏印南部からの撤兵が述べられていた。中国に関しては、複雑であるが、短期間に解決できる見通しはなかったはず。戦争を避けようとする交渉をしていたのであり、一方的に自分の理論を述べても簡単には通らない。まして、米国関係者は、「負ける戦争を自ら仕掛ける国はいない。」との観測を持っていたはず。

1) 1941年12月1日御前会議

11月26日(日本時間11月27日)ハルノートを受領して4日後、12月1日 午後2時からの御前会議で戦争を決定するのであります。

     十二月一日御前会議決定
十一月五日決定ノ帝国々策遂行要領ニ基ク対米交渉遂ニ成立スル至ラス
帝国ハ米英蘭ニ対シ開戦ス

2) ハルノート受領から真珠湾攻撃まで(野村大使、来栖大使の電報)

ハルノート受領の翌日米国東部時間11月27日に、 野村大使、来栖大使は、東郷外務大臣宛に早まった行動は差し控えるべきとの次の意見具申の電報を出している。現場からのアドバイスは興味あるところ。御前会議の内容とは異なっていた。

交渉打切りの際の処置につき意見具申
ワシントン 11月27日発
本省  着
第一一九O号
今次日米交渉ノ経過ハ累次電報ニ依リ御承知ノ通リニシテ本二十六日米側提案(別電第一一八九号)二徴スルモ彼我ノ主張懸隔著シク御来示ノ期日内ニ当方主張ヲ受諾スルコトハ遺憾乍ラ到底見込ナキニ至レル次第ナリ
然ルニ米側ニ於テハ予テノ主張並二我方ヨリ本件関係各国ノ同意取付ヲ求メタル関係上尚ホ諸国ト協議ノ上右提案ヲ為スニ至リタル次第ナルカ其ノ企図スル所ハ素ヨリ油断ヲ許ササルモ我方ニ於テハ御訓令ノ次第モアリ今日迄先方ニ対シ急速妥結ヲ迫リタルノミニテ其ノ為未タ最後通牒的意思表示ヲ為シタルコトナク又十七日大統領モno last wordsト云へルカ如キ事態ニモ鑑ミ若シ我方ニ於テ現下ノ交渉ニ何トカ区切ヲ付ケスシテ期日後ニ於テ何等自由行動ニ出ツル場合ニハ米側ハ目下関係諸国ト折衝中ナル事実モ利用シ反ツテ我方カ所期ノ行動準備ノ為メ本件会談ヲ引キスリ之カ用意成リタルヲ以テ会談継続中ニモ拘ラス勝手ニ予定ノ行動ヲ開始シタルモノノ如ク宣伝シ交渉破綻ノ責任ヲ我方ニ転嫁セントスルノ倶アルコト現ニ再三我仏印進駐ノ為メ会談停止サレタル旨ヲ言及セル事例ニ依リテモ観取セラルルヲ以テ我方カ何等本件交渉打切ノ意思表示ヲ為サスシテ突如自由行動ニ出ツルコトハ右ノ如キ逆宣伝ニ利用セラルル倶アルノミナラス大国トシテノ信義上ヨリモ考慮ヲ要スル次第ナルカ而モ斯ノ如キ意思表示ハ我軍機ト緊密ノ関係アルヘキヲ以テ政府ノ御裁量ニ依リ東京ニ於テ米国大使ニ対スル通告又ハ中外ニ対スル声明等然ルヘキ方法ニ依リ今次交渉ノ区切リヲ明カニセラルルコト得策ナルヤニ存セラル尤モ其ノ場合ニハ予メ当方へ御内報ノ上同時二申入ルコトト致シ度シ
尚大統領ト会見ノ都合モアルニ付此ノ際尚ホ心得ヘキ点モアラハ折返へシ御回示ヲ請フ

3) ルーズベルト大統領から天皇宛親電

日本政府が真珠湾攻撃に際し在米日本大使館に対し、その文章を電報で発信したのは日本時間12月6日午後から12月7日午後4時頃までである。丁度この頃米国東部時間12月6日午後に日本大使館よりルーズベルト大統領が天皇宛の親電を送信したことを米国務省から聞いたことを電報第1275号で伝えている。内容不明なるもと述べているが日本大使館の電報には次の文章が付記としてあり、この内容(以下)で間違いないと思う。

His Imperial Majesty
The Emperor of Japan.
Almost a century ago the President of the United States addressed to the Emperor of Japan a message extending an offer of friendship of the people of the United States to the people of Japan. That offer was accepted,and in the long period of unbroken peace and friendship which has followed,our respective nations, through the virtues of their peoples and the wisdom of their rulers have prospered and have substantially helped humanity.
Only in situations of extraordinary importance to our two countries need I address to Your Majesty messages on matters of state. I feel I should now so address you because of the deep and far reaching emergency which appears to be in formation.
Developments are occurring in the Pacific area which threaten to deprive each of our nations and all humanity of the beneficial Influence of the long peace between our two countries. Those developments contain tragic possibilities. The people of the United States, believing in peace and in the right of nations to live and let live, have eagerly watched the conversations between our two Governments during these past months. We have hoped for a termination of the present conflict between Japan and China. We have hoped that a peace of the Pacific could be consummated in such a way that nationalities of many diverse peoples could exist side by side without fear of invasion; that unbearable burdens of armaments could be lifted for them all; and that all peoples would resume commerce without discrimination against or in favor of any nation.
I am certain that it will be clear to Your Majesty, as it is to me, that in seeking these great objectives both Japan and the United States should agree to e1iminate any form of military threat. This seemed essential to the attainment of the high objectives.
More than a year ago Your Majesty's Government concluded an agreement with the Vichy Government by which five or six thousand Japanese troops were permitted to enter into Northern French Indo-China for the protection of Japanese troops which were operating against China further north. And this Spring and Summer the Vichy Government permitted further Japanese military forces to enter into Southern French Indo-China. I think I am correct in saying that no attack has been made upon Indo-China, nor that any has been contemplated.
During the past few weeks it has become clear to the world that Japanese military, naval and air forces have been sent to Southern Indo-China in such large numbers as to create a reasonable doubt on the part of other nations that this continuing concentration in Indo-China is not defensive in its character.
Because these continuing concentrations in Indo-China have reached such large proportions and because they extend now to the southeast and the southwest corners of the Peninsula, it is only reasonable that the people of the Philippines, of the hundreds of Islands of the East Indies, of Malaya and of Thailand itself are asking themselves whether these forces of Japan are preparing or intending to make attack in one or more of these many directions.
undertake to ask for the same assurance on the part of
I am sure that Your Majesty will understand that the fear of all these peoples is a legitimate fear in as much as it involves their peace and their national existence. I am sure that Your Majesty will understand why the people of the United States in such large numbers look askance at the establishment of military, naval and air bases manned and equipped so greatly as to constitute armed forces capable of measures of offense.
It is clear that a continuance of such a situation is unthinkable.
None of the peoples whom I have spoken of above can sit either indefinitely or permanently on a keg of dynamite.
There is absolutely no thought on the part of the United States of invading Indo-China if every Japanese soldier or sailor were to be withdrawn therefrom.
I think that we can obtain the same assurance from the Governments of the East Indies, the Governments of Malaya and the Government of Thailand. I would even undertake to ask for the same assurance on the part of the Government of China. Thus a withdrawal of the Japanese forces from Indo-China would result in the assurance of peace throughout the whole of the South Pacific area.
I address myself to Your Majesty at this moment in the fervent hope that Your Majesty may, as I am doing, give thought in this definite emergency to ways of dispelling the dark clouds. 1 am confident that both of us,for the sake of the peoples not only of our own great countries but for the sake of humanity in neighboring territories, have a sacred duty to restore traditional amity and prevent further death and destruction in the world.

 

FRANKLIN D. ROOSEVEL T.
Washington,
December 6,1941.

外務省の日本外交文書デジタルコレクションの中に、12月8日の「東郷外務大臣・在本邦米国大使 会談」・「米国大統領親電への天皇陛下回答伝達に際しての駐日米国大使との会談要旨」という番号460の文書がある。そこに『本大臣ヨリ昨夜御持参相成リタル「ローズベルト」大統領ノ聖上陛下ニ対スル親電ニ関シテハ・・・・』とある。この会談の時に、”Establishment of peace in the Pacific and consequently of the workd has been the cherished desire of His Majesty, for the realization of which He has hitherto made the Government continue its earnest endeavors. His Majesty trusts that the President is fully aware of this fact.”を結びとする親電に対する回答を伝えた。そして、同時にグルー大使に真珠湾攻撃に際して米国政府への通告と同文を手渡した。

なお、この番号460の文書の付記3として、7日夜10時に米国グルー大使より重要緊急案件での会見申し入れあり、8日0時15分に外務大臣官邸に来訪あったこと。グルー大使との会談後、総理官邸に行き、更に2時半に天皇に参内。午前3時半頃帰邸とある。番号460の文書 には、注として「2. 親電ハ結局捧呈セラレサリシモノ十リ此点情報局ノ公表ハ事実ト相違ス」 とあり、大統領の親電は天皇陛下に渡っていることを述べている。但し、真珠湾攻撃開始の時刻を日本時間午前3時30分とし、その1時間前が空母からの離陸だとすれば、天皇が親電を読んだのは、ほぼ同時刻となる。

 

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2019年12月12日 (木)

太平洋戦争開戦(その4)日米交渉

太平洋戦争開戦(その3)ハルノート でハルノートを紹介しましたが、ハルノートは日本側の暫定協定案に対するカウンター・プロポーザルであったのです。

即ち、在米日本大使館の要旨報告(第1189号)では、次の部分です。(外務省の日本外交文書デジタルコレクション からです。 )

「ハル」ヨリ茲数日間本月二十日日本側提出ノ暫定協定案(我方乙案)二付米国政府ニ於テ各方面ヨリ検討スルト共ニ関係諸国ト慎重協議セルモ遺憾乍ラ之ニ同意出来ス結局・・・

原文(英語)では、

On November 20 the Japanese Ambassador communicated to the Secretary of State proposals in regard to temporary measure to be taken respectively by the Government of Japan and by the Government of the United States, which measures are understood to have been designed to accomplish the purposes above indicated.

では、11月20日に提出した日本側提案の乙案とは、次でした。

(一)日米両国政府ハ執レモ仏印以外ノ南東亜細亜及南太平洋地域ニ武力的進出ヲ行ハサルコトヲ確約ス
(二)日米両国政府ハ蘭領印度ニ於テ其必要トスル物資ノ獲得力保障セラルル様相互ニ協力スルモノトス
(三)日米両国政府ハ相互ニ通商関係ヲ資産凍結前ノ状態ニ復帰スヘシ米国政府ハ所要ノ石油ノ対日供給ヲ約ス
(四)米国政府ハ日支両国ノ和平ニ関スル努力ニ支障ヲ与フルカ如キ行動ニ出テサルへシ
(五)日本国政府ハ日支問和平成立スルカ又ハ太平洋地域二於ケル公正ナル平和確立スルカ又ハ現二仏領印度支部ニ派遣セラレ居ル日本軍隊ヲ撤退スヘキ旨拘束ス。
5-2)  The Government of Japan declares that it is prepared to remove the Japanese troops now stationed in the southern part of French Indo-Chaina to the northern part of the daid territory upon the conclusion of the present agreement.

5-2)が英語になっているが、乙案は数度変更されており5-2)として追加した部分は英語でしか見当たらなかった。(5-2追加と同時に6)と7)を削除している。)

乙案の提出に関して東郷外務大臣から在外公館長宛てに打った電報(合第2414号)を掲げます。

昭和16年11月25日東郷外務大臣より各在外公館長宛(電報)
日米交渉進渉状況につき通報
本省 11月25日
合第二四一四号(大至急、館長符号)
日米交渉近況
一、野村大使ハ「ハル」「ハル」国務長官及「ルーズベルト」大統領ニ対シ従来ノ我方案ニ新内閣成立後多少修正ヲ加ヘタル新提案ヲ提出シ交渉ハ本月初旬以来華府ニ於テ「ル」大統領及「ハ」長官ト野村大使間ニ行ハレ(来栖大使モ十七日ヨリ参加)オルノミナラス東京ニ於テモ本大臣ヨリ米英大使二対シ急速解決ノ要アル旨力説シツツアル処米側ハ右案ニ対スル諾否ヲ明ニスルニ先チ帝国政府ノ平和的意図ニ関スル確言ヲ求ムルト共ニ其ノ他ノ原則的問題ニ付テモ予メ我方ノ約諾ヲ取付ケントスル等其態度ハ依然理論的原則論ニ促ハレ逐日急迫スル事態ニ副ハサル所甚シキニ依リ我方ハ二十日更ニ南西太平洋方面ノ事態ヲ緩和シ以テ目睫ニ迫リツツアル太平洋ノ危機ヲ回避スル為メノ我方最終案ヲ提示シ其後米国側ハ英、豪、蘭及支等ノ関係国トモ協議ヲ行ヒ右ヲ審議セル模様ナルカ近ク何等ノ回答アル手筈トナリ居レリ
然レトモ今日迄ノ米側態度等ニ鑑ミ米側カ此際猛省シテ二十日ノ我方最終案ヲ受諾スル見込極メテ少ク然ル場合局面ノ収拾ハ頗ル困難ニシテ近ク最悪ノ事態ニ直面スル危険アル次第ナリ

「我方最終案ヲ受諾スル見込極メテ少ク然ル場合」という悲観的な見方を伝えているが、一方で11月26日の東郷外相から野村大使宛ての次の石油輸入に関する電報は内容は具体的であり、興味あるところです。

昭和16年11月26日
東郷外務大臣より在米国野村大使宛(電報)
交渉妥結の際の米・蘭両国よりの石油輸入につき訓令
本省
11月26日後6時発
第八三三号(至急、館長符号)
往電第七九八号ニ関シ
我方新提案ニヨリ妥結ノ際ハ第二項及第三項ニ関連シ早速物資確保ノ必要アル処帝国カ焦眉ノ急トスルハ石油獲得ナルニ依リ交渉進捗ニ応シ取極調印前早目ニ我方ニ於テハ石油輸入ニ付米国ヨリハ年四百万噸(米国ヨリノ昭和十三、四、五年度ノ平均輸入量ニシテ其ノ内訳ハ航空揮発油ヲ含ミ資産凍結実施前ノ実績ニ準ス)即チ月約三十三万三千噸又蘭印ヨリハ従前交渉ニ於テ大体意見ノ纏リタル数量(蘭側ハ年百八十万噸ノ供給ニ同意セリ)ヲ基礎トシ年二百万噸ヲ希望スル旨御申入レ相成度ク話合成立ノ上ハ貴大使ト国務長官トノ問ノ文書交換等ノ方法ニ依リ右ヲ確約セシムルコトト致シ度シ
尚右数量ハ交渉上標準タルヘキ大約ノ数字ヲ表ハスモノナルカ(右カ絶対的最低ノ数字ノ謂ニハアラス)他方当方トシテハ今後通商恢復ニ伴ヒ右数量ノ漸次増加ヲ希望スル次第二付右御含ミノ上御折衝相成度シ

1941年11月26日の時点において日米交渉がまとまる可能性は、ある程度は、あると日本政府は見ていた。日本側も米国とは戦争をしたくなかった。乙案で第7)項は、提出前に削除したと上で書きました。第7)項には「米国ノ欧州戦参入ノ場合於ケル日本国独逸国伊太利国間三国条約二対スル日本国ノ解釈及之二伴フ義務履行ハ専ラ自主的二行ハレルヘシ」との文章があり、乙案から削除はするものの、米側に伝えて良いこととされていた。この部分の意味は、次に掲げた三国同盟第3条の解釈は日本が自主的に行う。米国がナチスドイツと戦争をしても、日本の米国に対する参戦義務は明確ではなく、日本の解釈を適用する。

日独伊三国同盟
第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ歐州戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。

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2019年12月11日 (水)

太平洋戦争開戦(その3)ハルノート

1941年12月7日(米国東部時間)の在米日本大使館から米国政府宛の通知(ここでは通知と称することとします。)は、ハルノートと呼ばれるハル 米国国務長官が在米日本大使館に11月26日に手渡した文書(ハルノート)が、12月7日以前の日米間の公式交渉文書です。ハルノートには、何が書かれていたのか、見てみることとします。日本側文書は、外務省の日本外交文書デジタルコレクション からの引用とします。

1) 真珠湾攻撃当日12月7日の日本からの文書においてハルノートに関して触れている部分

外務省から在米大使館宛12月6日の電報第902号は、英語による通告全文を伝えているが、この902号には付記として日本語も付いている。まずは、その日本語文でハルノートに関している部分は、次の通りである。

 帝国政府ハ日支間和平成立スルカ又ハ太平洋地域ニ於ケル公正ナル平和確立スル上ハ現ニ仏領印度支那ニ派遣セラレ居ル日本軍隊ヲ撤退スへク又本了解成立セハ現ニ南部仏領印度支那ニ駐屯中ノ日本軍ハ之ヲ北部仏領印度支那ニ移駐スルノ用意アルコト等ヲ内容トスル新提案ヲ提示シ同時ニ支那問題ニ付イテハ合衆国大統領カ曩ニ言明シタル通日支間和平ノ紹介者ト為ルニ異議ナキモ日支直接交渉開始ノ上ハ合衆国ニ於テ日支和平ヲ妨碍セサル旨ヲ約センコトヲ求メタルカ合衆国政府ハ右新提案ヲ受諾スルヲ得スト為セルノミナラス援蒋行為ヲ継続スル意思ヲ表明シ次テ更ニ前記ノ言明ニ拘ラス大統領ノ所謂日支間和平ノ紹介ヲ行フノ時機猶熟セストテ之ヲ撤回シ遂ニ十一月二十六日ニ至リ偏ニ合衆国政府カ従来固執セル原則ヲ強要スルノ態度ヲ以テ帝国政府ノ主張ヲ無視セル提案ヲ為スニ至リタルカ右ハ帝国政府ノ最モ遺憾トスル所ナリ

英語の正文では、次である。

 As regards China, the Japanese Government, while expressing its readiness to accept the offer of the President of the United States to act as 'introducer' of peace between Japan and China as was previously suggested, asked for an undertaking on the part of the United States to do nothing prejudicial to the restoration of Sino-Japanese peace when the two parties have commenced direct negotiations.
The American Government not only rejected the above-mentioned new proposal, but made known its intention to continue its aid to Chiang Kai-shek; and in spite of its suggestion mentioned above, withdrew the offer of the President to act as so-called 'introducer' of peace between Japan and China, pleading that time was not yet ripe for it. Finally on November 26th, in an attitude to impose upon the Japanese Government those principles it has persistently maintained, the American Government made a proposal totally ignoring Japanese claims, which is a source of profound regret to the Japanese Government.

2) ハルノートの内容

日本大使館野村大使と来栖大使は11月26日午後4時45分からの会談でハルノートを受領した。受領後の要旨報告(第1189号)は次であった。

米国国務長官との会談の際提示された米国案
要旨報告
ワシントン 11月26日後発
本省 11月27日後着
第一一八九号(極秘、館長符号)
二十六日午後四時四十五分ヨリ約二時間本使及来栖大使「ハル」長官ト会談ス
「ハル」ヨリ茲数日間本月二十日日本側提出ノ暫定協定案(我方乙案)二付米国政府ニ於テ各方面ヨリ検討スルト共ニ関係諸国ト慎重協議セルモ遺憾乍ラ之ニ同意出来ス結局米側六月二十一日案ト日本側九月二十五日案ノ懸隔ヲ調節セル左記要領ノ新案ヲ一案(a plan)トシテ(tentative and without commitmentト肩書ス)提出スルノ巳ムヲ得サルニ至レリトテ左ノ二案ヲ提出セリ
甲、所謂四原則ノ承認ヲ求メタルモノ
乙 (1) 付日米英「ソ」蘭支泰国間ノ相互不可侵条約締結
(2) 日米英蘭支泰国間ノ仏印不可侵並ニ仏印ニ於ケル経済上ノ均等待遇ニ対スル協定取極
(3) 支那及全仏印ヨリノ日本軍ノ全面撤兵
(4) 日米両国ニ於テ支那ニ於ケル蒋政権以外ノ政権ヲ支持セサル確約
(5) 支那ニ於ケル治外法権及租界ノ撤廃
(6) 最恵国待遇ヲ基礎トスル日米間互恵通商条約締結
(7) 日米相互凍結令解除
(8) 円「ドル」為替安定
(9) 日米両国カ第三国トノ間ニ締結セル如何ナル協定モ本件協定及太平洋平和維持ノ目的ニ反スルモノト解セラレサルヘキコトヲ約ス(三国協定骨抜キ案)
右ニ対シ我方ヨリ全然従来ヨリノ話合ニ惇リ東京ニ取次クコトスラ考慮セサルヲ得ストテ強硬応酬ヲ重ネタルカ「ハル」ハ到底譲ル気色ナシ
米側ニテ斯ル強硬案ヲ提示スルニ至レルハ英蘭支ノ策動ニ依ル外援蒋行為停止ノ我方要求ト数日未我国要人ノ英米打倒演説我対泰国国防全面的委任要求説等ニ影響サレ米側ノ妥協派力強硬派ニ圧倒セラレタル為カト推察ス

ハルノートそのものは、Oral Statement、OutlineそしてSteps to be Takenの3部構成であり、在米大使館より、要旨報告に続いて電報1192号、1193号、1194号として送られた。

ハルノートは、ここ に置きました。

次は、在米大使館が我方乙案と言っている乙案について見てみます。

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2019年12月10日 (火)

太平洋戦争開戦(その2)開戦の通告

外務省に外交史料館 というWeb Pageがある。 このPageの日本外交文書 の中の『日本外交文書』に編纂・刊行された『日本外交文書』の項目別概要が記載されている。その中の平成21年度刊行 の 「太平洋戦争」(全3冊)がここ である。その「第一冊 I 一 開戦に伴う対外措置」には、「・・・・・ 昭和16年12月8日、対米英戦の宣戦の詔書が渙発されると、東郷外相は在本邦各国大使に開戦を通報しました。・・・・」と書かれている。

対米英戦の宣戦の詔書の渙発とは、「太平洋戦争開戦(その1)」の第2節”2)”で引用した朝日新聞が12月8日11時45分情報局発表と言っている宣戦の大詔である。即ち、日本が開戦を通報したのは、日本時間12月8日11時45分もしくは、それより遅い時間となる。 真珠湾攻撃開始の日本時間は午前3時30分なので、開戦の通報は8時間後となる。

1) 首都ワシントンでの文書交付時間

真珠湾攻撃開始の時間に文書交付は間に合わなかったと言われているが、私が探した範囲では、日本側の記録でそれを裏付けるものを私には発見できなかった。

米国コネチカット州のYale法大学がAvalon Project で、法律、歴史、経済、政治、外交、政府等の書類をデジタル化しWebで公開している。この中に、”Fourteen Part Message”とも呼ばれているJapanese Note to the United States United States December 7, 1941がある。

時間については、次のことが書いてある。

12月7日午後1時国務長官とのアポ申込が日本大使館よりあった。アポ時間は午後1時45分となった。日本の代表は2時05分に到着し、国務長官との会談は2時20分に始まり、書面を手渡した。

At 1 p.m. December 7 the Japanese Ambassador asked for an appointment for the Japanese representatives to see the Secretary of State. The appointment was made for 1:45 p.m. The Japanese representatives arrived at the office of the Secretary of State at 2:05 p.m. They were received by the Secretary at 2:20 p.m. The Japanese Ambassador handed to the Secretary of State what was understood to be a reply to the document handed to him the Secretary of State on November 26.

時間は米国東部時間なので12月7日午後1時とは、真珠湾攻撃開始時間現地午前8時は米国東部時間で7日午後1時30分となる。これからすると、真珠湾攻撃開始の前にアポを申し込んだのである。しかし、アポが確定したのは、攻撃開始後であり、実際に面談できたのは攻撃開始の約50分後となる。

2) 米国への通知文書

 日本政府(外務省)は、この文書を「対米覚書」と呼んでいたのである。そして、この「対米覚書」 を米国ワシントン所在の日本大使館野村大使宛てに電報で送付したのは日本時間12月6日である。外務省の日本外交文書のページには 日本外交文書デジタルコレクションがあり、そこから外務省と在外大使館との電報の交信記録等を読むことが出来る。「対米覚書」送付に関する電報は第901号であり、次のことが書かれている。

本省12月6日発
第九O一号
一、政府ニ於テハ十一月二十六日ノ米側提案ニ付慎重廟議ヲ尽シタル結果対米覚書(英文) ヲ決定セリ
二、右覚書ハ長文ナル関係モアリ全部接受セラルルハ明日トナルヤモ知レサルモ刻下ノ情勢ハ極メテ機微ナルモノアルニ付右御受領相成リタルコトハ差当リ厳秘ニ付セラルル様致サレ度シ
三、右覚書ヲ米側ニ提示スル時期ニ付一アハ追テ別ニ電報スヘキモ右別電接到ノ上ハ訓令次第何時ニテモ米側ニ手交シ得ル様文書ノ整理其他予メ万端ノ手配ヲ了シ置カレ度シ

次に第902号として電報で送付している「対米覚書」 の文章が続く。この 第902号には、12月6日午後8時30分発とあるが、編注として全部で14本の電報であり、最終の14本目の発信は7日午後4時であったことが書いてある。日本時間7日午後4時は米国東部時間午前2時である。電報の発信から、到着までの時間はよく分からないが最低でも数時間は要したと思う。そして、外務省からの12月6日付電報904号には「対米覚書」 にはタイピストを使うなと書いてある。

「対米覚書」の機密保持方訓令
本省12月6日発
第九O四号
往電第九O二号ニ関シ申ス迄モナキコト乍ラ本件覚書ヲ準備スルニ当リテハ「タイピスト」等ハ絶対ニ使用セサル様機密保持ニハ此上共慎重ニ慎重ヲ期セラレ度シ

実は、ここまでして野村大使宛てに「対米覚書」を送付し、タイピストを使わずにこの文書を作成したのであるが、宣戦布告とは一言も述べていないのである。交渉決裂を伝える文書であったのである。

英文では、

”The Japanese Government regrets to have to notify hereby the American Government that in view of the attitude of the American Government it cannot but consider that it is impossible to reach an agreement through further negotiations.”

日本語訳では、

「仍テ帝国政府ハ茲ニ合衆国政府ノ態度ニ鑑ミ今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得スト認ムルノ外ナキ旨ヲ合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ」

英語の全文を1941年12月7日在米日本大使館から米国政府宛文書 に掲げておく。なお、「対米覚書」を米側に公布した文書では”Memorandum”と記載していた。

日本軍が真珠湾を攻撃していなかったら、これは単なる交渉上の駆け引きだと思う。しかし、ハル国務長官は、これを受領した時、既に真珠湾攻撃があったことを知らされていたと思うのである。

 

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2019年12月 8日 (日)

太平洋戦争開戦(その1)

今から78年前の今日12月8日に太平洋戦争が始まった。その時のNHKのラジオによる8日午前7時の臨時ニュースが次であった。


 臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。今朝、大本営陸海軍部からこのように発表されました。
ここ にNHKアーカイブ資料の当該ページがあり、当時のラジオ放送を聞くことができます。ノイズ除去がされており当時国民が聞いた放送は、もっと雑音等が多かったと思います。

1) 真珠湾攻撃の時間
上記の臨時ニュースは、本8日未明と述べている。Britannicaのこのページ には、”The first Japanese dive-bomber appeared over Pearl Harbor at 7:55 AM (local time).” とある。真珠湾攻撃の開始時間は、ハワイ時間午前8時前となる。当時のハワイ時間は世界標準時から10時間半前であるので、日本時間はこの午前8時に19.5時間を(10.5+9=19.5)足した27.5時。即ち、日本時間12月8日午前3時30分となる。なお、米国首都ワシントン時間では12月7日午後1時30分となる。

2) 新聞報道
12月9日朝日新聞東京版の記事は、次であった。
Asahi1941129
1面の中央に「宣戦の大詔渙発さる」とあり、その右に「西太平洋に戦闘開始」8日未明西太平洋において戦闘状態に入れり、そして8日の戦闘として4項目が記載しあれている。 ところで、この宣戦の大詔とは天皇陛下の御名御璽(サインと捺印)があり、12人全ての大臣の署名がある日本政府の声明である。なお、現代文への書き下した文章はこのページ が参考になると思う。
「宣戦の大詔」の記事には「情報局8日11時45分」と書いてある。大詔作成の正確な時間は把握していないが、8日午前11時頃と考えて良いのだろうと思う。真珠湾攻撃が日本時間午前3時30分なら、いずれにせよそれ以後である。なお、米国首都ワシントンにおける文書の交付に関しては、次のその2で取り上げる。

3) 米国の日本への宣戦布告

日本への宣戦布告はワシントン時間12月8日上下両院が決議後ルーズベルト大統領は午後4時10分にサインした。日本時間12月9日午前6時10分であった。この両院の日本への宣戦布告決議を求めるルーズベルト大統領演説が12月8日のInfamy Speachである。演説原稿は真珠湾攻撃があった米時間12月7日の夕刻以降何度も推敲がなされ、12月8日午後0:30議会に対してなされた。Infamy Speachは、このTIMEのPage にもあり、動画もついている。なお、Infamyとは悪夢といったような意味でしょうか。”Yesterday, December 7th, 1941—a date which will live in infamy—” という風に演説で使っています。

4) 12月8日東条英機首相演説

12月8日宣戦の大詔と同時に東条首相が行った演説がこのNHKアーカイブ昭和16年12月8日のラジオ(二) 正午の放送より「大詔を拜し奉りて」 であります。

5) 公正な歴史評価

片方の情報だけで判断すると誤ることがある。それ以上に、現に我々が直面している課題や問題の解決に関する知恵を学ぼうとすると、歴史を正しく評価せねばならない。そのためには、多面的な評価が重要である。とりあえず、太平洋戦争を日米双方の資料から少し見て見るべく、何回かのシリーズでブログを書くことにします。

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