2023年3月12日 (日)

21世紀に入ってからは長期低落の日本経済

一つ前のブログ「税と社会保障の国民負担」(このブログ )で、日本の国民所得(NNI:Net National Income)はOECD統計によれば、OECD35カ国中24位であることを書きました。(OECD統計には、EU諸国とEuro諸国という分類もあるが、これらEU諸国とEuro諸国は除外しての順位です。)35カ国中24位とは、上位、中位、下位で分けたなら、下位グループの先頭と言うような感じです。

果たして今後中位から上位、さらには上位グループの先頭に並べるくらいに発展することができるのか、30年前の1990年からの国民所得の各国比較をしてみました。比較する対象は、税と社会保険料合計の比較をした9カ国としました。結果は、次のグラフの通りです。

Oecdnni20233a

一番上の突出しているラインは米国であり、1990年では10,000ドルに満たなかったが、順調に増加してきたのは韓国です。日本は、1990年の時点では悪くなかった。グラフを見ると2000年位までは悪くはなかった。2008年9月にリーマンショックがあったのですが、21世紀に入って日本経済はだんだんと低迷状態となり、リーマンショックではどの国も落ち込んだのであるが、日本はいよいよ落ち込んだ。その後、多少の回復はしたが、低迷は続き、イタリアより2013年-2015年は少し上であったが、2016年にはイタリアより下位となり、2017年には韓国に並ばれて、その後は9カ国中では最下位となっている。

失われた30年なる言葉があり、バブル崩壊後の1990年頃から現在までの約30年間を指すようであるが、実は2000年まではそれほど悪くはなかったと言える。実は2000年からの森内閣、小泉内閣の頃から日本経済は低迷したと言えるように思う。規制改革と言って、市場競争を取り入れるのは良いが、行きすぎた面があれば、成長を阻害する。社会として保護をして、発展に結びつけるような誘導策も必要ではなかったかと思う。日銀の異次元緩和も経済発展には寄与しなかったのではないか。種々の政策を各国の政策と比較し、日本の政策では取り込んでいないものは何か、取り込んでいたらどうなっていたか等を研究し、その研究成果が発表されることを期待したい。

103万円の壁とか130万円の壁と言う言葉を耳にすることが多い。収入を得ても、税と社会保険料を支払わなくて済むという奇妙な特権を残していては、日本社会の経済発展を阻害すると思える。これが正しいとは誰も思わないはずが、存続を希望する人がいると報道されている。誰が、利益を得ているのか?パート労働の女性だと思うかも知れないが、実は低賃金労働により利益を得ている産業が最大の受益者であると思う。一方、日本経済全体で考えてみれば、低付加価値産業から高付加価値産業への転換を阻害していると思う。その結果が、国民所得低位低迷になっている一因と言える気がする。調査・研究をした報告を待ちたいと思う。

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2023年3月 9日 (木)

税と社会保障の国民負担

ポピュリズム政治が進むと政府によるバラマキが増加する。或いは、所得(生産物)の国民への配分を合理的なものにし、社会を発展させるには政府の必要な関与は不可欠であると言える。さあ実態は、どうなのかと言うことで、先日の2月21日に次のニュースがあった。

日経 2月21日 国民負担率、23年度は46% 国民所得拡大で2年連続低下

財務省の発表は、このページです。

1月15日にOECDデータによる税の国際比較というブログを書いたのですが、1月15日のブログでは図3で日本の税と社会保障の負担率は2020年33%とした。今回の負担率は46%となっている。その原因は、母数であり、1月15日はGDPに対する割合を示したのですが、今回の財務省の割合は国民所得(Net National Income)に対する割合で計算していることからの差であります。

GDPが国民所得より大きいのですが、その理由は国民所得の場合、固定資本減耗(すなわち固定資産の減価償却費)を差し引いているからです。それ以外には、国外との利子配当の受取・支払を含んだのが国民所得となるが、金額的にはほとんどが固定資本減耗です。財務省の発表ページに推移を示したこのページ へのLinkがありますが、2021年度を例にとると国民所得は395.9兆円でGDPは550.5兆円。差は154.6兆円です。2021年度の固定資本減耗は138.7兆円でした。差の15.9兆円が海外からの利子・配当金受取純額となる。

33%が正しいのか、46%が正しいのかと言えば、減価償却費相当額を差し引いた国民所得に対する割合が、財務省発表に基準としているように正しいと考えます。昔で言えば、ほぼ五公五民。共産主義なら十公零民かと言えば、全員が公務員だとすれば、公務員給与やボーナスがあるわけで、その分が民になるのであり、五公五民ぐらいかなとも思える。公に分配された分も、社会資本、福祉、教育他民のために使われるのであり、表面的な数字より実態を踏まえた合理的な分析・評価・研究により決定されるべきです。

1月15日のブログはGDPに対する税と社会保険料の割合を示したグラフであったので、OECDデータによるGDPと国民所得に対する割合のグラフを作成しました。

Oecdtax20233a_20230309021601

ところで国民所得(NNI)が所得を表し、重要であることから、OECD加盟国の一人あたり国民所得のグラフを作成しました。日本は24位です。成長戦略をまじめに取り組んでいく必要性を痛感します。(韓国は、日本より上位です。)

Nni20233a

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2023年2月 4日 (土)

映画 「生きる」 大川小学校 津波裁判を戦った人たち

大川小学校の津波裁判を戦った人たちについての上映時間124分の映画が公開されます。公開開始が最も早いのは、新宿K's cinemaで2月18日からです。

映画のHome Pageは、ここ です。

大川小学校では、2011年3月11日の津波により、児童は108名中74名、教員は13名中10名が死亡したと言う余りにも痛ましい災害が発生しました。

私も、ブログで2011年6月5日にこの記事、2015年3月9日にこの記事 、2021年3月28日にこの記事 を書きました。

遺族が、市と県に約23億円の損害賠償を求めた訴訟では、最高裁が2019年10月に、市と県の上告を退ける決定をし、市と県に約14億3600万円の支払いを命じた二審・仙台高裁判決が確定しています。(参考:日経記事 2019年10月11日 、仙台高裁判決文 )

映画に関して、東洋経済Onlineはこの記事を掲載しています。また、裁判で住民側の代理人を務められた吉岡和弘弁護士の弁護士ドットコムのインタビュー記事 2021年3月26日がここにあります。

マニュアルを自分自身の学校に合わせて、見直し・改訂をしないで又その時の災害状況に合わせて適切に対応しなかったことが原因と私は考えるのですが、一方で当然と思える見直し・改訂・適切な対応について実施できなかったのかを考えると、深い問題があるかも知れず、映画を作成された関係者の方々にお礼を申し上げたいと思います。

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2023年1月15日 (日)

OECDデータによる税の国際比較

税は重要である。そして、税について考える場合、税を他の国と比較することで、参考になる情報は多くある。

OECDの統計に、税に関する統計があり、この統計データを利用して、日本、米国、英国、ドイツ、フランス、イタリア、デンマークと韓国の9カ国の税収データについて比較を実施した。その結果をここに報告をしますので、参考にして頂ければと思います。

1) 一人あたりの税額

国の税収を人口で割った金額を米ドル換算して比べてみた。税収額であり、所得税のみならず全税目の税収合計です。更には県民税、市民税等等の地方税を含んでおり、社会保険料(年金や保険料(健康保険、介護保険、失業保険、労災保険等)も個人負担・企業負担を問わず法律で支払義務があるもの) も税としてOECD税収統計はあつかい、税と見做して統計に含めている。なお、OECDデータは各国の通貨建てであったので、為替レートと人口により一人宛あたりの米ドル額を計算して算出した。

9カ国の一人あたりの税額については、次の図1である。OECDの最新税収データは2020年であり、本エントリーでは2020年の税収を比較する。

Oecdtax2020a

図1で、日本の一人あたりの税額は13,195米ドルとなっている。2020年人口と米ドル・円の換算レートをかけていけば、2020年日本の税収額となるが、その結果は177兆3千億円となる。一方、令和5年度政府予算案一般会計の租税・印紙収入は69兆4400億円であある。177兆3千億円は2.5倍以上の金額である。177兆3千億円の内訳は、次の表2であり、財務省の租税収入には含まれない地方税と社会保険料がOECDの税収額には含まれていることがわかる。

次の表2が日本の2020年税収額OECDデータの税分類別内訳である。

Oecdtax2020b

2) 対GDP比による比較

GDPとは、付加価値額の総和であり、各国のGDPに対する税収額を見れば、その国の総平均税率のような指標となる。図3は2020年の対GDP比の各国比較であり、図4は2010年から2020年にかけての過去推移ならびに1990年と2000年のデータです。

Oecdtax2020c

Oecdtax2020d

3) 税目別税収の割合

図1、図3、図4において一人あたりの税収や税収総額のGDP比について比較を行ったが、次に税収に対しての税目の構成比を比較したのが次の図5である。税目は、表2で記載している税目大分類を使った。

Oecdtax2020e

図5を見ると、多くの国で社会保険料の割合が大きいと言える。各国の税目別税収をGDPに対する割合で示したのが、図6である。

Oecdtax2020f

基本的には図5と図6は同じであるが、国別の差は現れている。デンマークは、社会保険料がゼロに近い。しかし、年金等の政府による社会保険制度が存在しないのではなく、年金保険料の徴収がなく、一般財源から社会保障制度の給付を行っている。そのこともあり、所得税の負担はデンマークに於いては大きい。米国は、社会保険料負担が低いと言えるが、その理由には健康保険において民間保険制度を利用している企業・個人が多いからと理解する。

4) 社会保険料の10年間推移

社会保険料は図6に於いてピンク色線で表したが、2010年以後の年次推移を見てみたのが、次の図7である。

Oecdtax2020g

図7を見てもそうであるが、日本はフランス、ドイツ、イタリアと同じようなカテゴリーの国になるような印象を受けます。一方、図3の税収のGDP比からすると日本は33%であり、フランス45%、ドイツ38%、イタリア43%と比べて、日本は5%から12%低いと言える。税が高いことが良いことではないが、国債残高が大きいことは、いずれ税に跳ね返ってくる。国債とは国民の借金である。国の借金だとまやかしを述べている説がある。政府は、国民のために様々な機能により様々なサービスを提供している。税収がなければ、その機能を発揮できない。サービスを低下せざるを得ない。必要な適度な適切なサービスが政府から受けられるように政府を維持していかなくてはならない。そのための税であると私は考える。

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2022年12月31日 (土)

日露戦争 背景その3 ロシア

日露戦争は、当時の記録には明治37・38年戦争と書かれていることは多い。明治になって、さほど経過していない時期の戦争であるとも言えるし、明治新政府が成熟し、世界へ羽ばたく段階に達した時期の戦争であるとも言える。日露戦争を考えるにあたり、ある程度は歴史を遡って、考えてたみるこが必要と思う。

1) ロシアの歴史(キエフ公国)

9世紀の中ごろ、ノルマン系のルーシ(Rus' )と言われた人々が、バルト海沿岸から内陸に向かい、スラヴ人の居住地域に入っていった。ルーシの国であるノヴゴロド国(Novgorod)が862年に建設された。ノヴゴロドはセントペテルブルグから南約170kmのロシア国内に位置し、街とその周辺は、現在UNESCO世界遺産になっている。

ノヴゴロド国の長(大公)となったオレーグ(Oleg)は、ドニエプル川を越え、スモレンスクとキーウを882年に支配下に置いた。これが、キエフ公国(Kievan Rus)として発展し、領土を拡大していった。907年には東ローマ帝国(Byzantine Empire)の首都コンスタンチノープル(Constantinople)に攻め入ったこともある。オレーグの死後、妻オルガ(Olga)がキエフ公国大公となり、954年コンスタンチノープルに出向き、洗礼を受け、ギリシャ正教会信者となり、教会から大公の地位を認められた。978年にウラディミル(Vladimir)が大公となり、988年にギリシア正教を国教とし、国民に信仰・洗礼を義務化し、中世国家として繁栄した。ウクライナのキーウにある聖ソフィア大聖堂も、この時代の1037年に建立されている。しかし、1054年からは、王位をめぐる王家の子弟の争いが始まり、王子たちの間で争いが起こり、やがて内戦も発生した。地方分権・封建制・地主による農民の農奴化・貧困等様々な問題も拡大しキエフ公国の衰退が始まった。

2) ロシアの歴史(モンゴル帝国・タタールのくびき)

キエフ・ルーシ諸侯国から東方は、遊牧民の地域であった。匈奴は、その代表的勢力であったと言え、紀元前33世紀には、匈奴・遊牧民に対する北方防衛を容易とするため秦の始皇帝は万里の長城を建設した。12世紀の中ごろモンゴル高原の各地には多くのモンゴル系、トルコ系の氏族・部族が割拠していた。モンゴル民族の一氏族であるテムジンは1189年ごろモンゴル諸氏族を統一してその盟主に推され、チンギス・ハンの称号を贈られた。

彼は、隣接するタタール他諸部族を服属させ、西方のアルタイ方面のナイマン部族も滅ぼしてモンゴル高原を統一し、支配地域を拡大した。チンギス・ハンは、西方遠征から凱旋後、その領土のうち、遊牧地域は、そこに遊牧する民衆とともにこれを諸子、諸弟に与えた。モンゴル本土は、これを自分の領土として末子のトゥルイに、北西モンゴル高原を第3子オゴタイ(オゴタイ・ハン国)に、中央アジアを第2子チャガタイ(チャガタイ・ハン国)に、南ロシアのキプチャク草原は、将来これを長子のジュチの領土(キプチャク・ハン国)とすることにした。チンギス・ハンは1227年に死亡。

1236年、三男オゴタイ・ハンの命を受けてバトゥはヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、出征した。1237年秋、ルーシ方面に侵攻。1238年2月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガーリチ公ダニールらの帰順を受けた。翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行った。1240年初春にはルーシ南部に侵攻し、キエフ大公国を包囲して同地を攻略・破壊した。当時キエフは大公位を巡ってルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。キプチャク・ハン国は、西方遠征で拡大され、南ロシア一帯まで支配を拡大した。14世紀前半、全盛期となったが同時にイスラーム化が進み、領域内のトルコ系民族が次々と自立した。ロシアも1480年に「タタールのくびき」から脱し、キプチャク・ハン国は1502年に滅亡した。

3) ロシアの歴史(モスクワ大公国)

キエフ公国がモンゴルに滅ぼされてから、ルーシはいくつかの地方政権にわかれ、それぞれキプチャク・ハン国に貢納してその間接的支配を受けることとなった。その地方政権の中で、次第に有力となったのがモスクワ公国であった。1283年、ダニールがモスクワ公となってモスクワを本拠にして次第に領土を拡大させていった。キプチャク・ハン国に対しては臣従の姿勢をしめしてその徴税を請け負い、14世紀前半のイヴァン1世はキプチャク・ハン国の助力を得て、宿敵トベーリを圧倒し、モスクワを北東ロシア最強の国とした。14世紀後半ドミトリー・ドンスコイ公はキプチャク・ハン国の支配に反旗を翻し、一時ロシアを独立させた。15世紀に入ると内乱に悩まされたが、イワン3世(大帝)の治世には、キプチャク・ハン国からの最終的独立が達成され、大公権が強化され、東ロシアのほとんどがモスクワの支配に服した。大公国の発展は、16世紀中頃イワン4世(イワン雷帝)治世に成立するモスクワ帝国によって継承された。カザン・ハン国、アストラハン・ハン国を併合し、さらにボリス・ゴドゥノフに命じ、コサック(騎馬隊)のイェルマークに、西シベリアのシビル・ハン国を制圧させた。農民の移動を禁止し、農奴制を強化したが、度重なる戦乱で財政は疲弊、重税に苦しむ農民逃亡者も多数発生した。

4) ロシアの歴史(ロマノフ朝)

1584年にイヴァン4世が死去すると、貴族間の抗争が続いて混乱し動乱の時代となった。ポーランドの介入もあってモスクワは危機に陥ったが貴族連合がポーランド勢を撃退して、新たにミハイル・ロマノフをツァーリに選出し、ロマノフ朝が始まった。

1613年に成立したロマノフ朝は、モスクワ大公国の貴族層が、その共同の利害を代表するものとして16歳のミハイル・ロマノフが皇帝に選出されて始まり、当初は貴族の共同統治という面が強かったが、1670年に農民反乱ステンカ・ラージンの反乱を鎮圧して、農奴制の強化に成功した。また徐々に西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制の国から官僚制・常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌していった。

1712年には、西欧諸国に互していくためにバルト海に進出する必要があると考え、バルト海沿岸に面した新都のペテルブルクを建設し、遷都した。東方ではシベリア進出を推し進め、1689年に清の康煕帝との間でネルチンスク条約を締結してた。またベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ロシアの東方進出の足がかりを作った。南方ではオスマン帝国からアゾフを獲得し、黒海方面への突破口としいわゆる南下政策を開始した。このピョートル大帝の時が実質的なロシアの出発点であり、後のロシア帝国の繁栄、それを領土的には継承したソ連邦、そして現在のロシア連邦のもととなったといえる。「ルーシ」に代わって「ロシア」が正式な国号となるのもこの頃である。

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2022年12月17日 (土)

防衛費2.6倍がムードや雰囲気で決まってしまう気がする

日本の防衛に関する方針が閣議決定されている。重要なことなのだが、国民の間での、議論はできていないと確信するのである。

日経 12月16日 岸田首相「防衛力強化が外交の説得力に」 記者会見

岸田内閣総理大臣記者会見 令和4年12月16日

閣議決定したのは、来年度から5年間の防衛力整備計画における総額を約43兆円とし、現行計画の約27兆円の約1.6倍にするということである。ところで、令和4年度の防衛費と呼ばれる防衛省所管の支出予算は5兆3687億円である。このうち人件・糧食比が2兆1881億円で、物件費が3兆2915億円となっている。ところが、防衛力整備計画には、43兆円について「新たに必要となる事業に係る契約額(物件費)は、43 兆5,000 億円程度(維持整備等の事業効率化に資する契約の計画期間外の支払相当額を除く)」と書いてある。なお、12月16日閣議決定の中期防衛力整備計画はここにあります。

私の算数によれば、43 兆5,000 億円の5年間平均は8兆6000億円になり、3兆2915億円の何と2.6倍以上になるのである。そりょあ、無茶苦茶な国民に対する騙しだろうと言いたい。

日本国民の一致した信念は、平和主義であると確信する。即ち、対話を優先し、文は武よりも強しであり、武器・軍事力よりも強いものがある。ウクライナは、人口が自国の3.5倍もあるロシアと戦って負けてはいない。両国の軍事力が拮抗しているからでもなく、やはり外交戦略でウクライナが1枚上手であると言えると思う。

日本に対してウクライナの状況をあてはめるのは間違いであり、日本は日本の方針・戦略を持つべきである。第2次大戦でアジアを戦場に巻き込んだ日本であるが、逆にそれを踏まえて、同じ目線に立って平和戦略を考えることもできるはずである。武器に金を使うなら、その金の一部を周辺国や世界との平和追求のための組織作り支援に充てた方が、よほど平和に貢献すると考える。

このNHKニュース 12月15日は、「安全保障関連の文書をめぐって、有識者らで作るグループが抑止力に頼らない政策などを盛り込んだ提言を発表しました。」と報道している。この会議のYou Tubeが次のアドレスにあり、興味深い内容が語られている。

https://youtu.be/1xR6BinP1Ks

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2022年12月 7日 (水)

原発対応を含め災害対応庁の新設はどうか

9月2日のこのブログ で、岸田首相が「原子力発電所については、再稼働済み10機の稼働確保に加え、設置許可済みの原発再稼働に向け、国が前面に立ってあらゆる対応を採ってまいります。」と述べたことを紹介したが、最近は化石燃料の価格の高騰による電気料金上昇やこの冬の電力需給逼迫の懸念もあり、原発再稼働やこの11月28日日経ニュースのように廃止が決まった原発の建て替え案も浮上している。

福島原発事故で、私が思ったのは、日本そのものの脆弱性についてである。日本の和歌や古文は日本の自然の美しさを讃え、喜び、日本に生まれ生きていることの感激を述べているものが多い。一方、現代人は自然科学や社会科学を持っている。科学的な研究、調査、分析、思考等様々な方法を駆使して、豊かな社会や生活を実現していく努力を継続すべきである。ところが、日本は、特に日本の制度は、十分に合理的とは言えず、改善すべきことは多いと考える。原発について考えるなら、現状の制度や仕組みのままで良いのかも、十分考えるべきである。

1) 福島事故菅直人現地視察の謎

首相ともあろうお方が、事故翌日の3月12日の午前7時11分から約1時間近く福島第一原発を視察・訪問している(参考:この共同通信:津村一史の記録(YahooNews) )。午後3時16分に1号機の水素爆発があったので、それは約7時間後のことであった。津波による全電源喪失が15時37分だったから、電源喪失から爆発までほぼ24時間。

そのような原発が爆発する危険を承知で首相は現場に行ったのではないはず。無知はあったかも知れないが、正確な情報や分析結果が届いていなかったのか、官邸主導だと言って聞く耳を持たなかったのか、それとも妥当な分析やシミュレーションが実施されていなかったのか、原因は不明である。「安全が確認された原発」という不思議な言葉を耳にする。100%の安全はあり得ない。何故なら人間だからである。人間だからこそ、漏れは否が応でも出てしまう。しかし、人間だからこそ、漏れに対しても臨機応変な対応もあり得るのである。

あえて一言言うなら、原発を運転する電力会社に全ての責任を押しつけるのは間違いである。当時、官房長官は電力会社に責任があると言い続けていたことを思い出す。この資源エネルギー庁の説明地図によれば、原発で現在稼働中は7基、停止中3基、設置変更許可7基、審査中10基、未申請9基で国内に36基の原発がある。電力会社(発電会社)の数では11社である。これらの原発を安全に管理・運転するための役所を作ってはと思う。

2) 災害対応庁の新設

米国FEMAを思うのであるが、FEMAは災害に関して大きな権限を持つ役所である。日本には、これに該当する役所がない。災害は、消防・地方自治体・総務省・国交省の担当であるのだろうか?災害対応は市町村役場の対応のようになっている面があるが、余りにも不透明と思う。災害への対応とは、災害発生前から発生時のシミュレーションを行い、対応を考え、計画することからスタートする。市町村・都道府県レベルより大きい国レベルの検討・対策・対応が必要である。なお、市町村・都道府県の役割は重要である。市町村・都道府県に責任を押しつけても最善の結果は生まれないのである。災害対応庁をつくれば、合理的な災害対応が計れると考える。

運転を止めても原発の使用済み核燃料や高濃度を含め放射性廃棄物は存在する。どのような体制でどう管理するのか、リスクは残り続ける。災害リスクは政治家に行くのではない。国民に行くのである。原子力災害を含め全ての災害は、国民に対するリスクである。

NHKは、このWebページで、原発運転延長との題で、様々な論点を述べている。原発運転延長が議論されるなら、その議論の中で、原発事故対応や政府の組織・権限のあり方、事業者の解体・再編を含めた合理的な仕組み構築を含めた検討をすべきと考える。

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2022年10月20日 (木)

条約から見た幕末史

日露戦争に関しての前回のブログ の「背景その2 朝鮮半島」の中で、日米和親条約、日米修好通商条約他1854年(安政元年)から1876年(明治9年)の間に日本が締結した22の条約を列記した。 この22の条約の中で、次の5つの条約が安政5か国条約と呼ばれ、不平等条約と言われることが多い。本当にそうであるのか、条約文を読んで、考えてみたい。

1) 安政5か国条約

安政5か国条約と呼ばれるのは、次の5条約である。

米国 1858年7月29日 日本国米利堅合衆国修好通商条約
ロシア 1858年8月7日 日本国露西亜国修好通商条約
オランダ 1858年8月18日 日本和蘭修好通商条約
大英帝国 1858年8月26日 日本国大不列顛国修好通商条約
フランス 1858年10月9日 日本国仏蘭西国修好通商条約

安政5か国条約は全て1858年である。ペリーがフィルモア大統領(Millard Fillmore)の国書を持参して浦賀へ来航したのが、この5年前の1953年である。翌年1954年1月にペリーは再来航し、3月に日米和親条約(神奈川条約)の締結となった。しかし、大統領国書にあった友好、石炭と必需品の供給、遭難者の保護は、日米和親条約で取り決められたが、貿易については触れられていなかった。貿易に関する条約締結には修好通商条約(安政5か国条約)まで、更に4年を要したのである。

2) 日米和親条約締結・日米修好通商条約への道のり

1840年・41年の英・中国(清)間のアヘン戦争、そしてその結果としての1942年の南京条約が、一番大きな理由と考える。17世紀末から清ではアヘンは禁止となっていたが、英国商人や清の密輸販売組織は無視する中、アヘン・ビジネスは拡大し、中毒患者の拡大を始め社会的問題も発生することとなっていった。清政府にるアヘン押収と言う対策に対して、英国は海軍を派遣し対立は大きくなっていった。そして、武力衝突・戦争となった。結果は、清の敗北であり、1842年8月南京条約が締結された。

1842年南京条約の結果、清は、アヘンの賠償金600万ドルを含め合計2100万ドル(銀貨600万枚)の支払、香港島の割譲、広州・福州・厦門・寧波・上海の5港開港、5%一律の関税率適用等に合意することとなった。なお、アヘン禁止条項は南京条約には記載されず、盛り込まれなかった。南京条約の後は、これに次いで、清・米間で1844年に望厦条約、清・仏間で1844年に黄埔条約の締結となった。

ペリー来航の9年前1844年、日本には、オランダ国王ウィレム2世から徳川将軍あての国書を持参した特使コープスが来航した。内容は、日本がこのまま鎖国を続ければ西欧諸国と摩擦が生じ、アヘン戦争で惨敗した清国のようになる恐れがあるとの開国の勧告であった。長崎出島のオランダ商館長からの情報「阿片招禍録」、中国人魏源の「海国図志」等によっても情報は徳川幕府中枢には届いていた。1853年ペリー来航、1854年3月に日米和親条約(神奈川条約)の締結となった。

1956年9月に初代駐日米国総領事ハリスが着任した。ハリス総領事は、国際情勢の変化や貿易による日本の利益についての説明・説得を行い、1858年7月29日江戸湾の合衆国軍艦ポーハタン号上での日米修好通商条約締結となった。

3) 日米修好通商条約での領事裁判権

条約で、どのように定めたかを調べてみる。なお、日米修好通商条約の条約文は、明治7年と明治17年に条約類纂が外務省により発行されており、これら条約類纂から引用する。なお、本記事における条約文は全て条約類纂からの引用である。

F

第6条が領事裁判権に関する条文であり、英文では次の通りである。

Americans, committing offenses against Japanese, shall be tried in American consular courts, and when found guilty shall be punished according to American law.
Japanese, committing offenses against Americans, shall be tried by the Japanese authorities, and punished according to Japanese law.
The consular courts shall be open to Japanese creditors, to enable them, to recover their just claims against American citizens, and the Japanese courts shall in like manner be open, to American citizens for the recovery of their just claims against Japanese.
All claims for forfeitures or penalties for violations of this treaty or of the articles, regulating trade, which are appended hereunto, shall be sued for in the consular courts, and all recoveries shall be delivered to the Japanese authorities.
Neither the Americans or Japanese governments are to be held responsible for the payment of any debts, contracted by their respective citizens or subjects.

米国人は法令違反があっても米国領事館に裁判権がある。変かも知れないが、開国後においても相手国の法や裁判制度を理解できない状態では、相手国官警の逮捕権・裁判権等を認め、居住・活動する自国民が相手国の法制度により処罰されることを受入れることは困難と考える。日米和親条約で、下田・函館に加え、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の4港を開港(第3条)し、第7条では通行の自由を定めたが、10里以内の範囲としたり、神奈川では六郷川筋より江戸方面の立ち入り禁止や京都10里以内立ち入り禁止を定めた。なお、通商目的での江戸または大坂での居住は、それぞれ1862年1月と1863年1月以降は可能とした。但し、日米とも外交官や領事の公務目的の旅行・滞在は双方とも自由とした。

一方、日本人が米国人に対して法を犯した場合については、日本の役人が日本の法度により罰するとした。また、重大な罪(felony・重立たる悪事)を犯した場合は、行動範囲を1里以内とし、日本の奉行所は国外退去を命じることができるとした。

当時の貿易とは、国際郵便・電報もなく、貿易商が相手国に駐在し、持ち込んだ商品を相手国で販売する方法であったと考える。この場合、相手国の輸入通関した港の近くに商館を設けビジネスをする方法であり、相手国に駐在する必要がある。身の安全が保証されていないとビジネスを安心してできない。

領事裁判権が永遠に続くわけではないと考えるし、特別規定はいずれ消滅するはずである。日米地位協定に於いては「合衆国の軍当局が、合衆国軍隊の構成員又は軍属に対して、公務執行中の作為又は不作為から生ずる罪については、 裁判権を行使する第一次の権利を有する。」としている。

日米修好通商条約の領事裁判権について、日本側が受け入れなかった場合は、条約の締結は困難を伴ったと思う。

4) 興味ある条文

4-1) 大麻輸入禁止

第4条の中で、大麻の輸入禁止は定められた。

 The importation of opium is prohibited, and any American vessel coming to Japan, for the purposes of trade, having more than (3) three catties [三斤](four pounds avoirdupois){1.8kgに相当する}weight of opium on board, such surplus quantity shall be seized and destroyed by the Japanese authorities.

4-2) 金貨・銀貨は重量を基準とする

第5条では、金貨・銀貨は同種・同重量での交換と規定し、輸出は可能とした。貿易のための通貨となった。なお、金銀の交換割合については、この条約では取り決めなし。

 All foreign coin shall be current in Japan, and pass for its corresponding weight of Japanese coin of the same description.
Americans and Japanese may freely use foreign coins in making payments to each other.
-----
Coins of all descriptions (with the exception of Japanese copper coin) may be exported from Japan, and foreign gold and silver uncoined.

4-3) 信仰・宗教の自由

第8条では信仰・宗教の自由についても記載された。

 Americans in Japan shall be allowed the free exercise of their religion, and for this purpose shall have the right, to erect suitable places of worship. No injury shall be done to such buildings, nor any insult be offered to the religious worship of the Americans.
American citizens shall not injure any Japanese temple or mia, or offer any insult or injury to Japanese religious ceremonies, or to the objects of their worship.
The Americans and Japanese shall not do anything, that may be calculated to excite religious animosity. The government of Japan has already abolished the practice of trampling on religious emblems.

この第8条を読むと、当時の幕府のトップの人達は宗教の自由という概念の重要性に気づいていたように感じる。踏み絵のことを英語で”trampling on religious emblems ”と呼ぶのは、初めて知りました。

4-4) 軍艦・大砲・武器類の購入権

次の条文が第10条である。

 The Japanese government may purchase or construct in the United States, ships of war, steamers, merchant ships, cannon, munitions of war, and arms of all kinds, and any other things it may require. It shall have the right to engage in the United States, scientific, naval and military men, artisans of all kinds, and mariners to enter into its service. All purchases made for the government of Japan, may be exported from the United States, and all persons engaged for its service may freely depart from the United States, Provided.- That no articles that are contraband of war shall be exported, nor any persons engaged to act in a naval or military capacity, while Japan shall be at war with any power in amity with the United States.

日本政府は、米国において軍艦、蒸気船、商船、大砲や武器類の建造、購入を可能とし、技師・軍人・職工の雇用と出国は可能であるとした。幕府は、米国の軍艦、大砲、ライフル、砲弾等を購入することができるようになった。

また、第3条においても武器取引は幕府にのみ販売可能とした。和文の条約文では「軍用の諸物は日本役所の外へ売るへからず」となっている。国内における食糧供給は優先事項と考えたからと思うが米と麦の輸出禁止も盛り込んでいる。

 Munitions of war shall only be sold to the Japanese government and foreigners.
No rice or wheat shall be exported from Japan as cargo, but all Americans resident in Japan, and ships for their crews and passengers, shall be furnished with sufficient supplies of the same.

5) 関税

日米修好通商条約第4条に、関税は日本への輸入品ならびに日本からの輸出品に課され、日本政府へ納付され、その関税率は附属関税率表によるとある。

 Duties shall be paid to the government of Japan, on all goods landed in the country, and on all articles of Japanese production, that are exported as cargo, according to the tariff hereunto appended.

輸入関税については、品目を4種類に分けている。

(1) 免税: 金貨・銀貨、地金、居留者の衣服、家具、書籍、その他居住必要品
(2)  5%: 船舶建造・修理用品、捕鯨用品、塩蔵食料、パン、鳥獣類、石炭、木材、米、トタン、鉛、錫、生絹、蒸気機械
(3)  35%: 酒類
(4) 20%: (1)から(3)に含まれないその他の品目

日本からの輸出品は5%とする。但し、金貨・銀貨、地金は適用外。

貿易協定は現代でも存在するし、世界全体、地域、国の発展に寄与するものであり、合理的な地球規模での発展に貿易協定は欠かせない。また、その範囲は物品のみならず、サービスは勿論IT分野においても重要である。日米貿易協定において日本は牛肉・豚肉の関税削減を約束したり、米国が機械類の関税削減に約束したりしている。修好通商条約は、貿易協定であり、貿易協定の中で関税率について取り決めをすることについて、関税自主権の放棄と言うには、やはり言いすぎであると考える。ある国に貿易協定を結び、特恵関税を認めることもある。

輸出についても関税5%を規定しているが、貿易商が米国商人または商社であり、輸出も彼らが日本人から買い付け輸出するのであるから、幕府が輸出関税を課しても良いように思うし、さもなければ輸出入に関する正確な統計の把握さえ困難であったと思う。開港する港を限定し、貿易商の居留地を限定し、必要な申告させる。外国貿易を始めるにあたり、立派な条約を締結したことと感心してしまう。

6) 1866年改税約書

1866年6月25日に改税約書(英文名:Tariff Convention)が日本と英・仏・米・蘭の4カ国との間で調印された。この改税約書の合意こそ不平等な条件で幕府は締結させられたと言える。

6-1) 改税約書の関税率

関税率表は品目を第1種から第4種までに分類している。

第1種は重量や長さ等により一文銀で関税を幾らと規定し、品目の計量単位を基準に関税額を定めている。輸入関税の場合、例えば、白砂糖は第1種の品目であり100斤(60kg)あたり銀貨0.75分(11.25匁=42.19グラム)と言った様な表である。第2種は、免税品であり、安政5カ国条約では、通貨として使用する金・銀と外国人の日本滞在用持ち込み品に限られていたが、改税条約では免税品目が増加し、多くの物品が免税品となっており、その中には、食用、家畜用の獣類、石炭、米麦等穀類及び穀物粉、塩等が含まれ、関税ゼロとなっている。第3種は禁製品であり、アヘンのみが記載されている。第4種は5%の関税率対象であり、大部分が第4種になると思われる。なお、酒類が第4種に含まれており、安政5カ国条約での35%から5%になり、他の大部分の品も20%から5%になってしまったのである。

輸出関税も第1種から第4種まであり、例えば、干しエビは100斤あたり銀貨1.8分(12匁=45グラム)、絹生糸は100斤あたり銀貨75分となっている。第2種の免税品は金・銀・銅。第3種の輸出禁制品は米・麦・硝石である。第4種はその他の品目であり、5%の輸出関税となっている。

安政5カ国条約と改税約書の関税率を比較すると、分類の差もあり、計量単位基準もあるので、比較は容易ではない。しかし、第4種のその他のカテゴリーで20%の税率が5%に下がっており、概ね、関税率は4分の1に下がったと言えるのではと思う。国内産業の保護や政府財政収入の面では、低すぎる輸入関税率は好ましくない。関税率が貿易協定での取り決めである場合、改定には相手国 との交渉が必要である。5%の輸入関税率は低すぎると思えるが、そうならば、関税自主権の喪失は、安政5カ国条約よりも、改税約書でこそ関税自主権の喪失と言える。

交渉の結果について、評価することは、容易ではない。例えば、日米貿易交渉で車について日本は関税ゼロに対し米国は2.5%であり、牛肉は25.8%(セーフガード超過分は38.5%)と言ったように。様々な要素がからみあっており、単純ではないが。

6-2) 改税約書締結の理由

改税約書の条約文は次の文で始まっている。即ち、1865年11月に大阪で日本政府が輸出入の関税率を5%に変更することに対しての書面合意を条約書として作成すると記載されている。

The representatives of Great Britain, France the United States of America and Hollande, ------
 And the Japanese Government having given the said Representatives, during their visit to Osaka in November 1865, a written engagement to proceed immediately to the Revision of Tariff in question, on the general basis of a duty of five per cent on the value of all articles Imported or Exported;

1865年11月の合意とは、英・仏・蘭の連合艦隊が兵庫沖に侵入し、軍事力を背景に安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件において幕府より取り付けた合意のこと。米国は艦隊を派遣しなかったが公使は同行しており、四カ国艦隊摂海侵入事件とも呼ばれる。

6-3) 下関取り決め書(Shimonoseki Convention)

四カ国艦隊摂海侵入事件での合意が改税約書の中に記載されているが、背景は、下関戦争と呼ばれる1863年と1864年に起こった長州藩による関門海峡の砲撃・封鎖そして、襲撃に対する英・仏・米・蘭の4カ国の軍艦による報復と賠償請求ならびに下関戦争での勝利を利用しての4カ国の日本での勢力拡大である。力の差は、歴然としており、長州の弱さ、幕府の統制力の欠如、4カ国の軍事力の強さを示した。

その結果結ばれたのが、1864年10月22日の下関取り決め書(Shimonoseki Convention)であり、条約文は次の様になっている。


SHIMONOSEKI CONVENTION

The representatives of Great Britain, France, the United States, and the Netherlands, in view of the hostile acts of Mori Daizen, Prince of Nagato and Suwo, which were assuming such formidable proportions as to make it difficult for the Tycoon faithfully to observe the Treaties, having been obliged to send their combined forces to the straits of Shimonoseki, in order to destroy the batteries erected by that Daimio for the destruction of foreign vessels and stoppage of trade; and the Government of Tycoon, on whom devolved the duty of chastising
This rebellious Prince, being held responsible for any damage resulting to the interests of Treaty Powers, as well as the expenses occasioned by the expedition.
The Undersigned Representatives of Treaty Powers, and Sakai Hida no Kami, a member of the Second Council, invested with plenipotentiary powers by Tycoon of Japan, animated with the desire to put an end to all reclamations concerning the acts of aggression and hostility committed by the said Mori Daizen, since the first of these acts, in June 1863, against the flags of divers Treaty Powers, and at the same time to regulate definitively the question of indemnities of war, of whatever kind; in respect to the allied expedition to Shimonoseki, have agreed and determined upon the four Articles following: -

I
The amount payable to the four Powers is fixed at 3,000,000 dollars. This sum to include all claims, of whatever nature, for past aggressions on the part of the Prince of Nagato, whether indemnities, ransom for Shimonoseki, or expenses entailed by the operations of the allied squadrons.

II

The whole sum to be payable quarterly in installments of one-sixth, or 500,000 dollars, to begin from the date when the Representatives of said Powers shall make known to the Tycoon’s Government the ratification of this Convention and the instructions of their respective Governments.

III

Inasmuch as the receipt of money has never been object of the said Powers, but the establishment of better relations with Japan, and the desire to place these on a more satisfactory and mutually advantageous footing is still the leading object in view, therefore, if His Majesty the Tycoon wishes to offer in lieu of payment of the sum claimed, and as a material compensation for loss and injury sustained, the opening of Shimonoseki, or some other eligible port in the Inland Sea, it shall be at the option of the said foreign Governments to accept the same, or insist on the payment of the indemnity in money under the conditions above stipulated.

(注) 米国は、1883年に受領した賠償金785,000ドルを返還したと脚注がある。

外国船を襲撃する。襲撃された方からすれば、黙って見過ごすわけにはいかない。外国は幕府を日本政府と認め、平和条約・貿易条約を締結した。航行を妨げられ、砲撃を受けたなら、戦争となっても不思議ではない。反乱軍を打ち負かし、相手政府に善処を要求する。アヘン戦争のことを考えたら、更に酷い厳しい条件を呑まされる可能性もあったのではと思う。

幕末の歴史が複雑なのは、長州藩は当初から幕府転覆を謀っていたのだろうと思うことである。長州藩上層部も和親条約や修好通商条約の内容は勿論、世界情勢についても知識があったはず。吉田松陰が開いた松下村塾で多くの長州藩士は海外の知識を得ていた。また、国内の開国反対論の勢力についても十分知っていた。そのような中で、下関戦争を始めた。1866年6月に改税約書が締結されたが、この年1月には薩長同盟が形成されていた。薩長同盟の恐ろしさには、長州による英国の長崎グラバー商会から1866年7月最新式ライフル購入である。ミニエー銃4300挺とゲベール銃3000挺を薩摩藩名義で購入し、坂本龍馬の亀山社中が長州に運搬した。密輸であり、完全な条約違反である。幕府は第2次長州戦争を始めたが勝利できず。1866年8月将軍家茂が大阪城で死去。1867年1月に慶喜が将軍に就任し、この年の11月に大政奉還となった。そして、その2月後の1868年1月鳥羽・伏見の戦いが起こった。ミニエー銃を持った長州軍は強かった。

長州軍のミニエー銃はグラバー商会による密輸であった。しかし、英国政府は実態を知っていたはずであり、同様に米・仏・蘭も情報を正確に把握していたと思う。日本が国際舞台に入っていく過程の歴史だったと考える。

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2022年9月24日 (土)

日露戦争 背景その2 朝鮮半島

日本列島に人が住み始めた頃より、交流があり、往来があったのは、朝鮮半島の人々と日本列島に住んでいた人々の間であった。中国の隆盛と衰退を繰り返す巨大な王朝の文化・物質が日本にもたらされたのは朝鮮列島を通じてであった。日本と朝鮮半島は長い歴史的な関係がある。

1 朝鮮王朝

高麗の武官であった李成桂が、高麗王を廃位せしめ、新しい政権を作り1392年に王位についた。第3代太宗の時の1403年、明の永楽帝から冊封をうけて朝鮮王国として明から認められた。日本の韓国併合まで続いたと考えると518年間の長期朝鮮王朝の時代である。このページはTV東京の韓流ドラマ朝鮮王朝略系図である。眺めてみるのも興味深い。

朝鮮王は、明皇帝から冊封を認められ、冊封を受けた。朝鮮国は朝鮮王が支配する自治国であると明は認めたと同時に皇帝は明の皇帝であり、形式的には朝鮮は明皇帝の支配する地域に属する形である。

中国では、17世紀にはいると東北方面の女真族が勢力を増し、1616年にはヌルハチが後金を建国。1636年に清と改めた。朝鮮王朝は、清を認めず、明朝皇帝を推戴する姿勢を見せ、これを不快に思った清は朝鮮に侵攻した。時の仁祖は漢城の南の南漢山城に拠って抵抗したが、1637年降伏し、清を宗主国として従属することとなり、冊封国となった。明は、李自成の乱によって、明の崇禎帝が死んで滅んだ。清は李自成を破り、1644年に都を盛京から北京に移し中国支配を開始した。

2 欧米諸国のアジア進出

18世紀末英国東インド会社がベンガル地方での採取に係わるアヘンの専売権を獲得し、中国(清)への輸出に乗り出した。清朝政府は1796年には輸入禁止とし、密貿易となったが、拡大を続け、英国に富をもたらした。そして、1840年には清・英間の アヘン戦争となった。アヘン戦争は英国の勝利となり、1842年の南京条約が締結され、英国への2100万ドルの支払、広州、福州、厦門、寧波、上海の5港の開港、香港島の割譲、輸入関税一律5%等が取り決められた。米国とフランスは英国の南京条約締結を受けて、清と交渉し、1844年に望厦条約と黄埔条約を締結した。

清国内では、1851年に、洪秀全が組織した拝上帝会が「太平天国」を称した。1856年に、英・仏とアロー戦争が起こったが、太平天国の乱と同時進行での戦いであった。アロー戦争の結果は1858年の天津条約となったが、批准交換使節の入京に際して紛争が生じ、1860年英・仏軍は北京を占領し、11月にロシアの調停の下に、更に英仏に有利な北京条約が締結された。

日本においては1853年の米国ペリー艦隊の浦賀到着・開国要求を契機とし徳川幕府は開国政策へと大きな政策転換を行ったのである。それはペリーが浦賀沖で空砲による威嚇や測量を行ったりしたこによる威圧に屈したということより、アヘン戦争や南京条約そして望厦条約や黄埔条約の締結を始めとする中国情勢の情報を幕府は保有しおり、欧米諸国によるアジア進出の情勢分析ができていたからだと思う。

日本が締結した条約をまとめてみた。1867年11月10日(当時の暦では慶応3年10月14日になる)が大政奉還であり、スウェーデン・ノルウェイ王国以後の条約が明治新政府により締結された条約である。

米国 1854年3月 日米和親条約
大英帝国 1854年10月 約定(日英和親条約)
ロシア 1855年2月7日 下田条約
オランダ 1856年1月30日 日蘭条約書
米国 1858年7月29日 修好通商条約
ロシア 1958年8月7日 修好通商条約
オランダ 1858年8月18日 修好通商条約
大英帝国 1858年8月26日 修好通商条約
フランス 1858年10月9日 修好通商条約
ポルトガル 1860年8月3日 修好通商条約
ドイツ 1861年1月24日 修好通商条約
スイス 1864年2月6日 修好通商条約
ベルギー 1866年8月1日 修好通商条約
イタリア 1866年8月25日 修好通商条約
デンマーク 1867年1月12日 修好通商条約
スウェーデン・ノルウェイ 1868年11月11日 修好通商条約
スペイン 1868年11月12日 修好通商条約
オーストリア 1869年10月18日 修好通商条約
ハワイ 1871年8月19日 修好通商条約
1871年9月18日 修好条規
ペルー 1873年8月21日 修好通商条約
朝鮮 1876年2月26日 修好条規

3 朝鮮の開国

冊封体制の宗主国である清はアヘン戦争やアロー戦争で南京条約、望厦条約、黄埔条約を締結させられ、更に天津条約、北京条約により賠償金の支払い、追加の開港、領土の割譲等が拡大していった。朝鮮も欧米各国から開国を要求されたが、鎖国政策を堅持した時期もあった。1866年のフランスとの丙寅洋擾や、同じ1866年に米国船ジェネラル・シャーマン号事件が発生。アメリカ政府は、ジェネラル・シャーマン号事件に対して朝鮮政府の責任追及と通商を認めさせるため、1871年に艦隊を派遣し、5月から7月にかけて江華島で朝鮮の軍隊とアメリカの艦隊との戦闘である辛未洋擾が発生。朝鮮は通商を拒否し、アメリカ艦隊と朝鮮軍が砲撃戦になり、更にその後アメリカ軍が江華島に上陸して白兵戦となり、朝鮮側に大きな被害が出たが、やがてアメリカ艦隊は引き上げ、朝鮮は引き続き鎖国体制を維持した。(江華島とは、現在の仁川国際空港のすぐ北の島であり、江華水域は朝鮮の首都漢城(ソウル)に通じる要衝にあたる。)

1875年に江華島で日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件と呼ぶ戦闘・武力衝突事件があった。9月20日に日本の軍艦雲揚号(約250トン)が朝鮮の江華水域に入ったとき、江華島の草芝鎮から砲撃を受け、日本側はこれに応戦し、損害を与えた。事件の背景には、日本の明治維新に伴う日朝両国関係の行き詰まりがあった。書契問題である。〈皇〉〈勅〉などの文字を用いた外交文書(書契)は、〈皇〉〈勅〉が朝鮮にとって清の皇帝を意味するものと考えられることから、大院君政権は、書契の受理を拒絶していた。1873年には大院君が政権を奪われ閔(びん)氏に政権が移ったが朝鮮側の対応は変わらず、7年間膠着状態が続いた。そこで日本政府は,雲揚号,第二丁卯号などの軍艦を朝鮮沿岸に派遣して圧力を加え、事態を打開しようとし、事件はこの結果起きた。この事件以後、朝鮮の閔氏政権は朴珪寿らの努力で大院君ら鎖国攘夷(衛正斥邪)派の反対を押しきって日本との復交を図り、1876年2月に江華府において日朝修好条規(江華条約)を締結した。

1882年には英国、米国、フランスとも修好条約を締結し、1884年にロシアと条約を締結した。

4 日清戦争

朝鮮王朝国は開国に至ったものの、独立国として自ら近代化を進めることにより諸外国に劣らない力を付けていくべきと考える開化派と、清国の庇護によって国を守っていくべきだと考える守旧派が存在し、内部抗争は継続した。1882年7月に開化派の動きと日本の姿勢に不満を持つ旧軍と民衆よる開化派の要人殺害や、初代駐朝鮮特命全権公使花房義質が襲撃される壬午事変が発生。その結果、1882年8月に済物浦条約が日朝で締結され、その内容には、公使館警護のための日本軍の首都漢城(ソウル)への常駐、朝鮮政府による賠償金の支払い、朝鮮政府による事変についての謝罪などといった日本側の要求事項を盛り込んでいる。

一方、壬午事変の鎮圧における清軍の影響力は大きかった。結果、清に対する依存度は強くなった。開化派は1884年12月に、日本の支援を期待して、甲申政変を起こしたが、即座に清国軍が新政府を攻撃して政変を鎮圧した。この時、日清間での戦争への危険性が高まったが、1885年4月に両国は天津条約を締結し、朝鮮からの双方の撤兵が決まった。しかし、朝鮮の朝廷での政治的混乱は終わらず、日清両国の警戒は続いた。一方で、朝鮮政府は独立国家として各国との関係を築こうとするようになり、ロシアへの接近をはかったほか、欧米各国に公使を派遣するなどした。清は、朝鮮の外交に対する監督を厳しくし、欧米各国との交流とが並行する中で、朝鮮ではさまざまな近代化政策が進められることとなったが、1890年代に入るころには次第に財政が厳しくなってきた。増税や役人の不正の蔓延等が広まり、その中で全羅道の古阜郡の農民たちが起こした武装蜂起が拡大し、甲午農民戦争が勃発、1894年の3月頃に全羅道から始まり、やがて朝鮮全土に拡大した。

1894年6月3日朝鮮政府は、自らの手で鎮圧することは難しいと、清国に対して出兵要請を行った。日本政府も6月2日に現地の日本人の保護を名目として軍隊を派遣を決定した。6月11日に朝鮮政府と農民軍との間で全州和約が締結され終息したことによって、日清共に朝鮮国内に軍隊を駐留させておく根拠が失われたとして、朝鮮政府からは両国に対して撤兵が要求された。日本政府は清国政府に対し、朝鮮の内政の改革を日清両国が共同で行い、この間は両国の軍隊を朝鮮内にとどめること、もし清国が合意しなければ日本が単独で行うと提案をし、清国は、農民蜂起が既に鎮圧されている以上まずは撤兵すべきであり、朝鮮の内政改革は朝鮮自らが行うべきであると回答した。

7月3日、日本政府は朝鮮政府に対し内政改革の案を提示したが、朝鮮政府からは、改革よりも日本軍の撤退を優先してほしいという要求が返された。7月23日未明、大鳥公使の指令を受け、漢城郊外の龍山にあった大島義昌陸軍少将率いる混成旅団が漢城に入り、午前4時半過ぎ頃には、朝鮮国王高宗が居住し政府が置かれていた王宮(景福宮)を包囲し、門を破壊するなどして内部への侵入をし王宮を警備していた朝鮮兵士と銃砲による戦闘が始まった。(参考 王宮を攻撃する日本軍の錦絵(JACAR:大英図書館請求記号: 16126.d.2(92)) )結果、王宮は日本軍の占領下に置かれた。この日のうちに大鳥公使を宮中に呼び出した高宗は、大鳥公使の立会いのもとで、興宣大院君に対し、国政と改革のすべてを委任することを告げると共に、すべて大鳥公使と協議を行うことを要請した。そして、日本政府は、牙山に駐屯する清国軍を朝鮮政府に代わって退去させてほしいとの要請を、興宣大院君から受け、その結果、清国軍を朝鮮から退去させるために日本軍が清国軍を攻撃する正当な理由を得た。

清国軍は、牙山からやや漢城寄りに位置する成歓にも、一部の部隊が陣を構えていた。牙山に向けて進軍してきた日本軍は成歓に到達し、7月29日成歓駅付近で日清間で最初の陸戦が起きた。

最初の海戦は、7月22日から23日に佐世保港から朝鮮半島西岸海域に向けて出撃していた日本海軍と清の軍艦との開戦・豊島沖海戦である。牙山の清国軍部隊への増派清国兵士を輸送していた英国船籍の商船とその護衛軍艦2隻と牙山を出港した1隻を加わった清国艦隊が、豊島付近の海域を航行中に、この海域を目指して進んできていた日本の連合艦隊の一部の艦船と遭遇し、双方の間で砲撃戦が始まり、日清間最初の海戦が引き起こされた。清国艦隊の艦船は撃沈、大破、降伏あるいは逃走となり、日本艦隊は無傷であった。(参考 王宮を攻撃する日本軍の錦絵(JACAR:豊島沖之海戦: 16126.d.2(20)) ) 豊島の位置は、現在の仁川国際空港の南約40km、牙山の北西約60kmにある島である。

5 日清戦争における宣戦の詔勅

1894年(明治)8月1日に、明治天皇により清国に対する宣戦の詔勅が発された。

天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各〻権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ

惟フニ朕カ即位以来茲ニ二十有余年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外国ニ構フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列国ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ何ソ料ラム清国ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ対シテ著著鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ挙ニ出テムトハ

朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ朕ハ明治十五年ノ条約ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清国ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ清国ハ翻テ種々ノ辞抦ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ帝国ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ独立国ノ権義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ清国ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ殆ト亡状ヲ極メタリ則チ清国ノ計図タル明ニ朝鮮国治安ノ責ヲシテ帰スル所アラサラシメ帝国カ率先シテ之ヲ諸独立国ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ条約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク担保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス熟〻其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス

この宣戦の詔勅は、朝鮮を清の属国から解放するという内容である。8月26日には、日本と朝鮮の間で、次の様な内容の「大日本大朝鮮両国盟約」が締結された。

第1条 本盟約は清国軍を撤退させ朝鮮の自主独立を守り、日朝両国の利益を増進することを目的とする。
第2条 清国との戦争は日本が行い、朝鮮はこれを支援し、便宜を与える。
第3条 本盟約は清国と平和条約が成立したとき廃棄される。

6 下関条約第1条

1895年4月17日に日清間の下関条約が調印された。その第1条は、次の条文である。

第一條
淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

即ち、清の宗主権は消滅し、朝鮮国の独立が確保された。

しかし、朝鮮内部では、日本の影響力が更に大きくなることを恐れ、ロシアと結んで独立を確保しようとする考えの一派も出てきた。その結果が、日本公使三浦梧楼による1895年10月8日の閔妃暗殺事件となった。

閔妃とは、閔玆暎がその姓名で、高宗の王妃(明成太皇后)である。高宗との婚姻は1866年であるが、この婚姻以後の朝鮮王朝では、高宗、その父親である興宣大院君、閔妃のそれぞれの一派による権力抗争が続いており、そこに清、日、露という外国の思惑や圧力等が加わり複雑な様相であった。

駐朝鮮国公使の三浦悟楼が日本軍人・大陸浪人らを景福宮に乱入させ、国王高宗の王妃である閔妃を殺害した。(参考 朝日新聞参考記事 2021年11月16日 )公使とは、国を代表して相手国に駐在しており、その公使が相手国の王妃を殺害したのである。結果、一旦は親日派(改革派)が優勢に立つと、国王高宗は、劣勢の親露派の手引きにより保護を求めて漢城のロシア公使館に居を移した。そして、親露派と結んだ政権が成立した。1897年2月20日には、高宗はロシア公使館を出て慶運宮に還宮した。 1897年10月12日に自主独立を強化する国づくりを目指し、国号を「大韓」に改めて、 大韓帝国の成立を宣言した。

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2022年9月 2日 (金)

24年ぶりの1ドル140円の今後

円/米ドル為替レートがついに140円台となった。8月20日からのチャートは次の通りである。

Usd_jpy

もう少し前からと云うことで、2年2月ほど前の2020年6月1日以降のチャートを書いてみた。そして、比較のために、ユーロと人民元のチャートも、2020年6月1日を1.000とし、米ドルに対し価値が下がった場合は1より小さな数字になるようにしてチャートを作成した。

Forex20220901a

円は弱いですね。更に、今年の3月以降の部分を3月1日を1.000として拡大したのが次です。

Forex20220901b

手の施しようがないとの感じです。物価高と不況が同時にやってくる予感がします。その対策しては、利上げしかないように思います。利上げは流通している国債の価値下落ですから、国債を保有している金融機関は軒並み評価損を計上する。金融市場の混乱の結果、日本経済の悪化は避けられない。国債に頼って、財政支出を拡大していた付けが回ってくるように思います。

国際市場を健全にするには、政府財政の立て直し・健全化を図らないとならないと思います。政府財政健全化のためには、増税ですかね。実施が考え得る増税は、消費税と高額所得者の金融課税なのでしょうかね。

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