2016年12月19日 (月)

銀行に関する本 2冊

『住友銀行秘史』という本が、最近話題になったりしており、読んでみました。

 

『住友銀行秘史』の最終章は、「しかし・・・・・。私は湧き上がってくる無力感を抑えようもなかった。」で終わるのですが、私自身、読み終わって、同じような気分になってしまいました。この最終章の後に、エピローグが続くのですが、それも次の終わり方です。

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上の地位に昇ろうとして権謀術数を尽くす。果たして、それで幸福なのか、冷えた目で見れば、幸せの尺度も忘れた餓鬼状態と思える。住銀から行ったイトマン河村社長も表面的な業績数字を出すために、伊藤寿永光の手にかかり、インチキ不動産投資にのめり込む。1990年頃と言うべきか、もっとそれ以前の時代も含めてであるが、バブルに沸いた人たちや企業がいた。その中で、住友銀行はどうだったのかと考えるには良い本と思う。では、他の銀行や企業はと言えば、残念ながら、それほど私はよく知らず、何も言えません。

逆に銀行関係の本で読んで楽しくなったのは、次の本でした。

 

地方銀行、信用金庫、信用組合のことが書かれていますが、物的担保の価値が融資を決めるのではなく、企業の借り入れ能力(成長性)を見極めて、支援することでないと、地方経済は消滅するとの観点からの本です。なかなかおもしろく、読んでいて、こちらは気分が良くなります。そうですよね。企業の本当の魅力は将来の成長です。MicrosoftやGoogleのような企業が何故日本では生まれないのか、考えてみると良いのかも知れません。

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2015年9月10日 (木)

半藤一利氏の「いま戦争と平和を語る」

自民党が呼ぶところの平和安全法制整備法案、反対運動の方々の呼ぶところの戦争法案は中央公聴会を9月15日に開催し、その翌日には委員会決議、翌々日には参議院本会議決議へと与党は強引に成立を目指すと思います。

本年は戦後70年の年でもあるが、平和安全法制整備法案・戦争法案について考える上でも、半藤一利氏の「いま戦争と平和を語る」は参考になると思いました。

日本経済新聞出版社より2010年に単行本として出版され、2015年5月に文庫本としても発行されており、その両方のリンクを掲げます。

  

半藤氏は、大学を卒業して文藝春秋に入社された。「週刊文春」の企画「人物太平洋戦争」に携わったりして、多くの旧軍人に会いに行かれた。しかし、何もしゃべってくれない人もいるし、無責任な軍人も多かった。そのような中で、その後も多くの人と会われ、現代史に肌で接し、その結果を書いておられる。(本書の場合は、対談であり、聞き手の井上亮氏に語っておられる。語り口調であるから、読んでいてリズムがあり、心地よい気分にもなる。)

歴史は、近い時代ほど重要である。一方、近い時代ほど、生きている人が存在するのであり、不都合な真実が多いとも言える。人は真実の一部しか見れない。全てを俯瞰することはできない。証言が事実を全て述べておらず、隠したり、虚偽が入ったりもする。文字に記録されていることが全てではない。証言により立体的に復元できたりもするが、単に証言は正しいとして扱うと誤りを犯すこともある。歴史として捉えるには、真実に基づき客観的に把握する必要があるが、容易ではない。そのようなことを分かった上で、戦争と平和について語っておられるので、感心させられることが多くある。

聞き手の井上氏の投げかけも鋭いのである。次のような視点からの問いかけには、冷水を浴びさせられるような感もある。半藤氏の答え方は、この本を実際に読んでいただくか、各人で想像し、考えて頂くかにしたいと思います。

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2010年9月 3日 (金)

死にゆく妻との旅路

新潮文庫に「死にゆく妻との旅路」という本があります。

小説ではなく、縫製業を営む男の1999年3月から12月までの車での放浪の旅に関する手記です。放浪の旅は、大腸癌を再発した妻の死で終わることになり、男は、不起訴となるまでの間、保護者遺棄致死の疑いで逮捕され、約20日間留置場に入れられる。手記は2000年11月号と12月号の「新潮45」に掲載され、加筆されて文庫本となった。

手記であるので、誰しも、そのような状態になれば、そう感じ、考え、行動することがあり得ると、読んでいて、自分自身が著者の清水久典さんに、乗り移ってしまうような面があります。問題点を多く提起していると思います。

1) 病

放浪旅に出る3ヶ月半ほど前の1998年11月27日に妻は病院で大腸癌の摘出手術を受ける。清水氏は医師から早ければ3月くらいで再発の可能性があることを告げられた。1999年3月に旅に出るのも、放浪目的ではなく、職を探して各地の職安を次々と訪れていく。結果、職は見つからない。住んでいた七尾を出たのは、借金で、どうしようもなくなっていたが自己破産をする決心がつかず、どこかでひっそりと新しい仕事と住居を得ようとしたからであった。旅に出て、1週間程度過ぎた時、一旦は自己破産を決心するが、自己破産すると妻の側に一緒にいてやれなくなるかも知れないと思ってしまう。

-卑怯と言われてもかまわんわ。
出来るだけひとみの側にいてやりたい、同じ時間を過ごしてやりたい。入院させたら、ひとみと離れ離れだ。わしは約束したじゃないか、ひとみをひとりにしないと・・。押さえ切れないほどの感情が、渦を巻いていた。

-わしは今まで、何もしてやれんかった・・。
もう歯止めは効かなかった。二十二年の妻との思い出が、溢れ出していた。自の前に現れては、消えていく。

-今しかないんや。

私は奥歯を噛み締めていた、妻に気付かれぬように。
「やっぱり、自己破産は止めるわ」
妻にそう伝えた。
特に説明はしなかった。ただ「自己破産を止める」と、ひとこと言っただけだった。
「私はそれでええよ、オッサンと一緒なら」

妻はいつだってそうだ。私に反対はしない。私はその駐車場でUターンして、もと来た道を行った。もう、兄貴たちにも連絡するつもりはなかった。

その後は、次のようなことが。

「病院へ行こう」
「嫌や」
時々、その会話が繰り返される。どうしても入院費の話になる。私は申し訳なくなり、話はいつもそこで途切れた。

「一緒にいられなくなるわ・・・」
か細い声で、妻がぽつりと一言う。布団に包まった背中が震えていた。私はどうしようもなくなって俯いた。何も言えず、妻に声もかけられず、腰を上げた。
外に出て、竿を垂れる。秋空を見上げる。
空は澄みきり、雲が薄く棚引いていた。
「オッサンといられれば、それでええ」

九ヶ月前に七尾で聞いた妻の声が、私の全身に響き渡る。
-しかし、ほっといたらひとみは・・・。
金の問題じゃあない、そんなこともわかってる。
水面に目を落とした。

入江の海面は波立つこともない。穏やかに、柔らかい波紋を描き続けていた。

「大事にしてやらな、いかん」
結婚を決めた時、そう考えていたことが、しきりと頭を巡った。

死亡する10日前の11月21日。

「やっぱり病院へ…行こうや、ひとみ、な」
「嫌や」
かすかに言い返すだけだった。ようやく聞き取れるほどの声で・・・。
「だって、おなか、痛いんやろ、な、病院へ行こう」
「嫌やよ、オッサン・・・」
妻はもう声もほとんど出ない。涙が肉の削げた頬をつたう。私はじきに、何も言えなくなる。怒ることも出来ない。泣くことも出来ない。何度も繰り返されて来た会話が、再び宙に浮くだけだった。
ぞれまでに私は、何度か運転席でアクセルを踏もうとしていた。
-今日こそは病院へ行くんや。でないと、ひとみは・・・。
そう決意し、伝えようと振り返って見ると、妻は泣いている。私はそのたびに諦め、外に出ては釣りをした。天を仰ぎ、海を見つめた。
私は怖かった。妻が死んでいく、そのことに向き合うことから逃げていた。面倒を見ながらも、私はそれ以外の時間、海に向かってばかりいた。

2) 破産

妻は12月1日に死亡し、12月22日に警察署を出て、その後に弁護士と書類を作成し、自己破産の手続きをする。妻が入院し手術を受けたのは、清水氏が1998年10月25日から誰にも告げずに一人車で出かけ、金策に駆けめぐったものの徒労に終わり、約1月後に帰った時だった。妻は、行方不明となった3日後に捜索願を出していた。また、清水氏の留守の間は、病院へ行くのが嫌だと痛みを我慢していた。

清水氏は、1947年生まれ。中学卒業後1963年から縫製会社で働き裁断をしていた。妻は、1958年生まれ。同じ工場で、縫製をしていた。結婚後も、同じ職場で働くが、日本の縫製産業が競争力を失っていく中、その企業も利益があがらなくなり、1983年に清水氏は退職・独立し、縫製工場を自らが始めることを選択する。当然、輸入品が幅をきかせ、小工場の利点としての小回りの良さとして、流行のスタイルを取り入れた製品を早く作ることで競争することとなるが、苦しい経営が続く。

知人の会社の借入の保証人になると同時に自分も同じところから借り入れる。結局、知人の事業は行き詰まり、知人は行方をくらませる。取り立ては、清水氏に来る。清水氏の借金と保証人の数は増加する。加えて、自分の縫製工場も赤字となる。

金策に失敗して帰ってきた時に、妻は取り立てが来るので、清水氏の実家にやっかいになっていた。取り立ては、当然保証人の所にも行く。自己破産を親戚のほとんどが勧め、その結論に自分も納得するが、行動できなかった。

3) 感想

清水氏とは、心の優しい人なのだと思う。でも、妻の病気のことも、何か、もっとよい方法があったような気もするし、事業のことは、勇気を持って、決断すべきであったと思う。

清水氏と同じように、なってしまう人は、多いと思う。人を蹴落としてでも、自分がよくなろうとする人がいる中、愛すべき人であると思う。

一方で、そのような人達を助けようとしていないのが今の政治である気がする。8月28日の円高、株安、デフレへの経済対策で、ゾンビ企業を生き残らせるべきではないと書きました。市場の変化に応じて、産業も変化すべきである。産業構造の変化があっても、それによる支障や障害が人々の生活に及ぼす影響は最小限に止めるような政治が望まれる。しかし、現状は余りにもお粗末であると思える。

最後に、清水氏の妻は、幸せなこの世の最後を送られたと思いますか?ある面では、すごく幸せだったと私は思います。医療においても、同等の幸せが実現できるようにすべきと考えます。緩和医療や在宅医療と呼ばれている医療もあります。

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2009年9月23日 (水)

高熱隧道(黒部第三発電所)

検索語「八ッ場ダム」で、このブログを訪問いただいていく方が、最近増えています。ダム関係を書くに際して、8月22日 ダムの議論の中で、吉村昭の小説「高熱隧道」に少し触れました。そこで、もう一度、高熱隧道を読んでみました。

高熱隧道とは、黒部第三発電所の水力発電所導水トンネルとそれに先立ち掘削完成させる軌道トンネルのことで、温度140℃(最高165℃)というダイナマイトの自然発火温度を超えた岩盤を相手に、熱水が噴き出してくる中を掘削した極めて難工事で完成したトンネルです。掘削といっても、トンネルボーリングマシン(TBM)があるわけではなく、人力によりドリルで穴を開け、そこにダイナマイトを差し込んで、発破により岩盤を崩し、崩した岩盤(ズリ)をトンネル外に出していく工事でした。当然人力で、トラックはなく、トロッコです。軌道トンネルとは、ダム建設時は、資材運搬用、完成後はメンテナンス用のトロッコ軌道です。

そのトンネル場所は、次のYahoo地図を見てください。トロッコ電車で有名な黒部峡谷鉄道がありますが、その終点が欅平です。欅平に建設した水力発電所が黒部第三発電所であり、そこから約6km上流(南)に行った地点に建設したのが仙人ダムであり、仙人ダムと欅平間を結んでいるトンネルの阿曽原谷と仙人ダム間の部分が高熱隧道です。隧道は、2つへ移行してあり、1つは水が流れており、人は入れませんが、もう1本も公開されていないので、通常は入れません。

地図の上の端に欅平があり、下の端に仙人ダムや黒四地下発電所という文字が見えると思います。高温部分は、地図の真ん中あたりにある、阿曽原谷や阿曽原小屋と書いてあるあたりから、仙人ダムまでの705mです。(欅平から水色の点線が下に出ているのが見えますが、これが水路トンネルです。点線が2本見えるのは、黒部第三発電所用と新黒部第三発電所用の2本あるからです。)

発電所着工が昭和11年です。当時の状況は、満州国建国宣言昭和7年、日本の国際連盟脱退昭和8年です。昭和11年に入ると、2.26事件がありました。翌年の昭和12年には盧溝橋事件が発生しています。日本が、軍事国家の色彩を強め、経済の上では、大不況を軍事支出増加の経済対策で、国家統制による社会主義色を強めていった時代です。米国の日本向け航空ガソリンの輸出禁止が昭和15年9月、石油前面輸出禁止が昭和16年6月で、そのような状態を政府首脳部は予想していたはずで、戦前の日本のエネルギー開発政策として、大規模水力の開発は欠かせなかった。同じような時期に着工され完成したのが東京電灯の信濃川発電所です。

吉村昭は「高熱隧道」で、限界に挑んだ人達、限界まで挑まざるを得なかった人達を小説の中で、描き出していると思いました。ちなみに、読んでいて、次のような文章には、すごさを感じました。

「日本電力でも、地質学者の意見に不信感をいだいている。大石教授の言うようにこれから掘り進んだ場合、温度が低くなるというような期待も全く持ってはいない。むしろ、温度は上がる一方だろうという意見が圧倒的だ。それに仙人谷から進んでいる本抗の抗道も、摂氏80度まで上がっているのを考えると、今のままのルートでは火の中の玉の中へ突っこんでゆくようなものだ。それで、日本電力でもルート変更を考えてくれたわけだ。

技師と人夫。そこには、監督する者と従属する者という関係以外に、根本的に異なった世界に住む者の違和感がひそんでいる。それは、一言にしていえば、技師は生命の危険にさらされることは少ないが、人夫は、より多く傷つき死ぬということである。と言うより、人夫たちには、死が前提となっているとさえいってよい。ある工事がはじまる時、その予算の中の雑費という項目には弔慰金に該当するものが必ず組みこまれている。死はあらかじめ予定されている事柄であり、しかも、それはより多くの人夫の死に対して支払われるような含みをもっているのである。

工事を強引に推しすすめることに、むろん藤平も異存はなかった。人夫たちの体は完全に熱に順応し、坑内の熱さに堪えられなかった者は一人残らず下山してしまっていて、工事現場にはたとえ痩せきってはいても強健な体をもった人夫たちだけが残されている。日当も普通賃金が1円80銭の相場なのに、いつの間にか割増金が加えられて、1日7円から8円の金額が支払われるようになってきている。かれらは岩盤温度が何度に上昇しようとも、日当さえ割額していけば作業をつづけてくれるにちがいなかった。

今は昔の物語です。しかし、もしかしたら、そんな極限状態が今でも、存在しているし、これからもずっとある気がします。だから、吉村昭が小説として残したかった。

参考事項をもう少し書くと、小説に出てくる佐川組とは佐藤組で、今の佐藤工業と思います。佐藤工業は、2002年3月に会社更生法を適用申請をしましたが、2009年9月7日に更生手続の終結をしました。(佐藤工業の発表)おめでとうございます。他社にない高度な技術力とかKnow Howとかを持っていると、不況下で同じように苦しいが、再生する潜在力はずっと高いと思います。

黒部第三発電所と言うからには、第一、第二があるはずで、第四が黒四で有名な発電所です。実は、黒四発電所は、黒部第三発電所のダムである仙人ダムの少し上流で、そこから10km以上離れた地点にある黒部ダムからの水で発電しています。黒部第一発電所という名前の発電所はなくて、柳河原発電所が第一に相当します。(現在の新柳河原発電所は、国交省宇奈月ダムの建設により建て替えられた発電所ですが、同じ場所(柳原駅)にありました。参考に表にしてみました。

Kurobehydro

新黒部川第二、第三という発電所が、昭和41年と昭和38年に完成していますが、これは黒部ダムの完成によりピーク時間の発電量を増加させることができるようになり建設したと理解します。ピーク時間の発電量を増加させると、ピーク時間帯以外で発電量が同じだけ減少してしましますが、電力という物は、貯蔵が不可能であることから、大きな意味を持ちます。

新黒部川第三発電所の導水トンネルも、旧トンネルとほぼ並行して掘削されています。同じような高熱問題がありました。見ていませんが、地熱に挑む-新黒部第3発電所導水路-という記録映画が、存在します。170℃との説明があり、難工事だったと思います。

日本電力が黒部第三発電所の発注主ですが、当時の電力会社大手は、東京電灯、東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電力、関西共同火力といった会社でした。当時は、軍需工業が起り、電力が不足するから、国家の手において豊富な電力を開発せねばならない、そして、戦時においては電力は国家が統制すべきであるとの考え方でした。経済分野の多くで国家統制経済に向かおうとしていた中、電力はその先頭を走っていました。昭和13年に電力管理法、日本発送電株式会社法が成立し、これらに基づき日本発送電株式会社が昭和14年に設立されたのです。日本電力も日本発送電の出資者となり、黒部第三発電所は日本発送電に引き渡されました。

黒部川の開発の歴史に関しては、この宇奈月町商工会のWebに纏まっています。但し、新黒部川第二、新第三や宇奈月ダムについては、触れられていませんが、黒三発電所のWeb Pageはあります。この日本ダム協会の仙人谷ダムの建設に関するWeb Pageには、もう一つ「内田すえの、此川純子、堀江節子著『黒部・底方の声-黒三ダムと朝鮮人』(桂書房・平成4年)」の書があることが書かれています。図書館で借りないと読めないようですが、時代からして、朝鮮人の人夫が当然働いていたと思います。

黒部第三発電所は、黒四発電所よりはるかに多い300名を超える犠牲者(単純比較はできませんが)を出して建設されました。今も水という自然エネルギーのみで、CO2を排出せずに発電をしています。おそらく何百年あるいは、それ以上の長期にわたり発電をすると思います。仙人ダムは、総貯水量682千m3の小さなダムです。自然保護と産業開発との調和という観点では、優れたプロジェクトであると思います。なお、仙人ダムへ行くには欅平から片道5-6時間、そして帰りに4-5時間かかります。欅平に宿泊して、日帰りするか、阿曽原小屋に泊まる必要があります。そうなると仙人池や剣岳も含めて行く方がよいのでしょうね。もう一つは、仙人ダムから黒部ダムへ行く方法がありますが、こちらは、もっと距離が長いし、徒渉をする必要があるかも知れず、大変でしょうね。

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