光市母子殺人事件の差し戻し控訴審における死刑判決予想
1999年に山口県光市で起きた母子殺人事件で、殺人や強姦(ごうかん)致死などの罪に問われた当時18歳10ヶ月の男に対する差し戻し控訴審の初公判が24日、広島高裁(楢崎康英裁判長)でありました。以下読売新聞の参考記事です。
読売 5月24日 光市の母子殺害、検察再び「極刑」主張…差し戻し控訴審
この裁判は死刑判決が予想される裁判で、さらに上告しても死刑しかないと思われる死刑判決にまっしぐらに進んでいく裁判です。
1) 裁判の経緯
事件はこのWikiに出ていますが、1999年4月に起こりました。19歳10ヶ月の少年が白昼、配水管の検査を装って上がり込んだアパートの一室において、当時23歳の主婦を強姦しようとしたが、激しく抵抗されたため、殺害した上で姦淫し,その後、激しく泣き続ける生後11か月の女性の長女をも殺害し、さらに、現金等在中の財布1個を窃取したという殺人、強姦致死、窃盗事件です。
検察は死刑を求めました。1審の山口地裁は2000年3月になされ、無期判決でした。検察は判決を不服とし「1審判決は量刑判断を著しく誤り、、著しく軽きに失する不当な刑の量定をしたものである。」として広島高裁に上訴しました。広島高裁判決は「4人を殺害した永山則夫に対する最高裁死刑判決の趣旨に照らし、本件について、極刑がやむを得ないとまではいえない。」として控訴棄却の判決を2002年3月に出しました。広島高裁判決はここ(pdf)にあります。
しかし、検察は最高裁に上訴しました。その結果、最高裁は「広島高裁判決は、量刑に当たって考慮すべき事実の評価を誤った結果、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情の存否について審理を尽くすことなく、被告人を無期懲役に処した山口地裁判決の量刑を是認したものであって、その刑の量定は甚だしく不当であり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。」として広島高裁に差し戻す判決を2006年6月に出しました。最高裁判決文はここ(pdf)にあります。
最高裁が差し戻し戻した結果の広島高裁の控訴審が冒頭の裁判です。
2) なぜ死刑しかない裁判と言えるか?
その前になぜ死刑になろうとしているかを語る必要がありますが、殺された女性の夫であり幼児の父親であった本村洋氏が死刑を訴えていることが主因と思います。さらに、テレビワイドショウ等が、本村洋氏の主張を広めていきました。愛する人を殺された時の悲しみは大変つらい。殺した相手を、今度は自分が殺してやりたい。その結果、自分が殺人を犯し、結果死刑となってもかまわない。そんな気持ちになると思います。まして2人も殺されたのですから。
上のリンクを張った最高裁判決を読むと、「第1審判決が認定する各殺人、強姦致死の事実についての各犯罪事実は、各犯行の動機、犯意の生じた時期、態様等も含め、第1、2審判決の認定、説示するとおり揺るぎなく認めることができ、事実誤認等の違法は認められない。」と言っています。
その上で最高裁判決は、「被告人の罪責は誠に重大であって、特に酌量すべき事情がない限り、死刑の選択をするほかないものといわざるを得ない。」とし、「殺害についての計画性がないことは、死刑回避を相当とするような特に有利に酌むべき事情と評価するには足りないものというべきである。」「結局のところ、本件において、しん酌するに値する事情といえるのは、被告人が犯行当時18歳になって間もない少年であり」、「これらを総合してみても,いまだ被告人につき死刑を選択しない事由として十分な理由に当たると認めることはできない。」、「被告人を無期懲役に処した第1審判決の量刑を是認したものであって、その刑の量定は甚だしく不当であり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。」と言っています。
今回の広島高裁での差し戻し控訴審において、最高裁判決の縛りがあるから、死刑以外の判決を下すことは極めて困難と私は思います。
なお最高裁は、弁護人による弁論を行っています。弁護側は鑑定書(参考ここの真ん中あたり)を出して「被告人に殺意はなく、本件行為は傷害致死罪と死体損壊罪にとどまる」と主張していますが、全く聞き入れられませんでした。最高裁の弁論は、通常は開かれず、下級審の判決を覆す場合に開催されると言われています。(この場合は、下級審が無期であったから、これを覆すのは死刑しかなく、この時から、この事件は死刑に向かって走っていたと言えます。)
3) 死刑と憲法
1948年3月12日の最高裁の判決があります。判決文はここ(pdf)にあり、弁護側は死刑は憲法36条の「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」に反するとして争っていました。弁護側の主張は受け入れられず、上告棄却となり死刑が確定しています。しかし、この判決には島保他計4名の裁判官の補充意見として次の意見が記載されています。
憲法は残虐な刑罰を絶対に禁じている。したがつて、死刑が当然に残虐な刑罰であるとすれば、憲法は他の規定で死刑の存置を認めるわけがない。しかるに、憲法第31条の反面解釈によると、法律の定める手続によれば、刑罰として死刑を科しうることが窺われるので、憲法は死刑をただちに残虐な刑罰として禁じたものとはいうことができない。しかし、憲法は、その制定当時における国民感情を反映して右のような規定を設けたにとどまり、死刑を永久に是認したものとは考えられない。ある刑罰が残虐であるかどうかの判断は国民感情によつて定まる問題である。而して国民感情は、時代とともに変遷することを免かれないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることも在りうることである。したがつて、国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。かかる場合には、憲法第31条の解釈もおのずから制限されて、死刑は残虐な刑罰として憲法に違反するものとして、排除されることもあろう。しかし、今日はまだこのような時期に達したものとはいうことができない。されば死刑は憲法の禁ずる残虐な刑罰であるという理由で原判決の違法を主張する弁護人の論旨は採用することができない。
憲法31条は「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」です。
死刑は憲法違反とまで言えないとするのが妥当でしょう。しかし、死刑が無制限に許されるものではないと思います。人は神ではない。人が人を裁くことすら、大それたことかも知れないが社会のために刑法犯罪者には刑を下さなければならない。でも、死刑まで行って良いのかは別だと思う。
嫌な裁判が始まったなと思って書いてしまいました。毎日 5月25日 少年法:改正法成立 さらに「厳罰化」進むというのも厳罰化の風潮でしょうか?
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