死にゆく妻との旅路
新潮文庫に「死にゆく妻との旅路」という本があります。
小説ではなく、縫製業を営む男の1999年3月から12月までの車での放浪の旅に関する手記です。放浪の旅は、大腸癌を再発した妻の死で終わることになり、男は、不起訴となるまでの間、保護者遺棄致死の疑いで逮捕され、約20日間留置場に入れられる。手記は2000年11月号と12月号の「新潮45」に掲載され、加筆されて文庫本となった。
手記であるので、誰しも、そのような状態になれば、そう感じ、考え、行動することがあり得ると、読んでいて、自分自身が著者の清水久典さんに、乗り移ってしまうような面があります。問題点を多く提起していると思います。
1) 病
放浪旅に出る3ヶ月半ほど前の1998年11月27日に妻は病院で大腸癌の摘出手術を受ける。清水氏は医師から早ければ3月くらいで再発の可能性があることを告げられた。1999年3月に旅に出るのも、放浪目的ではなく、職を探して各地の職安を次々と訪れていく。結果、職は見つからない。住んでいた七尾を出たのは、借金で、どうしようもなくなっていたが自己破産をする決心がつかず、どこかでひっそりと新しい仕事と住居を得ようとしたからであった。旅に出て、1週間程度過ぎた時、一旦は自己破産を決心するが、自己破産すると妻の側に一緒にいてやれなくなるかも知れないと思ってしまう。
-卑怯と言われてもかまわんわ。 |
その後は、次のようなことが。
「病院へ行こう」 |
死亡する10日前の11月21日。
「やっぱり病院へ…行こうや、ひとみ、な」 |
2) 破産
妻は12月1日に死亡し、12月22日に警察署を出て、その後に弁護士と書類を作成し、自己破産の手続きをする。妻が入院し手術を受けたのは、清水氏が1998年10月25日から誰にも告げずに一人車で出かけ、金策に駆けめぐったものの徒労に終わり、約1月後に帰った時だった。妻は、行方不明となった3日後に捜索願を出していた。また、清水氏の留守の間は、病院へ行くのが嫌だと痛みを我慢していた。
清水氏は、1947年生まれ。中学卒業後1963年から縫製会社で働き裁断をしていた。妻は、1958年生まれ。同じ工場で、縫製をしていた。結婚後も、同じ職場で働くが、日本の縫製産業が競争力を失っていく中、その企業も利益があがらなくなり、1983年に清水氏は退職・独立し、縫製工場を自らが始めることを選択する。当然、輸入品が幅をきかせ、小工場の利点としての小回りの良さとして、流行のスタイルを取り入れた製品を早く作ることで競争することとなるが、苦しい経営が続く。
知人の会社の借入の保証人になると同時に自分も同じところから借り入れる。結局、知人の事業は行き詰まり、知人は行方をくらませる。取り立ては、清水氏に来る。清水氏の借金と保証人の数は増加する。加えて、自分の縫製工場も赤字となる。
金策に失敗して帰ってきた時に、妻は取り立てが来るので、清水氏の実家にやっかいになっていた。取り立ては、当然保証人の所にも行く。自己破産を親戚のほとんどが勧め、その結論に自分も納得するが、行動できなかった。
3) 感想
清水氏とは、心の優しい人なのだと思う。でも、妻の病気のことも、何か、もっとよい方法があったような気もするし、事業のことは、勇気を持って、決断すべきであったと思う。
清水氏と同じように、なってしまう人は、多いと思う。人を蹴落としてでも、自分がよくなろうとする人がいる中、愛すべき人であると思う。
一方で、そのような人達を助けようとしていないのが今の政治である気がする。8月28日の円高、株安、デフレへの経済対策で、ゾンビ企業を生き残らせるべきではないと書きました。市場の変化に応じて、産業も変化すべきである。産業構造の変化があっても、それによる支障や障害が人々の生活に及ぼす影響は最小限に止めるような政治が望まれる。しかし、現状は余りにもお粗末であると思える。
最後に、清水氏の妻は、幸せなこの世の最後を送られたと思いますか?ある面では、すごく幸せだったと私は思います。医療においても、同等の幸せが実現できるようにすべきと考えます。緩和医療や在宅医療と呼ばれている医療もあります。
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