石巻市立大川小学校の悲劇を繰り返さない
東日本大震災の津波により、全校児童108人中74人、教員13人のうち10人が死亡又は行方不明になった石巻市立大川小学校の保護者説明会が4日夜にあった。
毎日6月4日 東日本大震災:児童68人死亡、不備認める 大川小説明会
命を亡くされた学童と先生のご冥福、あの世での幸せを、お祈りします。
児童の69%と教員の77%という多くの人命が学校という場所で失われたことに衝撃を受ける。亡くなった児童の親や保護者からすれば、学校であるが故に、その悲しさは、通常よりはるかに大きいことと思います。やり場のない思いで、謝罪だけでは済まされない。明確な謝罪すらなければ、感情の持って行く行き場のない思いのはず。それ故、ネットやその他でも、避難・誘導が適切でなかったと、教師を避難する声が多いと感じます。
しかし、児童69%と教員77%の死亡率が、我々に語りかけていることに、もっと大きな学ぶべきことがあるし、我々は将来に、これを生かす義務があるように思うので、以下少し書き連らねます。
1) 石巻市立大川小学校の位置
北上川の河口付近(河口から約4km上流)にあり、一番下流の1976年完成の新北上川大橋のたもとの直ぐ近くで、右岸(上流側から見て右)に位置する。Yahoo Mapで表示すると次の通りである。+や-ボタンで拡大・縮小して付近を見れば位置がより正確に掴めます。
地形図は、次であり、地形を考えてみる。
校庭の標高は、おそらく海抜1m程度であり、校舎の図面を見ていないが、2階の床面がGL+4mであったとして、海抜5m程度と思います。小学校の校門は、北の道路側にあるはずで、校門を出て左に250mで、新北上大橋の右岸となる。この新北上大橋右岸地点の標高も多分海抜5m程度と推定される。地形図上で、新北上大橋左岸上流側900m、右岸上流側2100mの堤防上の道路、右岸下流の堤防上に標高点があり、いずれも5mとなっている。学校から北東は海まで全て水田であり、標高は1m以下と推定される。学校の南は、山であり、斜面の傾斜は傾斜角40度位の急な斜面である。
なお、大川小学校の緯度経度は北緯38度32分45.63秒、東経141度25分41.65秒であり、この緯度経度を参考にしてGoogle検索等が可能です。
2) 津波被害
現地を視察して書くべきであるが、Google Earthを見て、驚きました。
一番上のYahoo地図を航空写真に切り替えて、比較すると分かります。あったはずの集落が消えており、学校は廃墟になっている。新北上大橋は、津波で一部流された。このPanoramioの写真を見ても分かります。
3) 避難場所
先ずは、津波前に避難場所の一番の候補として考えられていた新北上大橋の実際の標高は堤防よりも1m位高い6m-7mあったかも知れない。しかし、津波の最高到達高さは、それよりも高かったと思う。何故なら、橋の欄干に漂流物が付着している写真も見受けられるからである。
では、南の山に避難することができたかについても、急斜面であり、100人を超える児童を、どう誘導できたか、私には分からない。津波の後に実際に現地を視察し写真も撮影して書いておられるこのブログには、「裏山(人工的な斜面&林床の草の少ない森)が確かにあるのだが,これらがとっさの判断で逃げ道になりえたか,かなり難しいと感じた.」と書いてある。校舎の屋根は、傾斜付きで、屋上構造ではなかったので、避難には使用できなかったはず。
次の写真は、大川小学校の1.5km上流の右岸にある大川中学校をGoogle Earthである。大川中学校は、ほぼ真ん中で、その右(下流側)の住宅は流されているが、左(上流側)は、被害はあるとは思うが、流されてはいないようである。少しのことで、天地を分けるような差があるのだと思う。
4) 将来のために
色々なことがネットで言われています。通学バスに早く乗せて避難させるべきだったというのもあった。いずれにせよ、大川小学校の津波災害は、事故調査がなされ、教訓を学ぶ必要があると思う。
例えば、校舎の一部を3階建てにして、3階を最悪の場合の避難場所とすることは、どうであったか。裏山を避難場所とし、階段や児童他の避難者が一時的に避難できる広場を整備することはできなかったか。
大川小学校が地区の避難場所になっていたとの報道もあり、そうであれば、先生方は児童の避難より、避難場所に避難してくる地区の人達の対応で大変だったかも知れない。
大川小学校の歴史は、分かっていないが、国土地理院の空中写真閲覧で1948年10月13日米軍撮影の航空写真を見ると、大川小学校が現在の位置にある。1960年のチリ地震津波を経験しているはずだが、被害は学校に及んでいなかったのだろうと想像する。
一番思うことは、最悪自体に対する研究であるが、従来はともすれば、防潮堤、防波堤、堤防、ダムのようなハード面の対応で防ぐことに力を入れすぎていなかっただろうか。確かに、高ければ、高いほど、防潮堤の能力は高いであろう。しかし、それだけでは完全にならない。むしろ、ソフト面、即ち、避難場所、避難経路、避難手段の確保が重要と感じる。
大川小学校より下流側・海側の人達の避難や生存状態は、どうであったのだろうか。どの様な場合に、助かり、どのような場合に、被害に巻き込まれてしまったのか、詳細を調査して欲しいと思う。
大川小学校の69%や77%という死亡率をムダにしては、ならないと思う。
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コメント
はじめまして、大川小学校の被害に関して同様に感じていました、先日現地に行って調査を実施してきました。つなみに対して、少しだけ、先生及び父兄の方が感心があれば、これほどまでの被害が防げたと痛切に感じかえってきました。津波に対する危険の兆候は時々発せられていたのですが、地域全体として、誰もが安心材料にすがり少しの努力を怠った結果でこの様な被害が発生したと感じてきました。この被害から学びとり尊い教訓を生かさないとと思っています。現地の報告書をさくせいしました。メールいただければ、ご送付いたします。090-6926-6265
投稿: 西田 真義 | 2011年10月 3日 (月) 16時40分
西田 真義 様
コメント欄への書き込みありがとうございます。様々なことが言えるのでしょうが、再度繰り返さないように将来のための提言を残すことは、重要と思います。
投稿: ある経営コンサルタント | 2011年10月 3日 (月) 21時25分
牡鹿半島の瓦礫撤去の途中2回大川小の慰霊をした千葉・大網白里町のものです。この地域は明治29年、昭和8年、同35年チリ津波と近年でも3回津波が来ていたのではないかと思われます。大人たちはこの歴史から学ぶべきではなかったかと残念に思われました。
1.何故、26年前に海抜1.12mのところに校舎を建てたか。当時の首長も教育長らは建設業者に安易に従ったのではないかと思われてなりません。
2.急傾斜裏山に30cm間隔に結び目をつけたトラロープを100本山の上から取り付けておけばと思われました。
投稿: 大村敏也 | 2012年3月 6日 (火) 16時05分
大村敏也様
コメントありがとうございます。
海抜1.12mですか。他に適当な候補地がなく、そこに建設したなら、せめて津波対策・津波避難は常に研究・検討をしておくべきだと思えますね。
しかし、ブログ本文にも書いたように、大川小学校は1948年(昭和23年)10月13日には、津波前の場所に存在したので、相当以前から同じ場所にあった。海からも約2.5km離れているので、日常生活で津波のことは、思わなかっただろうと考えます。
明治29年、昭和8年、同35年の津波で、大川小学校はどうであったのだろうと思います。ご存じの方、差し支えなければ教えていただきたいと存じます。
投稿: ある経営コンサルタント | 2012年3月 8日 (木) 11時58分
はじめまして
千葉県の2011年旭市の津波被害を記録する会の春川と申します。今後私の地元旭市の防災のために学べることがあるはずと思い、大川小学校の現地調査に行きました。ブログの中の何点か、気が付いたことを書かせていただきます。
①まず、児童の死亡率69%についてですが、
マスコミでも横並びに「在籍108名中約7割が犠牲に・・」、と報道されますが、親が迎えに来て帰った児童や当日欠席していた児童を分母に含めるのは適当ではないと考えています。学校管理下で教員の指示の下、避難待機していた児童が78名、うち死亡70、行方不明4、生存4.つまり死亡率は約95%と併せて報道されるべきだと考えています。そうしないと事の重大性が伝わらないと思っています。
②斜面の傾斜ですが、
旭市でも斜面を登る避難路をパブリックコメントで市に提案した関係上、大川小学校の崖の傾斜が登れないほど急なのかどうか大変興味があり、簡易測量ですがレーザー距離計・傾斜計で測定しました。その結果、地上高12~13mまでの斜面と斜面全体の平均傾斜は約33度でした。中腹で局所的に40度ですが全体的には33度位です。本文中の40度や45度(地震研の都司嘉宣先生の新聞記事)ほど急ではなく、私(60代)でも登れました。
33度の斜面は必ずしも直登する必要はなく、東側に杉林の中に登山道があり、ここが避難適所だったとの声があり頷けます。
③崖の中腹には4段のコンクリートのテラスがあり、(本文のグーグル写真にも明瞭)、藪の斜面を登って偶然ここに至ったとき、私は唖然となりました。 このテラスについてはすでに神宮威一郎さん(鈴木小太郎さん)のブログがあり(「平場」と呼ばれていますが)、多くの明瞭な写真とともに公開されています。そこへのコメントもご参照ください。
④二瓶龍彦さんの記事(週刊金曜日2012年3月30日号)にあるように、「大人たちは津波はこないと楽観していたとしか考えられない」、現地で遺族から聞いた 「もともと逃げる気が無かったのではないか」、という意見についても考えてみたいと思っています。
投稿: 春川光男 | 2012年6月30日 (土) 15時18分
大川小学校
投稿: 永江聡 | 2013年3月18日 (月) 22時15分