堀辰雄が書いたサナトリウムの解体始まる
JR中央本線の富士見駅から徒歩10分、富士見町役場近くの役場上と言う交差点のすぐそばにあるサナトリウムであった建物の取り壊しが始まったというニュースがありました。
中日新聞 9月18日 富士病棟の解体本格化 小説「風立ちぬ」の舞台
堀辰雄の小説「風立ちぬ」は、高校生時代に読んだ記憶があります。透明感のある美しい小説で、とても印象が深かった。当時、新潮文庫で読んだ気がしますが、ここでは青空文庫のリンクを紹介します。
ここに青空文庫のホームページがあり、対価は求められず、著作権の消滅した作品と、「自由に読んでもらってかまわない」とされたものを読んだり、ダウンロードしたりすることができ、テキストファイルを本のように読むソフトの紹介もあります。なお、堀辰雄の「風立ちぬ」はここです。
1936(昭和11)年に発表された小説です。当時、結核にはまだ有効な薬はなく、自分の体自身が持つ免疫力で回復しなければならなかった。大変ですよね。レントゲンはあるわけで、肺結核と診断がつく。治療のため、空気の良い場所で、自然の中で過ごす。医師や看護師もそばに滞在し、常時看護やモニタリングをしてもらう。そんな施設がサナトリウムでした。
現代において、ガンと宣告されるより、もっと悲壮感があったと思います。Wikiにもありますが、堀辰雄自身も結核でした。「風立ちぬ」は、結核でこのサナトリウムに1935年に入院し、その年の12月に死亡した婚約者矢野綾子に付き添いをした体験から書いた小説です。自分の愛する人のことを小説として書くとしたら、その人と自分が本当に生きた日々のことを書くと思います。まして、自分が文学で生きていこうとしているなら。例え短くても、そこには何にも負けない強い愛があったことを。
柳条湖事件から81年ですが、柳条湖事件は1931年(昭和6年)9月の事件でした。柳条湖事件の後は、満州国建国宣言が1932年3月で、帝国議会が満州国承認を決議したのが1932年6月。それに先立つ1931年11月に国際連盟は調査団(リットン調査団)の派遣を決定。リットン報告書が1932年10月に提出された。日本軍が熱河を侵攻したのが1933年2月であり、1933年3月に国際連盟を脱退した。1936年に2.26事件があり、1937年には、7月の盧溝橋事件、8月から11月の上海戦、12月の南京占領へと続き、日中戦争に進んでいく時代でした。そのような時代に書かれた「風立ちぬ」が語っていることは、戦争や政府・国家間の争いは、人間の尺度で考えれば小さなものだと言うことでしょうか。
1926年に建設され、「風立ちぬ」の当時で10年、今は86年を経過するサナトリウムが取り壊されることについては、悲しくなります。しかし、建物の老朽化が著しく地震倒壊のおそれがあり、そして来年以降に資料館ができるとのこと。保有・運営しているのは長野県厚生農業協同組合連合会という民間であり、できることとしては、これが精一杯のことと思います。むしろ、2009年4月 6日のブログで書いたように、大阪の産業技術史博物館は、収蔵品があるにも拘わらず、実現困難として資料の廃棄処分を決定しています。未来への投資をしなくなり、破滅に向かっているようなことはないのでしょうか。
最後ですが、「風立ちぬ」について調べていると、堀辰雄が書いている「風立ちぬ、いざ生きめやも。」ですが、小説の冒頭のValeryの詩”Le vent se lève, il faut tenter de vivre.”の”he must try to live"の訳文が「生きてはならない」との意味になっているとの説があることを知りました。即ち「めやも」とは「大君の勅をかしこみちちわくに心はわくとも人に言はめやも(天皇の勅書を理解し、他人に秘密は漏らさない)」のように否定の意味であるとすることからの批判です。しかし、「いざ」が「生きめやも」の前にあり、そしてフランス語の原文がある以上は、”he must try to live"の意味に間違いがないと考えます。堀辰雄も「めやも」の古代用法は知っていたはず。しかし、結核でサナトリウムに入院し、治療する、そして愛を貫く時、単純な言葉で表現したくなかったのではと思います。言葉は常に変化し、生きているのであり、文学とはそんな世界であってよいと思います。
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