南極観測船 「しらせ」 の昭和基地沖への接岸断念
南極観測船 「しらせ」 の昭和基地沖への接岸断念と文部科学省が1月11日に発表した。
日経 1月12日 しらせ、今年も接岸断念 南極・昭和基地沖18キロから進めず
文部科学省 1月11日 南極観測船 「しらせ」 の昭和基地沖への接岸断念について
日経記事には「基地周辺では好天が続いた影響で氷の表面が解け」とあり、文科省の文章にも「氷上が水浸しの状態となっており雪上車による氷上輸送は出来ない状況」とあり、それでは砕氷して進めるように思えるが、不思議な状態です。
1) 現「しらせ」の性能への疑問
もっと不思議に思えるのは、文科省の発表の下の方にこの文書へのリンクがあり、そこには前「しらせ」は、25回南極に行ったが、接岸できなかったのはたったの1回だけ。現「しらせ」は、最初の2回だけ接岸でき、3回目、4回目は接岸できず。なら、相当性能の悪い砕氷船と思える。しかも、この進め!しらせを見ていくと、前「しらせ」の接岸日が見つけられた。49次12月26日、48次12月23日、47次12月24日、46次12月21日とあり、11月に出港した翌月に接岸している。ところが、現「しらせ」は、1回目、2回目の接岸日は1月11日、1月1日であり、年を越えないと昭和基地に到着できていない。書面上の性能では、同じであるが、実質能力には差があるように思えてしまう。
どうなのだろうか?政府は説明をしてくれるだろうか?なお、可能性としては、エンジントラブルで性能が出ない可能性もある。何しろ、エンジン機種が公表されている書類を私は見つけることができていない。初代宗谷は新潟TN8Ex2基(4,800馬力)、2代目「ふじ」は三菱V8Vx4基(12,000馬力)、3代目前「しらせ」は三井12V42Mx6基(30,000馬力)であった。
2) 過去の経験は生かしているのか
昭和基地沖に接岸できなかった代表年の観測船の位置をプロットしてみた。
「第35次しらせ」と書いた位置が、前「しらせ」で接岸できなかった第35次(1994-1995年)の位置である。2012年と2013年の位置は、「第35次しらせ」より少しだけ距離があるように思える。第1次宗谷の位置は、1956年11月8日出発し、57年1月24日に到達した定着氷接岸地点である。「第2次宗谷」の位置は、太郎・次郎という犬で有名な越冬をあきらめざるを得なかった年の輸送拠点である。
「宗谷」は、日本の南極観測参加を可能にした当時の日本が英知を結集して作り上げた砕氷船である。この当時、砕氷船で南極観測をできたのは、日本以外には米ソのみであったのである。「宗谷」は、積極的に氷を割っていく船としては設計されていなかった。定着氷までたどり着き、定着氷に接岸し、荷揚げし、輸送するように考えられた。従って、第1次では、ベル・ヘリコプター2機とセスナ1機を偵察用に持って行き、活用した。当時は、基地の位置決定をもする必要があったのである。
翌年の「宗谷」は、昭和基地から180kmほどの位置までしか近づけなかった。これは、「宗谷」の砕氷能力が低かったからではない。この時は、米国の当時最大の砕氷船バートンアイランド号(13,200馬力)の応援を受け、当時最大の砕氷船が2月8日から2月10日まで砕氷にあたったのである。それでも、2月14日にバートンアイランド号から氷状悪化により退出すると宣言され、引き上げざるを得なくなった。南極の厳しさを思い知らされたのである。そこで、「宗谷」は、ヘリコプター輸送に翌年から方針変更した。ヘリコプター甲板を大きくし、シコルスキーS58x2機を追加搭載したのである。空輸作戦で確実に成功させることで成功したのである。
「ふじ」が、18回中6回の接岸に止まったが、前「しらせ」が25回中24回接岸という驚異の記録を達成したので、それに安住してしまったのだろうと思う。安住するなら、安住できる配備にすべきと思う。
なお、50次(2008-09年)はオーストラリアのオーロラオーストラリス号をチャーターした。この時も接岸していないが、当初から接岸は計画にない。昭和基地から43マイル地点を空輸拠点にしたと国立極地研究所の平成21年度年報にある。この時の輸送物資料は91.8トンであった。
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