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2013年3月20日 (水)

南極観測船「宗谷」

1月15日に南極観測船 「しらせ」 の昭和基地沖への接岸断念を書いた。この「しらせ」が、帰国途上の経由港オーストラリア・シドニーに入港したとのニュースがあった。

日経 3月18日 しらせ、シドニーに到着 隊員ら歓声

進め!しらせを見ると、1月15日の停泊地点より昭和基地に近づくことなくとどまり、2月10日に同停泊地点(南緯68度53分:東経39度15分)を離れ、シドニーに向かった。日本の南極観測船第1号の宗谷が第1次調査で到達した南緯68度58分:東経39度02分とほとんど同じ位置である。(宗谷は1957年1月24日到達。2月15日出発)

日本の当時の南極観測および宗谷という船については、学ぶことができる多くのことがあると思う。

1) 宗谷が日本の南極観測を可能にした

決して大風呂敷ではない。1956年(昭和31年)4月18日に衆議院科学振興対策特別委員会が開催され、参考人として当時日本学術会議南極特別委員長茅誠司氏、観測隊長永田武氏、日木学術会議国際地球観測年研究連絡委員長長谷川万吉氏が出席して発言をしている。

次の引用は、茅誠司氏の発言である。

国際学術連合、ICSUと申しますか・・・この中に南極観測のために特別の委員会が設けられておって、いろいろと企画されたのであります。現在までに南極地域における地球物理学的な観測に協力しようという国は、アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、チリー、イギリス、フランス、ニュージーランド、ノルウェー、ソ連、南ア、スペイン、アメリカ、この十二ヵ国でございます。日本といたしましては、最初のうちは、この計画に参画いたしますのは非常に困難である、たとえば砕氷船といったようなものを考えましても、現在の日本におきましては、そのまますぐに使える砕氷船はないというような点から、一部関係者は幾分あきらめておったのであります。けれども、よく考えてみますと、これは日本が戦争後国際的な協力をする第一歩ではないか、・・・

・・・問題は船という点が非常に大きな問題でありましたけれども、当時の政府の方々の間にいろいろと奔走いたしまして、その間の了解を得るに至りましたので、このブラッセルの会議に出席いたしました代表に、日本の協力の決意を披瀝するようにということを申したのであります。その結果、・・・委員会としましては、プリンス・ハラルド・コーストというところで観測してほしいという勧告が来たのであります。・・・

・・・船といたしましては、宗谷という耐氷船―砕氷船ではありません、2,200トン近くの船がございまして、艦齢は15年ほどの古いものでありますけれども、これを修理することによって砕氷船にかえることができるという考えのもとに企画いたしまして、目下これを砕氷船に改造中でございます。・・

次の引用は永田氏の発言である。

御参考のために申し上げますが、主として話題に出ますのは、米国とかソ連の大部隊でございますが、オーストラリア、ノルウエー、フランスといったような国々は、それぞれ600トンないし1,300トンの耐氷船であります。シーラーでありまして、アザラシ取りの船でありますから、砕氷能力がないのでありますが、場所さえよければ、千トン未満の耐氷船でもすでにやっておるところはあるわけでございます。・・・少くとも宗谷は砕氷予定能力1メートルでありまして、米国もしくはソ連の大型の砕氷船に比べればかなり小さいわけでありますが、今申し上げましたフランスその他の例をとりますと、場所によりまして、南極大陸だから不可能だということはないのでございます。・・・

2) 宗谷の耐氷船から砕氷船への改造

耐と砕の違いであり、耐えることと、砕くことの違いなのでイメージは掴みやすい。次の文章は現「しらせ」を建造したユニバーサル造船のテクニカルレビュー2009年8月号における文章である。

砕氷艦は艦首部喫水付近(水面部分)を大きく傾斜させ、氷に乗り上げて船体の重さで下へ氷を押し曲げることにより、砕氷航行する。この砕氷能力向上のため船首砕氷部の角度を19度(旧しらせは21度)にし、砕氷能力を向上させた。」

絵で示すと、次の赤の角度であり、宗谷は27度としたのである。実は、どのような船でも自由に角度を設定できるのではなく、宗谷は耐氷船であったから元々35度で建造されていたので、このような27度の砕氷船への改造が可能であった。

Bowa
船首部分は、新しい船首と取り替えた。それ以外にも大きな改造が多くある。次の絵は、断面と思ってもらえればよいが、左右にバルジと呼ばれる赤で示した部分を船体に追加した。目的は、氷に閉じこめられた時等の船体強度の補強、砕氷能力を良くするための幅の増加、安定性の向上であり、長期航海のための燃料タンクの増設にもなった。赤い円を2つ書いているが、ディーゼル2400馬力2基の2軸船に改造した。それまでは、約1200馬力の3連成往復蒸気機関であったので、4倍の馬力にあげたのである。そして、それまでは石炭燃焼のSLと同じ往復蒸気機関で航続距離4080海里であったのを航続距離10000海里に伸ばした。

Icebreakermod


3) 宗谷の第1次観測

1956年4月18日に衆議院科学振興対策特別委員会における永田氏の発言からです。

・・先ほど御説明いたしましたように、宗谷は観測船だと申し上げました。・・・少くとも南極地域に関します観測につきまして、船上でも最小限度の、つまり国際地球観測年の観測準備の資料はとれるという準備をしていると申し上げました。・・・万一危険があると考えまして、最初に考えましたように、上陸してそこに基地を設け、あるいは最小限の基地の建物を建てるというようなことが不可能になりましたときには、今年の予備観測では、ヘリコプターその他で一応予定地をきめるという程度で、つまり観測は船の上でやって帰ってきても、一応本観測のための準備としては、必要最小限度の資料をとることができるということを考えておるわけでございます。

当時政府予算の規模も小さかった。科学技術振興の予算も多くなかった。しかし、国会の委員会の場で、無理はしないことを明確に述べる。予算を分捕った以上は、不可能と言えないなんて、格好をつけるのではなく、堂々と正しいことを述べる。冒頭に、学ぶことができる多くのことがあると書いたが、この永田氏の発言も学びたいことです。

宗谷は、ベルヘリコプター2機とセスナ1機、そして随伴船「海鷹丸」にヘリコプター1機の航空部隊と共に南極に行ったのです。第1次は、プリンス・ハラルド海岸という世界で誰も上陸したことがない地点に行ったので、基地の予定地すら未定であった。基地候補地を探すことから始めねばならなかった。セスナは、航空測量地図作りが最大の目的であったのです。空中写真斜め463枚と垂直791枚を撮影した。ヘリコプターは、宗谷の航海進路の偵察でした。元々、宗谷では陸地接岸を考えておらず、定着氷に接岸し、そこから犬ぞりと雪上車で荷物運搬する予定であった。定着氷に到着するまでの間、氷が少ないあるいは割れて海水面が覗いている部分をヘリコプター偵察で見極めて進んでいこうとした。宗谷の砕氷能力に限界があることを前提にしたのである。

アマゾンに大人の超合金 南極観測船 宗谷 と言うのがありました。第一次南極観測隊仕様とのことで、船首マストが1本で、かつ船首がウエル甲板であり、船尾のヘリコプター甲板も3次以降より1段低い位置にある。それぞれ改造された理由があるが、慎重であると同時に、チャンスがあればそれを有効に生かし、不十分な点は次に改善していくというごく普通の当たり前のことなのだが、その通りに実行していった。学ぶべきことと思います。

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