憲法改正について
5月3日は現憲法の施行が開始されて66年目であり、日本国民が日本国の主権者であるとなった記念日であり、日本国民からすれば、勝利の日である。66年を経過すると、改正を唱える人も多くなったようである。
日経 5月3日 憲法記念日、各地で集会やイベント 参院選の焦点に
この機会に改正を考えると。
1) 政治家が96条の改正を唱えるのは間違い
多くの政治家が96条の改正を唱えているが、現行の「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議」との部分が改正に容易ではないことが、その理由である。では、具体的に現憲法のどの部分を改正しようというのか、改正の中身の議論が重要であり、手続きを定めた96条を先に議論するのは、本末転倒である。
仮に第9条の改正であるとする。強い反対論、実態に合わせるべきであうとする改正論そして現状でも困っていないのに何故改正するのか、あるいは政治家を牽制するために現在の第9条を改正すべきではないとする意見等があると思う。このような議論を戦わせ、国民の中でも多くの議論が行われ、実際に改正手続きに入いる。その時の改正手続きの実際の経験を取り入れて、96条をどうするかの議論をすべきである。改正をしたこともないのに、最初に96条の改正議論をすることは、どう考えてもおかしいのである。
次に今の3分の2にしても、小選挙区制であれば、得票を少し取れば達成できる可能性がある。政治主導と言って独裁政権を誇示した人たち、短い時間で深い議論もせずに非難を浴びせた事業仕分けとか、国民のことを、どう思っていたのかと感じる。憲法15条の「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」との公務員に議員や大臣も含まれると私は解釈しているし、天皇陛下も国事行為を行う時は公務員であると考える。
2) 自民党憲法改正草案
具体的に憲法改正を考えるとなると改正案の一つの参考案として読むことができる。しかし、読んでみると、全てが改正ではなく、改悪に思える。
条文の全てに表題を記載しているが、現状の表題無しの方が、条文が意味することを適切に理解できると考える。改正条文案にしても、基本的人権について現憲法は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。」となっている文章を「国民は、全ての基本的人権を享有する。」に変更する案である。憲法の存在以前に人は基本的人権を享有しており、その人権の享有を妨げることは駄目であるとするのが本来の筋である。自民案では、人権は享有するが・・・・となる。
12条の「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」のアンダーライン部分を自民案は「国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。」としている。公益とは何であるか、私には、公益社団法人及び公益財団法人の認定等に関する法律が頭に浮かんでしまう。そもそも、公益という言葉は、非課税法人の要件として使われていたと言うのが私のイメージである。一般の株式会社は不純であるのか?不純な会社も確かに存在するが、悪徳企業を除けば、全ては企業活動を通じて社会に貢献しているのである。農家は農産物を提供し対価を得る。立派な公共の福祉への貢献である。NHKは、自らを公共放送と言うが、民法を含め全て公共放送である。
憲法は、良心に従った解釈をすれば、素直に読める文章がよいと考える。
自民党の憲法改正草案で、国民を虐げようとする条文と思えるのが、政党に関する条文の追加である。政党が政治活動の自由を保障されるのではなく、国民が政治活動を始めあらゆることの自由を保障させるのである。自民案には「国は」との用語が頻出する。意味不明の使い方である。現憲法で「国は」と使っているのは、25条2項の「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」であり、この国はの意味は、政府のみならず議会、裁判所、国民全てであると私は解釈する。
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