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2014年5月17日 (土)

JR東海共和駅構内認知症患者の男性(当時91)死亡事件(その3)

この事件は、判決文を読むと、多くのことが教えられると思います。そのような中で私が思ったことを書いてみます。

1) 賠償責任

損害を与えた時には、相手に賠償する責任があることは、社会の規範であると考えます。JR東海共和駅構内事件も、JR東海は、この死亡した認知症男性が責任能力を有していた場合はその相続人に対して、有していなかった場合は監督義務者として賠償の請求をした。結果、払われないので裁判を提起した。名古屋地裁は、認知症男性が責任能力を有していていないと判断し、監督義務に問題があったとして、監督義務者に賠償金の支払いを命じた。

名古屋高裁の判決文を読むと、認知症男性の責任能力については、当事者間で争いにはなっていなかった。賠償金をめぐる争いでは名古屋地裁の判断で、責任能力を有していないことは決着していたのです。監督義務者の義務についての争いの事件です。

認知症の人が他人の財産を侵害した場合や、事故を起こしてしまった時のことを考えておくのは大切です。従来より、そのリスクは現在の日本では大きくなっていると思います。

2) センサー

電子関係の技術は最近進んでおり、高齢化社会における対策として取り入れられるものは、取り入れるべきと考えます。勿論、認知症だからと言って、誰もが付けて良い訳ではない。家族なり、その認知症のケアを責任もってあたっている監督義務者が判断をすべきです。高齢になると体調の不安や何らかの健康問題を抱えていたりすることが多くなる。24時間監視してくれるセンサーでその人の位置も把握することができる医療センサーがあるような気がするのです。そのようなセンサーを付けることも考えられると思います。

あるいは、位置情報だけでも、せめてと言うことで、高齢になると夫婦揃って位置センサーをつけてお互い不安の内容にしましょうと言うのも良いのかも知れません。認知症になっていなくても付けて構わないのですから。夫婦仲が悪かったり、独身だったらどうするかって、聞かれそうですね。誰か、信頼できる相手通しで見張りあいましょうか。認知症の恐れが出たなら考えてよさそうな気もします。

毎日新聞は、5月10日に認知症:行方不明者1万300人に 2013年 との報道をしていました。不明者届の受理件数であり、判明した人もあるので、その中で依然として行方不明となっている人や死亡した人の人数は公表されていないと記事にありますが。

共和駅構内の事件も死亡した認知症男性の住まいは共和駅ではなかったのです。最寄り駅から電車に乗った可能性があるが、思わぬ行動に出てしまうことがあり得る。

なお、センサーについて私は義務付けることには反対ですし、当事者の自らの意志による選択で実施すべしとの考えです。

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2014年5月13日 (火)

JR東海共和駅構内認知症患者の男性(当時91)死亡事件(その2)

4月24日に名古屋高裁判決が裁判所のWebで公開されました。

名古屋高等裁判所損害賠償請求控訴事件 事件番号 平成25(ネ)752 (判決文はここ

5月10日のブログで書いたとおり、民法714条による無責任能力者の責任に対する監督義務者の第三者賠償義務による賠償責任の認定です。

あらためて、書きたいと思いますが、とりあえずは、Webに判決文が公開されたことの報告です。

ちなみに、認知症患者の男性は相当多数の不動産を所有するとともに,5000万円を超える金融資産を有していたとの事です。それだけの財産があれば、その知症男性のために、一人で外出して事故を起こさないような予防措置や対策にお金を使ってあげればと思います。過去に何度も徘徊し、タクシーの運転手に連れ戻されたりもしているのですから。それにも拘わらず、携帯やスマホのGPSセンサーさえ保持させていなかった。

この91歳の男性がかわいそうになります。そして、列車は最大2時間以上遅延した。振替輸送が行われたものの、多くの人が被害を受けたと思います。認知症徘徊による対策として万全ではないが、GPSセンサーは利用すべきと考えます。

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2014年5月10日 (土)

JR東海共和駅構内認知症患者の男性(当時91)死亡事件

4月24日に名古屋高裁で、JR東海共和駅構内認知症患者(当時91)の介護をしていた認知症の妻に360万円の支払いを命じる名古屋高裁の判決があった。その後、JR東海も妻も判決を不服として、双方とも最高裁に上告をした。

日経 5月9日 認知症事故訴訟、JR東海が上告 

日経 5月10日 認知症徘徊事故訴訟、死亡男性の妻も上告 

この事件は、決してJR東海やこの家族のみの事件ではなく、高齢化が進み、認知症の人が増加している現代社会の問題であると考えます。私の思うところを以下に書きますので、読んでください。

1) 一般の反応

政府は、日本においは長期入院患者が多いこともあり、在宅医療拡大の方向に行っている。同じように、在宅看護、在宅介護、在宅ケアがますます多くなり、こんな判決では、安心して自宅で介護ができない。介護の実情や今後の方向を無視した非常識な判決であるとの意見を多く聞く。

又、そのような意見は、実際に現場で介護に携わっている人や、高齢者のケアに関係されている医療関係者にも多い。

そのような中で、4月24日のこの東京新聞の記事「知症 事故訴訟(上) 介護の家族ら 動揺と不安」その下 は、判決前ということもあり、冷静な記事と思う。記事から引用すれば「どんな思いで出ていこうとしているのかとのを、本人の目線で考えなければいけないが、家族は介護にくたくたでその余裕がない」との井沢恵美子氏の話は、その通りである。

2) 民法

民法においては、(本当は民法なんてあろうがなかろうが当然の話として)709条に「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」とある。

社会の仕組みであり、社会を成立させるためのルールである。

更に付け加えねばならないのが、次の713条と714条である。読んで見てください。

713条 精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者は、その賠償の責任を負わない。ただし、故意又は過失によって一時的にその状態を招いたときは、この限りでない。

714条 前二条の規定により責任無能力者がその責任を負わない場合において、その責任無能力者を監督する法定の義務を負う者は、その責任無能力者が第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、監督義務者がその義務を怠らなかったとき、又はその義務を怠らなくても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。

② 監督義務者に代わって責任無能力者を監督する者も、前項の責任を負う。

責任能力がない人に責任は問えないとして、その責任無能力者を監督する義務がある者が損害賠償義務があるとしている。但し、監督義務を怠っていない場合や、義務を怠っていなくても生じた損害についての賠償義務まではないとしている。

社会通念とも一致するし、社会の原則と考えます。

3) JR東海共和駅事故4月24日判決

4月24日の判決やその前の一審判決も読んでおらず(Webを探したが見あたらず)想像が入るのですが、JR東海は死亡した認知症男性を責任無能力者であると考えたのだろうと思う。そこで、認知症男性の妻と長男を監督義務がある者として損害賠償を求めたのだと思う。

裁判所は妻を監督義務者であると認め、4月24日の判決になったと思う。(参考:日経 4月24日 二審は妻のみ過失認定 認知症徘徊電車訴訟で名古屋高裁

4) 我が身で考えれば

我が身で考えればと言った時に、マスコミ報道やブログ、ツイッター反応でも、全てと言っていいぐらい介護者(監督義務者)側の立場での考えです。

もし、被害者側であれば、どうなのだろうか?車を運転していて認知症の人が突然現れて事故を起こしてしまった。避けようとして、ハンドルを切り反対車線に侵入してしまい、大事故になってしまった。

もっとあり得ることとしては、お店で品物を盗んでしまう。店の人としては、事実関係を調べ、監督義務者に賠償を求めねばならない。代金のみならず、手間暇が大変である。

被害者にもなりうることも考える必要があります。

5) 対策

監督義務者は必要な対策をすべきであり、義務であると考えます。高齢者の高速道路の逆走なんてニュースがあったりするが、進行度の差はあれ、認知症なのだと思う。やはり、車のキイや車そのものを取り上げる対策を採らないと、その高齢者の身の安全が守れないかも知れないし、大事故を起こして他の人の財産に損害を与えたり、傷害や死亡に至ったら大変です。

家族は介護でくたくたなのですが、その人に対する対策は十分であるのか考えるべきです。高齢化社会は悪いことではない。しかし、高齢化社会や認知症の人が引き起こすリスクについてもやはり考えるべきです。

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2014年5月 4日 (日)

憲法解釈

憲法解釈の変更なる言葉が使われているが、ある違和感を感じざるを得ない。日本国憲法は紙の上の文章であり、文章であるからこそ、解釈が伴う。憲法とは、国を定める最高法規であり、日本国憲法第98条に「この憲法は、国の最高法規であつて、・・・」としている。そして、憲法前文は「日本国民は、」という文章で始まり、この文章は「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」で結ばれる。

すなわち、日本国憲法は、国民が定めたのであり、それをどう解釈するかは、政治家、内閣あるいは政府の手にあるのではない。国民の手にあるのである。一人一人、解釈が異なるかも知れないが、ここまでは許される範囲とすることもあり得ると考える。しかし、それでも、それを決定するのは、国民である。以下、憲法記念日を少し過ぎたが、思うことを書いてみます。

1) 日本国憲法の制定

朝日新聞の意見を述べているのではないがこの5月4日の記事 に『「占領軍の素人が数日間でつくり、押しつけた憲法」。改憲を求める人々は、現行憲法をこう批判する。』とある。中には、そのように思っている人もいるのであろう。事実は、1946年2月13日にGHQは日本政府に対してGHQ草案を提示した。その後、日本政府は1946年6月8日に枢密院で起立(賛成)多数により修正内容を盛り込んで可決した。(参考:読売新聞 1946年6月9日(国会図書館Web) )政府は6月20日に帝国議会へ帝国憲法改正案を提出した。

衆議院は、1946年8月24日に帝国憲法改正案を修正議決した。そして貴族院は1946年10月3日に修正議決を行い可決した。これらの帝国議会での修正議決の結果、10月2日に枢密院に再諮詢され、1946年10月29日、枢密院本会議において、全会一致で可決された。

日本国憲法は、1946年11月3日に天皇の裁可、公布となった。(参考:日本国憲法公布 官報 1946年11月3日(国会図書館Web)

GHQ草案と現行の日本国憲法の各条の文章がどのように改正されたかは、4) に各条の比較を掲げているので、参照ください。

2) 憲法第9条

憲法第9条については、GHQ草案をめぐっての国内の議論でも存在した。1946年4月15日の憲法改正草案の枢密院審査委員会審査記録(未定稿:この国会図書館Webより )には、次の記載もある。

林 国号の点と難解なる字句の点はお答を諒とする。他の点は議論になるので一応以上に止める。 戦争抛棄に付自衛権はない様にとれる。世界の公正と信義に託するとは理想郷にすぎる。第九条に第一項の外第二項あり。故に自衛戦は出来ぬことになるか。

松本 第一項は戦争を仕掛ける方の抛棄なり。この外第二項があるが、これは外国から戦争を仕掛けられたとき、立ち上らぬと云ふ事ではない。この場合反抗することは当然なり。只軍備をもたぬ、その結果として交戦権ももたぬと云ふ丈なり。それなら自衛権ありと書いたらどうかと云ふと、これは又自衛権の名にかくれて戦争をする事になる虞があるから賛成出来ない。

一方、衆議院の1946年8月24日の決議で、第2項に「前項の目的を達するため、」が付け加わっている。QHQ草案の第9条に相当する部分は、4)の比較表の通りであるが、英語では次の通りであった。

War as a sovereign right of the nation is abolished. The threat or use of force is forever renounced as a means for settling disputes with any other nation. No Army, Navy, Air Force, or other war potential will ever be authorized and no rights of belligerency will ever be conferred upon the state.

”belligerency”なんて、難しい英単語もあるが、rights of belligerencyで交戦権ですか(あるいは交戦状態ノ権利ですか)、英語で読むとなるほどと感じるところもある。主権とは、sovereign rightのことなのだとか。

3) 憲法維持・改正

日経に5月2日 憲法「維持」が過去最高、「改正」と並ぶ 本社調査 との記事があったが、憲法をよく知ることは重要です。

4) 日本国憲法とGHQ草案との比較

最後に日本国憲法とGHQ草案の比較を掲げる。詳細な資料は国会図書館の日本国憲法の誕生 にあり、様々な資料をWebで読むことができる。

Constitution_and_ghqdarft_2

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