原爆・終戦の1945年8月を考える
NHKスペシャルは、広島原爆の8月6日に「決断なき原爆投下~米大統領 71年目の真実~」を放映していた。(この番組)
その内容は、明確な決断がなかった可能性があるとのことであった。私は、調べていないので何も言えないが、逆に明確な意志が存在したとも思える点もある。
それは、NHKが百合子さんの絵本-陸軍武官・小野寺夫婦の戦争-という終戦スペシャルドラマを7月30日に放映していた(再放送8月25日)。このドラマの内容は、夫が掴んだソ連参戦の情報を妻が暗号化して日本に送ったが、その情報はいかされなかったことを一つの主題としている。
ソ連参戦の情報とは、この国会図書館のWebにもあるヤルタ協定である。念のため、ソ連参戦の部分を抜き出すと次である。
三大国即チ「ソヴィエト」連邦、「アメリカ」合衆国及英国ノ指揮者ハ「ドイツ」国カ降伏シ且「ヨーロツパ」ニ於ケル戦争カ終結シタル後二月又ハ三月ヲ経テ「ソヴィエト」連邦カ左ノ条件ニ依リ連合国ニ与シテ日本ニ対スル戦争ニ参加スヘキコトヲ協定セリ |
ドイツ降伏の日は1945年5月8日である。その日から「三月ヲ経テ」は8月8日であり、8月9日にソ連軍の当時の満州侵攻が始まった。ヤルタ協定の通りであり、「百合子さんの絵本」の通り、小野寺武官が入手し、本国へ送った情報は有効に使われなかったのである。
ヤルタ協定の当事者の一国はアメリカである。アメリカは8月8日・9日のソ連の日本に対する戦争・戦闘開始は公式情報であり、それを念頭に対日戦争を戦っていた。原爆投下もヤルタ協定によりソ連が日本本土に侵攻していった場合を恐れてのことではないかと思う。
アメリカはB29による空爆はできていたが、本土上陸には未だ時間がかかっただろうと思われることと同時に日本軍の抵抗により沖縄同様鎮圧には相当の期間が予想された。そのような状態では、ソ連に北海道はおろか東北、あるいは朝鮮半島から侵攻してきたソ連軍に九州や中国地方の西部さえ押さえられソ連軍の支配下におかれることになったかも知れない。このあたりは、どうなったか分からないが、ソ連を日本に行かせたくなかった。何故なら、ソ連軍の軍艦が太平洋に自由に出てくることを嫌ったからである。ソ連の太平洋側には、ウラジオストック以外に不凍港として使える軍港がない。サハリンはソ連への返還とヤルタ協定で決めているので、宗谷海峡の南側の北海道までソ連の支配下となったり、日本のある程度の範囲がソ連の支配下となることは、アメリカにとっては避けたい事態である。
歴史とは恐ろしいものと思う。日本がドイツ他のように分裂国家となっていた可能性もゼロではなかったはずである。
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コメント
ソ連参戦の情報はスウェーデン大使館から届いていたはず.(陸軍武官が独自に無電を打てれば陸軍へ)
で、この情報がどうなったかと言えば、天皇まで届いて、それで終わってしまった.
その情報がどうなったのか、なぜそうなったのか、何も描かないのがNHKの特徴.
(話は簡単、描くと天皇の責任になるから描けない.だから訳の分からない結末には、いつも天皇が絡んでいる)
満州北部、アムール河の対岸のソ連軍の様子を、日本の国境警備隊が常時監視していて、シベリア鉄道で輸送される貨物の内容も、日本軍は全部つかんでいた.
河の対岸に、おびただしい数の兵士がやってきて、物資が山積になって行く、その情報も日本に届いていたが、どこかへ行ってしまった.
満州の軍部にはソ連の侵攻は分りきったことで、関東軍の将校が、理由をつけては日本へ逃げ返って来ていた.これも有名な出来事なのに、あたかも外交官の情報だけが失われたかのように描くのも、NHKの特徴である.
ザカライアス放送(以前にも書いたかもしれないけど)
ドイツ降伏後、週一回、三十分の放送で、短波により日本に対して日本語による降服勧告の放送が始まった.
陸軍の情報は、陸軍から天皇には届くけれど、天皇が興味を示さなかったらそれで終わり.
海軍の情報は、海軍から天皇には届くけれど、天皇が興味を示さなかったらそれで終わり.
外務省の情報は、外務省から天皇には届くけれど、天皇が興味を示さなかったらそれで終わり.
この実態をアメリカは知っていた.降服勧告を行うならば外務省を通じて行うのが正しいと思われるけど、それでは陸海軍には全く伝わらずにどこかへ行ってしまう.だから、皆に一度に共通した情報を与える必要がある.と考えて、短波による宣伝放送によって降服勧告を行った.
日本に短波受信機が五百台程あって、軍部、政府関係者だけでなく財閥の首脳とか、そうした人間も聞くであろう前提だった.海外の日本軍も同じ放送を聞いたはずであり、いきなり寝耳に水の話として天皇の敗戦放送を聞くことになったのではなく、それ以前から予想された出来事だったと思われる.
(航空隊の無線室にも短波受信機があって、結構、内緒で聞いていたらしい)
『謀略かもしれないが、それを承知で乗らないと事態の打開の道は開けない』、このような天皇の言葉によって、日本からも短波による打ち返し放送が行われた.
『日本は戦争に負けたことがないので、降伏の仕方が分らない』(同盟通信の井上勇.公に、負ける、降伏を口にした)
『嘘付くな、西郷隆盛は西南戦争で負けただろう』
実は、ポツダム宣言は日本に対して正式な通告はありません.現地での記者発表の情報が、スウェーデン、スイスの大使館より届いたのと、もう一つは短波による宣伝放送でした.(日本語ではないらしい)
八月十日、『国体護持を前提にポツダム宣言を受諾する』の表明をしたとき、スウェーデン、スイスの大使館を通じて中立国に伝達を依頼したのですが、手違いがあってはいけないということで、NHKが短波放送でも伝えています.(未公表の情報を放送したので、放送を聞いた憲兵隊が放送局に乗り込んで来た)
多分NHKの放送のためであろうと思われるのですが、大岡昇平はフィリピンの収容所で八月十一日に看守から受諾の情報を聞かされたと言っています.
やはり八月十一日、日本に爆撃に向かうB29の搭乗員が受諾の情報を得ていて、飛行中に爆撃中止の命令が来るのではないかと無線に注意していたが来なかったという証言もあります.
ポツダム宣言が正式なルートで伝達されなかったことを、アメリカが日本をバカにしていると言って怒っている人がいますが、とんでもない間違いで、日本の国内ですらまともに情報が伝わらないので、短波放送を利用していたと考えるべきです.
ちなみにザカライアス放送は、『ドイツのようになる前に降伏しろ』と呼びかけています.
投稿: rumichan | 2016年8月 8日 (月) 20時45分
天皇が筆頭株主で、天皇の御用銀行と言われた外国為替を一手に扱う横浜政金銀行.
連合国は捕虜の待遇改善のために、スイスの銀行を通じて日本に寄付を申し出た.
日本はそのお金を横浜政金銀行を通じて受け取り、不当な為替レートで取り扱って、大半をピンハネしたと言われている.
さて、ピンハネしたお金、誰の懐に入ったのか?.
1945年8月6日、広島に原爆が投下された.その翌日の8月7日、天皇は皇后の名前で、国債赤十字に現在のお金で30億円を越える金額の寄付を申し出た.
その時のスイスの銀行口座が、先に連合国が捕虜の待遇改善のために寄付を行った口座と同じだったので、イギリスはそのお金を差し押さえた.
(戦後数年たってから、裁判の結果、寄付が認められたらしい)
投稿: rumichan | 2016年8月 8日 (月) 22時04分
rumichan さん
コメントをありがとうございます。国会図書館の次のページを見ても「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」とポツダム宣言受諾を在スウェーデン大使加瀬公使・岡本公使あてに東郷外務大臣が打電しているのは8月10日前9:00ですね。
http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/01/010/010tx.html#tc021
ヤルタ協定によるソ連参戦の情報は、複数の情報源から日本政府トップに入っていたと私も思います。小野寺信氏とは、小野寺機関として中国で情報活動をしていたことで有名と理解します。Wiki:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA%E4%BF%A1
投稿: ある経営コンサルタント | 2016年8月 8日 (月) 23時13分
国体護持(天皇制)
1.皇族
戦後、その範囲を制限されたのはご存じの通り.
2.華族
天皇の取り巻き.国のお金で養っていた.戦後全て廃止.
3.枢密院
廃止.権力をほとんど失っていたが、勅令を枢密院の議決だけで成立させることが出来たようだ.
普通選挙法が成立するとき、抱き合わせで治安維持法を成立させたのは枢密院であり、その後、最高刑を死刑に引き上げたのも枢密院である.
4.天皇財閥
戦前の財閥は、株式非公開の同族経営の持株会社で、その筆頭、日本最大の財閥が天皇財閥だった.
4-1 宮内省
6千人の職員が、天皇の財産の運用を行っていた.
解体され、宮内庁になった.
4-2 横浜政金銀行
解体
4-3 財産
戦前の天皇は、世界一の金持ちだったとも言われている.
戦後残されたのは、御用邸、御料牧場、墳墓だけで、ほぼ全ての財産が没収されたと言える.
成田空港の建設地が決まったのは、あの場所に御料牧場としてまとまった土地があったためで、没収して建設された.
天皇制の解体はアメリカの戦争目的でした.そして、その目的は、ほぼ達成されたと言えます.
日本は国体護持にこだわって、戦争を止めませんでした.原爆を2発落とされても未だ国体護持にこだわっていたが、アメリカは最後まで国体護持を認めようとはしなかった.
当然でしょう.日本は漠然と国体護持というだけで、具体的に何を意味するのか分らない.
アメリカにしても、例えば天皇の財産がどうなっているかと言うことは、戦後調べて具体的に明かになったことであって、分らなくては答えようがない事だったと言えます.
日本は国体護持という漠然とした言い方で、天皇制の全てを残そうとした.アメリカにすれば絶対に認められないことであり、その意図が見え透いているので、アメリカは最後まで国体護持を認めようとはしなかった.
投稿: rumichan | 2016年8月 9日 (火) 00時24分
カイロ会談
蒋介石軍は日本との戦いによって、毛沢東軍に比べて弱体化していて、蒋介石が日本と和平を結ぶおそれがあった.
そのため、アメリカは蒋介石を呼んで、おだて上げ、日本を無条件降伏させるまで戦うことを約束させて、共同で宣言を出した.
ポツダム会談
ドイツ降伏後、ソ連は略奪を始めていた.ドイツの工場の機械を工場ぐるみ持ち去って行く.ソ連の占領地だけでなく、アメリカ軍が撤退するとやってきて略奪を行うので、チャーチルが何とかして欲しいとトルーマンに泣きついて開かれた会談である.
(日本に対するポツダム宣言のために開かれたのではない)
ザカライアス
彼は日本で暮らしたことのあるアメリカの諜報員で、高松宮と親交があった親日派の人間である.
彼は、日本に対して親身になって降服勧告の放送を行った.
ポツダム宣言の草案に国体護持の項目が含まれていたのが、発表に際して削られてしまったので彼は怒ったのだが.....
国体護持に限らず、無条件降伏に条件を認めることは出来ない.
ソ連は約束を破って略奪を行っている.何としてもソ連に約束を守らせなければならない.
その様な状況下で、蒋介石との約束を破る行為、無条件降伏に条件をつけることは絶対に出来ない相談だった.
投稿: rumichan | 2016年8月 9日 (火) 01時17分
http://www.bs-asahi.co.jp/tatakaigakikoeta/prg03.html
先に書いたように8月10日に、日本は短波放送によりポツダム宣言受諾の放送を行った.
それはそれとして、もう一つ、重要なことが書かれている.
情報局総裁の下村宏は、8月8日に、天皇に玉音放送の進言をしている.8月9日の長崎原爆、ソ連参戦の前であり、政府首脳および天皇はは8月6日の広島原爆投下によって、既に降伏を決断していたと判断される.
投稿: rumichan | 2016年8月11日 (木) 00時15分
rumichan さん
多くの書き込みをありがとうございます。
BS朝日の紹介には「下村さんは8月8日、天皇に拝謁。その場で玉音放送の進言をしたとされる。」とありますね。
そうなると、スウェーデン大使加瀬公使・岡本公使あてのポツダム宣言受諾を伝える電報が8月10日午前9時なので、私はそれ以前の10日午前8時頃か、前日の9日と考えていたが、8月8日あるいは、それより前に日本政府はポツダム宣言受諾を決めていたのですね。下村氏が玉音放送の進言をしたとして、そのためにはその前にポツダム宣言受諾の決定がないとできないことですから。
いずれにせよ7月26日のポツダム宣言から後(時差もあるので実質は7月27日かも知れませんが)日本政府首脳部の中では大議論があったのでしょうね。rumichan さんのご指摘のようにヤルタ協定の内容が政府首脳に伝わっていれば、大議論は如何にして軍部や国内の混乱を避けられるかが中心だったかも知れませんが。
投稿: ある経営コンサルタント | 2016年8月11日 (木) 01時04分
>いずれにせよ7月26日のポツダム宣言から後(時差もあるので実質は7月27日かも知れませんが)日本政府首脳部の中では大議論があったのでしょうね。
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たいした議論はなかったはず.
一説によると米内光正が『ただいま検討中である』とアメリカに思わせる見解を発表しろと言ったら、『黙殺』をやってしまったと言われている.
8月4日の最後のザカライアス放送でも、原爆投下を控えて降伏をせかせるザカライアスに対して、日本側は『今の東京はあなたの知ってる東京ではない.一面焼け野原だ.日本の事情を考慮して時間をくれよ』、このような回答を行っている.
8月10日 国体護持を前提にポツダム宣言受諾表明
8月11日
8月12日 本土爆撃お休み
8月13日 本土爆撃お休み
8月14日 爆撃再開.午後からの大阪爆撃で爆弾と一緒に『これが最後の爆撃です』と言うビラがまかれた.これが本当なら13日の内にアメリカにポツダム宣言正式受諾の話が伝わっていたことになる.
先にカイロ会談での、アメリカ-蒋介石の、日本に対する無条件降伏の約束について書いたが、多くの人が『何だそれ』と言われるかもしれない.
ソ連は8月15日を過ぎても戦争を止めず、満州、樺太での侵攻を続けた.
理由は?.
『アメリカは国体護持を思わせる回答を行った.日本はその条件で降伏したのであり、約束は無条件降伏なので、日本は未だ降伏したとは言えない』
日ソ中立条約を破ってソ連に参戦するよう要求したのはアメリカ.
約束を破れと言ったのはアメリカだろう.
だからソ連が約束を破って、ヨーロッパで略奪して何が悪い.
ソ連は日ソ中立条約を破るように要求したアメリカの弱みに付け込んで、ヨーロッパで好き勝手な事を始めたので、アメリカはソ連が約束を破るという約束を果せないように、何としてもソ連の参戦は避けたかったと思えるが.
ソ連はアメリカより一週間以上早く朝鮮の38度線に到達した.一度38度線を越えてから自発的に戻ったと言われている.
ソ連は約束を守って38度線に留まったのだから、アメリカも約束を守って北海道をよこせ.
さすがに北海道への武力侵攻が無理と分って、ソ連は約束を守る、守らせる方へ方向転換した.
投稿: rumichan | 2016年8月12日 (金) 01時28分
http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/07/news-august-8_n_7937458.html
■昭和天皇「聖断」へ動く
昭和天皇は8月8日、木戸幸一・内大臣に次のように述べた。
「このような武器が使われるようになっては、もうこれ以上、戦争を続けることはできない。不可能である。有利な条件を得ようとして大切な時期を失してはならぬ。なるべく速やかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを鈴木首相にも伝えよ」
昭和天皇は同じ日、東郷茂徳外相にも、同様の意思を伝えている。
昭和天皇の意思を木戸から伝え聞いた鈴木貫太郎首相は、最高戦争指導会議を開こうとするが、軍人らの都合がつかず、8月9日朝の開催に延期された。わずか1日の違いで、戦況はさらに日本に不利に傾くことになる(*1)。
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1.8月8日、情報局総裁の下村宏が、『御聖断を仰ぐときは、マイクの前に立って欲しい』このように進言した.
これは、同日、天皇が鈴木首相、東郷茂徳外相に、『速やかに戦争を終結するよう努力せよ』と意思表示した、それを受けてのものと考えられる.そして、反対派を抑えるためには『御聖断』しかないことも、天皇と政府関係者の了承事項になっていたと思われる.
2.最近、左翼の人が中心になって、アメリカの原爆投下を批判するために、『日本はソ連参戦によってポツダム宣言を受諾したのだ.アメリカの原爆投下は意味なかった』と言ったことを盛んに言っている.
8月9日9時半頃、ソ連参戦の知らせを聞いて、やはり天皇は『速やかに戦争を終結するよう努力せよ』と言い、そして10時半から最高戦争指導会議が開かれたので、このことから『天皇はソ連参戦の知らせを聞いて、すぐにポツダム宣言受諾の決定をした』と、多くの人が言っているが間違いである.8月8日に開こうとした会議が延期されたに過ぎない.
書き加えれば、8月9日の会議で阿南陸軍大臣は、『満州の関東軍は2ヶ月しか持たない』と発言していて、多くの人は、ソ連が日本本土まで責めてくるのに2ヶ月かかると思ったはず.
それに対して原爆は何時また落とされるか分らない.現実に8月9日会議を開いているときに長崎に投下された.
投稿: rumichan | 2016年8月13日 (土) 18時00分
rumichan さん
書き込みをありがとうございます。紹介のあったHuffingtonpostの記事および記事が参照している産経の記事も読みました。
8月8日、木戸幸一内大臣と賜謁した東郷茂徳外相に速やかなる戦争終結の希望を述べたとのこと。昭和天皇が自ら率先して戦争終結に動き出したのか、8月7日以前から昭和天皇に働きかけていた人が誰かいたのか興味あるところです。
投稿: ある経営コンサルタント | 2016年8月13日 (土) 22時47分
http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/64410.pdf#search='%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%B1%B3%E5%9B%BD%E3%81%AF%EF%BC%92%E7%99%BA%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%82%92%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AB%E6%8A%95%E4%B8%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B'
176 (16/30) PDFビュワーのページで16ページ
「ニューヨークタイムズ」のトップ記事(1945年8月11日~8月14日)
『立命館経済学』の藤岡惇と言う人は、何としてもソ連参戦によってポツダム宣言の受諾したと言いたいようです.
それはそれとして、全部読むと長いので16ページだけ、当時のアメリカ側の参考資料としてご覧ください.
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で、それはそれとして、ついでに(14/30)から引用すると
引用開始-----
8月9日午前10時半から10日未明にかけて,「ポツダム宣言を受諾すべきか」という論点をめぐって天皇臨席のもとで「最高戦争指導会議構成員会議」(いわゆる「御前会議」)が断続的に開かれた。会議を蔽っていたのは,2発の原爆投下の影ではなく,ソ連侵攻の影であった。
全員がポツダム宣言を条件付きで受諾するという点では一致した。ただしどのような条件を付するのかをめぐって紛糾した。
①「国体護持」の中核は天皇制の存置にあり,現皇統下の皇室の安泰の保障だけでよいとするグループは「最小限」派(東郷外相,鈴木首相,米内海軍大臣)を形作った。
これにたいして,①だけでは不十分であり,
②自発的武装解除,③戦争責任者の自国処置,④占領は最小限に留めるという3項目を付け足し,
「国体の最大限護持」の言質をとれとする「最大限」派(阿南陸軍大臣,梅津陸軍参謀総長,豊田海軍軍令部総長)との間で,論争が行われた。
「天皇制の存置のみとおしがあれば,ポツダム宣言の受諾やむなし」という天皇の「聖断」をうけて,両派は妥協し,日本政府は8月10日,
「天皇の国家統治の大権を変更するとの要求を包含し居らざることの了解の下に」
ポツダム宣言を受諾するという回答を作成した。回答は,日本と外交関係を維持していたスイスとスウェーデン政府を介して,米国側に伝達された
引用終了-----
①「国体護持」とは、あるいは
「天皇の国家統治の大権を変更するとの要求を包含し居らざることの了解の下に」
と言うことは、早い話、天皇が戦争責任を問われないということ.
③戦争責任者の自国処置、とは、どういうことか?
戦争責任者、つまり軍人がアメリカから戦争責任を問われないということに他ならない.
8月9日の最高戦争指導会議の内容は、戦争指導者たちの戦争責任回避に過ぎません.
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追加
『天皇臨席のもとで「最高戦争指導会議構成員会議」(いわゆる「御前会議」)が断続的に開かれた。』
これは間違いで、天皇が臨席しない『最高戦争指導会議』が深夜まで行われて、皆が疲れ果てた深夜になってから、御前会議を開くには陸軍参謀総長、海軍軍令部総長の了解が必要なため、二人を騙すようにしてサインさせて、天皇を呼んで御前会議を開いたというのが真相である.
投稿: rumichan | 2016年8月14日 (日) 01時08分
rumichan さん
色々な書き込みをありがとうございます。
色々な見方があり、日本国憲法ですが、東京新聞は「「9条は幣原首相が提案」マッカーサー、書簡に明記 「押しつけ憲法」否定の新史料」という記事を出していました。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016081290070313.html
幣原氏が日本国憲法の原案を作成するにあたり、関係しているのは、間違いないと思いますが、どの程度であったのかは、私もよく分かりません。
投稿: ある経営コンサルタント | 2016年8月14日 (日) 15時37分
通りすがりですけど、「決断なき原爆投下~米大統領 71年目の真実~」の内容は間違いです。
証拠は、その番組中で紹介された、1945年8月9日にトルーマンが書いた手紙。
番組中では、『日本の女性やこどもたちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している』とされてました。
けれども、その原文がこちらにあります↓
http://nuclearfiles.org/menu/library/correspondence/truman-harry/corr_truman_1945-08-09.htm
読んで分かるとおり、真逆の意味。
トルーマンが、確信をもって原爆投下を決定したことをうかがわせる史料です。
そして歴史の研究では、事後になってからの当事者の証言は、全く当てになりません。貴重な情報ではあるのですが、事実と相違していることが、決して珍しくないからです。なので、必ず確認をとる必要があります。
この番組、「決断なき原爆投下」では、グローブス将軍の録音テープが出てきますが、それも同様。それが真実である保証はどこにもなく、だから何はともあれ確認をしなければならない。でなければ、それは真偽不明の証言としか扱えません。
ところがその番組ではそうしないまま、真実として扱ってます。非常な手落ちであり、おっちょこちょいです。
ちなみにこういう事例、マッカーサーの言動には非常に多い。彼の言うことはまったく当てになりません。
投稿: 不来方史郎 | 2016年8月16日 (火) 23時20分
それから、実は私、こういう本を書いてます↓
『心理的衝撃としての原子爆弾』(自己出版)
http://books.rakuten.co.jp/rk/d14ba60664bf31449077ff7a65c801f3/?s-id=top_normal_browsehist&xuseflg_ichiba01=15796236
書いた当人が言うのもなんですが、お金出して読む本じゃありません。電子書籍の仕様を勘違いしてアップロードしたので、そもそも本の体裁になってないんです。
とにかく、そのさわりが↓
まず、「原爆投下は不要だった、自分は反対していた」という証言するアメリカ人は何人もいますが、調べてみると、それは戦後になって言い出したこと。慎重な意見は確かにありましたが、はっきり反対していたのは、レオ・シラードなど科学者の他は、海軍次官補ラルフ・バードただひとりです。
「日本は降伏の準備をしていた」という説もありますが、調べてみると、そんな事実はありません。アメリカも、当時ありとあらゆる可能性を考えながら対日戦を遂行していましたが、そうなるとは判定していません。
「天皇制を容認すれば日本は無条件降伏する」と国務次官グルーや陸軍長官スチムソンは主張していましたが、元国務長官コーデル・ハルはそれに反対していました。「逆効果になる恐れがある」であり「アメリカ世論を考えろ」ってことです。
そして沖縄戦でのアメリカの人的損害は、約7万5千人。日本本土侵攻作戦が、沖縄をはるかに上回る大激戦になるであろうこと、自明の理。したがってアメリカは、数十万人あるいは100万人にも及ぶかもしれない人的損害を、少なくともそのリスクを、覚悟しなければならない状況でした。現実には、日本軍は想定以上に弱体化していたのですが、それは戦後の調査で初めて明らかになったことです。
これらからして、日本本土侵攻作戦を回避しアメリカ人の犠牲を最少にしつつ、日本を無条件降伏させる可能性があるとすれば、それは原爆だけだった。おそらくトルーマンは、そのように判断したのだろう。というのが、通説通りですが、私の意見です。さらに、原爆でも日本が降伏しない場合に備え、ソ連参戦も要請しなければならなかった。
ただし、トルーマンの本心がわかるのは当人だけですから、真実は誰にもわかるわけがなく、これも推測でしかないわけですが。
投稿: 不来方史郎 | 2016年8月16日 (火) 23時41分
不来方史郎 さん
書き込みをありがとうございます。
紹介があったトルーマンの手紙を読みました。国体維持条件でのポツダム宣言受諾の電報を日本が在スウェーデン大使館に打電したのが8月10日であり、時差はあるものの、トルーマン大統領が日本のそのような行動を知る前に書いた手紙ですから、生々しいですね。
不来方史郎 さんのご指摘の通り、「事後になってからの当事者の証言は、全く当てにならない。」と言うのは、その通りと思います。特に政治家は、そうですよ。
冷静に考えれば、アメリカにとって、8月6日広島そして8月9日長崎の原爆投下は当然の話と思います。それを避けることができたのは日本であり、8月10日ではなく、せめて8月1日ぐらいにポツダム宣言受諾を決定できれば避け得たと思います。
最も、その場合は、日本軍の戦争継続派の反乱があったかも知れず、日本が内戦状態になっていたかも知れない可能性がある。多分、内戦状態になっていたら、やはりアメリカは原爆を投下しただろうし、ソ連も日本本土上陸作戦を実行していた可能性がある。
日本が分裂国家にならなかったのは、紙一重だったような気もします。原爆が日本を救ってくれた可能性です。原爆犠牲者にもっと感謝すべきなのでしょうね。
投稿: ある経営コンサルタント | 2016年8月17日 (水) 22時38分
日本の戦死者の内、6割以上が餓死、又は栄養失調を起因とする病死.
それに輸送船の沈没で18万人だったか?.
アメリカは、死傷者に対して死者はかなり少ない.
日本は、死傷者数と死者数は大差ない.
つまり日本は負傷者の手当てが出来ず、助かる人も皆死んでしまった.
3月10日東京大空襲以降の5か月間で、おおよそ150万人が亡くなったと言われている.
7月26日ポツダム宣言以降の20日間でも、30万を超える人が亡くなった.
満州での戦闘での死者6万人.帰国までの混乱での死者18万人.
シベリア抑留での死者6万5千人.いずれも厚生省発表の数値で、実際はもっと多い.
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結果論と言われるかもしれないが.
アメリカはなぜ皇居に爆弾を落とさなかったのか?.
御前会議が開かれていた部屋は50tの爆弾に耐えるそうで、他の地下豪もそれなりに頑丈であったはず.つまり皇居に爆弾を落としても誰も死ななかったのに、アメリカは下町に爆弾を落として人々を焼き殺した.
皇居に爆弾を落とせば、天皇は東京から逃げ出して、必然的に失脚したはず.
天皇が失脚すれば、戦争終結派と継続派の内乱になった.
アメリカは戦争継続派に爆弾を落とせばよく、結果として150万人が亡くなったとしても、同じことだった.
イタリアでは、イタリア人同士が戦ってファシスト政権を倒しました.
ドイツでもヒトラーを暗殺しようとした.
日本は見事なほど自分では何もしなかった.
投稿: rumichan | 2016年8月18日 (木) 23時40分
rumichan さん
多くの書き込みをありがとうございます。
当時の日本人の思考に合理性はなかった。許されなかった。不合理な思想に立ち向かえなかった。戦争で死ぬのは名誉であるから、餓死者が出ても許された。
宗教だなと思います。でも、今のISIS(イスラム国)なんてのも、そうかも知れない。
皇居に爆弾を落とせば、アメリカは戦争が泥沼化すると思ったことと、アメリカ自身が戦後処理をしにくくなると思ったからではないのでしょうか?
アメリカがやった21世紀の失敗はバグダッドに攻め入ったことではなかったでしょうか?フセイン政権は倒れていた。にも拘わらず、外国が軍隊を入れてしまうと、簡単に内戦状体になってしまう。馬鹿ブッシュJRだと思うのですが、9.11があったから、ポピュラリズムでやっちゃたのでしょうね。
投稿: ある経営コンサルタント | 2016年8月19日 (金) 00時29分
ポツダム宣言は、7月27日、イギリスのBBC放送からの情報が一番早く届いた.
『受諾しなければ徹底的な壊滅あるのみ』と言う最後通告で、政府は重要案件であり受諾しかないと言う判断で、天皇にも上奏した.
27日、政府はとりあえず、論評抜きで要約を発表し、28日の新聞に掲載された.
28日、『ポツダム宣言をどう対応するのか.このままでは最前線の兵士の指揮が乱れる』と、軍部は政府を猛烈に突き上げた.返答に困った鈴木首相は『黙殺する』と言ってしまった.
30日の新聞に、鈴木首相の『黙殺』が掲載された.
天皇+政府はポツダム宣言受諾に決定したが、けれども、鈴木首相が軍部に対して『黙殺する』と言っていたため、軍部に対して『ポツダム宣言受諾のための会議を開きたい』、と言うことが出来なかった.
軍部に頼んでも『今日の新聞見てみろよ.一昨日、鈴木がなんと言ったか書いてあるぞ』、こう言われるのが落ち.
何も出来ず、日は過ぎた.
8月6日広島原爆投下.その惨状は7日、8日と克明に伝わってきた.....
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鈴木貫太郎は米内光正の操り人形で、能無しだった.
決して私は、『黙殺』だけを責めるつもりはない.誰にでも間違いはあるのだから.
けれども彼は、いつも徹底抗戦、戦争貫徹と言った言葉を繰り返してばかりいた.
総理大臣として、以前から少しづつでも、軍部、あるいは民意を、講和に導いて行くように考えて発言していれば、『黙殺』はなかったと思う.
投稿: rumichan | 2016年9月 3日 (土) 18時54分
rumichan さん
多くの書き込みをありがとうございます。
なるほどと奇妙な納得感が出ます。
しかし、返答に困った鈴木首相は『黙殺する』と言ってしまったのなら、天皇他に、とりあえず『黙殺する』で言い逃れているが、かくかくしかじかと本音の議論をして、日本の今後をきちんと作り上げていくべきと考えます。
首相なのですから。
個人としての正義よりも、集団や仲間としての義理・人情を優先させてしまう精神状態だったのかと思ってしまいます。
投稿: ある経営コンサルタント | 2016年9月 4日 (日) 17時19分
ザカライアス放送
『無条件降伏とは、日本人が奴隷になることではありません』、と言っているが、
『無条件降伏とは、シンガポール攻略時、山下奉文がイギリス軍に要求した』、とも言っている.
シンガポール攻略
降伏の交渉に来たイギリス軍の司令官に、山下奉文はこう言った.
机をドンとたたいて、
『イエスか、ノーか.イエスでないならば今夜から総攻撃する(返事がなくても同じ)』
ポツダム宣言
イギリスのBBC放送からの情報が一番早く、27日朝届いた.
翻訳が済むと、政府関係者の意見は直ちに受諾すべきであり、放置は許されないという見解で一致した.
この意見は天皇にも上奏された.
ポツダム宣言は最後通告で、返答は『イエス』しかない.それ以外は壊滅させられると、政府、天皇は理解した.
だから、広島に原爆を落とされて被害の実態が明かになった8月8日、天皇は『すぐに会議を開け』と命じた.
天皇は『今一度戦果を上げて』、少しでも有利な条件で講和をしようとしていた.
米内光正は天皇が期待する『今一度戦果を上げる』事は不可能なので、反対に、誰もがこれ以上は戦争を続けられないと思う『大敗北』を待っていた.
米内光正は原爆投下を『天佑』だと言った.
鈴木貫太郎は、この二人の間の使い走り、自分でも能無しなのは分っていたはず.
投稿: rumichan | 2016年9月 4日 (日) 21時06分
ザカライアス放送とは、アメリカが1945年におこなった日本向けのプロパガンダ放送ですね。日本政府も聞いていたし、どこの放送かも知っていたから、その放送内容を戦後の交渉材料として使えばよいのだが、硬直化した当時の人々には、そこまでの考えに立つことは難しかったのでしょうね。
rumichan さんから様々なことを書いていただいていますが、原爆に対して、同じような硬直化した報道・放送しか出来ていないのが、今のマスコミですよね。原爆につては、多くの観点から分析し考える必要がある。そのようなことこそ、被爆者の犠牲を無駄にしない重要なことだと思います。
投稿: ある経営コンサルタント | 2016年9月 4日 (日) 22時33分
■ザカライアス放送の録音
http://www.at-douga.com/?p=10878
57:00辺りからご覧あれ.
1:18:00からもご覧あれ.ポツダム宣言受諾の回答文は、無条件降伏を隠すような回りくどい言い回しの文章で、何が言いたいのか分らないものだった.呆れ返る事実が証言されている.
投稿: rumichan | 2016年9月 6日 (火) 02時31分
rumichanさん
NHK・ETV特集 「日米電波戦争 ~国際放送は何を伝えたのか~」の紹介をありがとうございます。
証言がたくさんあり、おもしろいでした。
投稿: ある経営コンサルタント | 2016年9月 9日 (金) 02時02分