戦艦大和・武蔵の大砲は有効だったのか
直前のブログで戦艦武蔵を書いたので、果たして戦艦大和と武蔵の46cm砲は有効だったのか、考えてみたいと思う。
1) 46cm砲の威力
このWikiによれば、最大射程は42,026mで、砲弾の初速780m/秒であったとある。どのような弾道を描いて飛んでいったかを推定したのが次の図である。
40km以上もの射程範囲があるとは、すごい。砲弾重量は1,460kgと1,360kgとがあり、これだけの重量の砲弾が命中すれば、その威力は相当大きかったと思う。
初速780m/秒と言えば、音速340m/秒より早くマッハ2.3程であるが、仰角30度で発射した場合に、私の計算では、43km飛んで着弾するが、その到達時間は75秒となった。仰角20度では到達距離34kmで、飛行時間は53秒となった。
2) 目標艦の位置測定
敵目標艦の位置をどうやって測定したかですが、当時は測距儀なるものを使っていた。原理は、左右離れた位置から見た目標は、微妙に角度が異なるので、角度を正確に測定できれば、距離が判明する。
大和・武蔵には一番高い前檣楼の上部にあり、15m測距儀と呼ばれていたので、中心から7.5mづつ左右に張り出して、先端部に対物レンズがある、双眼鏡の左右レンズが15m離れていて、左右の像がぴったり合った瞬間のレンズ角度を読み取れば、距離が判明するし、その時の角度から相手艦の方向も判明するという仕組みです。
計測とは常に誤差が入る。15m測距儀で、どれくらいの誤差があったかであるが、ここに測距儀の誤差について書いておられる方がいた。視力2.0で0.5秒の角度まで読み取れるとして、計算されておられる。0.5秒だとすると40km先の物であっても、倍率30なら20cmの大きさまで識別できる。即ち、測定誤差はわずか20cmである。しかし、距離方向(手前・奥行き)については、40kmだと500mにもなる。とてもじゃないが、百発百中はあり得ない。ちなみに、距離方向の測定誤差について、計算した結果は次の図のようになった。
20km程度の距離になれば誤差は150m程度となり、相当正確な砲撃が可能だったと思う。最も、20kmであれば、敵も攻撃が可能になっている距離であり、砲撃競争の結果どうだったか、運も関係すると思う。46cm砲の砲が破壊力は大きいので、命中すれば、相手の被害は大きい。従い、戦艦同士の一騎打ち的な戦いであれば、勝率は大和・武蔵の方が少しは高かったと思う。しかし、艦隊対艦隊なら、そう単純ではないはず。
3) 風の影響
40km先に75秒もかかって着弾するのだから、もし10m/秒の風が吹いていれば、750m風に流される事になる。当然、発射時に風を計算に入れて撃つのであるが、40kmの弾道の間中、風は安定して一方向に吹くわけではない。風速誤差5mとすれば、着弾誤差は375mである。風速誤差2.5mでも190mの誤差となる。
仮に敵艦の大きさが大和・武蔵と同じとしても270mx40mである。風の影響で200m誤差が入るとなると、弾の無駄打ちを避ける事はできない。
なお、敵艦は動いているのである。20ノットとして75秒間には800m進む。勿論、進む先をめがけて発射するが、40km先を航行している敵艦の進行方向や速度が、どれほど正確に掴めているか、疑わしい。
4) 40km先が見えたのか
これもやっかいな問題である。地球は丸いので、高い所に登っても見える範囲に限界がある。大和・武蔵の測距儀が水平線上何mの位置にあったかであるが、ネットで探しても諸説ある。35mとか40mとか。
40mであったとしても、見える範囲は22.5kmです。但し、水平線までであり、もし相手が30mの高さがあり、この相手の10m以上の部分、すなわち上部20mが見える距離とすると、34km先の敵艦まで見える事となる。敵艦の20mより高い部分が見えればとなると、39km程度まで何とか大丈夫となる。
マストや艦橋の一部で確認が可能だとすれば、40km先の視認はできると思われる。それぐらい、月月火水木金金で練習して、大丈夫だという話なのでしょうか。
もっとも大和・武蔵は偵察機を搭載していた。偵察機なら40km先に敵艦がいても確認できる。しかし、距離測定は測距儀に頼らざるを得ない。そして、マストしか見えない敵艦に発射しても着弾箇所はよく分からない。この場合、補正しつつ命中精度を上げていく事は、不可能に近いはず。
5) 船は揺れる
船も軍艦もローリング、ピッチングで揺れるのである。正確に測定して、大砲の初速や角度を指定通りで射撃するのは簡単ではないはず。0.1度ずれたとすると、40km先ではどれぐらいの誤差になるかと言えば、左右方向では70m、仰角での0.1度のずれは60mである。しかし、0.5度ずれた場合は、左右で350m、仰角0.5度は300mとなる。
果たして、どの程度の誤差で抑える事が可能なのか、よく分からない。訓練の結果、指揮官は誤差範囲を掴み、その上で戦闘指揮をしたのだと思う。
6) 私の結論
大和・武蔵の主砲弾の搭載数は1砲門あたり100-120発程度だったようである。9砲門同時の一斉射撃をするはずなので、100回-120回射撃をすると終了する。9弾同時発射で9弾の間隔を100mに配置したとして一辺200mの正方形の範囲である。これで20回(180発)ぐらい撃てば中には命中弾も出たのかも知れない。しかし、距離40kmでは、上に書いたように多くの困難があり、20回撃っても、1発も命中しなかった可能性もあると思う。
日本海海戦は至近距離での大砲の撃ち合いだったわけで、撃てば命中した感じであったはず。太平洋戦争はそんな甘い時代ではない。大砲はあたらないが、航空魚雷は簡単にあたるし、戦艦も簡単に沈む。あたれば、航空魚雷は大和・武蔵の主砲より威力が大きかった。
建造費と効果を天秤にかければ、無駄使いと言えると考える。そもそも軍拡競争とは、無駄使いの最たる物である。これがないと・・・と色々な仮定を積み重ねて、軍備を増強する。しかし、そんなことよりも平和のために金を使った方が、よほど賢いと考える。勿論、軍備や平和あるいは生活と言った様々な面でバランスが取れた金の使い方が重要である。その場合でも、軍備と平和を天秤にかければ、平和のために金を使った方が、セキュリティーを高くする目的でも有効と思うのである。そんなことを思わせる大和と武蔵である。
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コメント
測距儀0.5秒のズレで40km先の誤差500mというのは、正確に計算できればの話です。当時はロクな計算機がありません。仰角を出すために対数関数を使いますが、小数点5位以下切り捨て等の方法で計算しており、それ以上は誤差として処理されます。また当時は計算尺で計算していましたが、計算尺にも誤差がつきものです。おまけに10km以上の超遠距離から砲撃するなら地球の自転も考慮する必要があります。
それらの要素が重なり合い、艦砲の命中率はどんなに良くても数%程度にしかなりません。
世界初の電子コンピューター「エニアック」が主用途として大砲の弾道計算に用いられたのは必然です。
ちなみに長崎原爆の爆縮計算をするのにも当時は電子計算機が無かったので、ノーベル賞級の科学者が何人も集まって1年かけて計算しました。その検算にも半年かけました。今ではケータイのいち機能として誰でも持っている電子計算機ですが、その恩恵は本当に計り知れません。
また、平和の為にお金を使うべきなのはもちろんですが、当時の人々は強力な軍備こそが平和をもたらすと本気で信じていました。そこは責めないであげて下さい。
投稿: チャーハン | 2021年6月14日 (月) 12時56分
チャーハンさん
コメントをありがとうございます。
「そこは責めないであげて下さい。」というのは、私も、そのように思います。
1921/22年のワシントン条約・シベリア撤兵の様な時代においては、日本は軍備に頼らない平和を目指した時期があった。しかし、統帥権干犯論争のような政党間の足の引っ張り合いがあったり、中国・満州問題がからみ、1932/33年に日本は国際連盟を脱退してしまった。
戦艦大和の設計着手は1936/37年頃と推定される。この時の設計思想は、米艦隊が日本本土にやってきた時に巨砲で撃沈あるいは、威嚇して追い払う、敗戦を防ぐと言ったような本土防衛の思想があっただろうと私は思う。
戦艦大和が敵艦に対して大砲を発射した捷一号作戦は、敗戦が必至な状態で、本来の使い方とは全く異なった使い方。
歴史は、多くの出来事や要素がもつれ合って、複雑であるが、真実を追究していくと学べることは多いと考えます。
投稿: ある経営コンサルタント | 2021年6月15日 (火) 16時24分
大和級戦艦の砲撃に関し、諸観点からここまで緻密に整理・分析した内容を、初めて読ませていただきました。
私見ですが、ひとつ要素を加えるならば、航空索敵を除き、海上艦艇同士の索敵であれば、ほぼ同時に相互に敵艦を認識したでしょう。
認識しなくても第一撃を受ければ、戦闘態勢に入りジグザク航行を始めるので、よほど精密な面的砲撃をしなければ、命中弾は出ないでしょう。
敢えて申しあげれば、最大射程付近への所謂アウトレンジ戦法は想定してなく、設計・戦術思想としては、中距離での砲撃威力増強を狙ったものではないでしょうか。
投稿: いくろ | 2021年6月18日 (金) 22時29分
いくろ さん
コメントをありがとうございます。
海上艦艇同士の海戦だったら、大和級戦艦は相当強力であったと思います。最も、米国は終戦までにサウスダコタ型戦艦4隻とアイオワ型戦艦4隻を建造しており、いずれも406mm砲3連装で3砲塔ですから、これらと大和、武蔵を中心とした日本艦隊が戦ったらどうなったのでしょうね。
しかし、あり得ない空想であり、実際は総力戦です。総力戦とは、あらゆる手段を駆使して戦うのであり、情報収集、最先端技術の駆使、航空機その他全てを使って戦うのですから。
今だから言えることとなるんでしょうね。しかし、冷静なあらゆる角度からの分析をしていたら、正解はあったのだろうと思います。一方、歴史をそんな単純に一元的に見ることも誤りで、真摯に研究することは重要と考えます。
投稿: ある経営コンサルタント | 2021年6月18日 (金) 23時51分
アメリカ船は運河が通れるパナマックスなので、戦艦も40センチ以上の砲を積める船体は作れない事情がありました。尤も数を揃えればよく、制約ある中確かに良い艦を多く作っていると思います。
第一次大戦に日本は部分参加で、情報収集・分析、産業、資源、労働、科学・技術等の力を結集する総力戦を、経験しなかったのも不幸だったようです。
軍事とは多少離れますが、各国を回って合衆国とドイツ連邦には、勝てないなぁと思いました。合衆国のスケール大きさと勤勉さは、日本を凌駕していると思います。ドイツの合理主義と基本機能に対する徹底振りは半端ないと実感しました。
私見ですが、先の大戦で罪深いのは、国民を含め戦争を始めた人たちではなく、渡航経験があって実情を見ていながら、危険はあったでしょうが、止めなかった人たちだと思っています。
ただ、ドイツと合衆国どっちにつくかは、世界情勢や勢いもあり難しい判断だったと思います。
投稿: いくろ | 2021年6月19日 (土) 04時39分