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2019年12月10日 (火)

太平洋戦争開戦(その2)開戦の通告

外務省に外交史料館 というWeb Pageがある。 このPageの日本外交文書 の中の『日本外交文書』に編纂・刊行された『日本外交文書』の項目別概要が記載されている。その中の平成21年度刊行 の 「太平洋戦争」(全3冊)がここ である。その「第一冊 I 一 開戦に伴う対外措置」には、「・・・・・ 昭和16年12月8日、対米英戦の宣戦の詔書が渙発されると、東郷外相は在本邦各国大使に開戦を通報しました。・・・・」と書かれている。

対米英戦の宣戦の詔書の渙発とは、「太平洋戦争開戦(その1)」の第2節”2)”で引用した朝日新聞が12月8日11時45分情報局発表と言っている宣戦の大詔である。即ち、日本が開戦を通報したのは、日本時間12月8日11時45分もしくは、それより遅い時間となる。 真珠湾攻撃開始の日本時間は午前3時30分なので、開戦の通報は8時間後となる。

1) 首都ワシントンでの文書交付時間

真珠湾攻撃開始の時間に文書交付は間に合わなかったと言われているが、私が探した範囲では、日本側の記録でそれを裏付けるものを私には発見できなかった。

米国コネチカット州のYale法大学がAvalon Project で、法律、歴史、経済、政治、外交、政府等の書類をデジタル化しWebで公開している。この中に、”Fourteen Part Message”とも呼ばれているJapanese Note to the United States United States December 7, 1941がある。

時間については、次のことが書いてある。

12月7日午後1時国務長官とのアポ申込が日本大使館よりあった。アポ時間は午後1時45分となった。日本の代表は2時05分に到着し、国務長官との会談は2時20分に始まり、書面を手渡した。

At 1 p.m. December 7 the Japanese Ambassador asked for an appointment for the Japanese representatives to see the Secretary of State. The appointment was made for 1:45 p.m. The Japanese representatives arrived at the office of the Secretary of State at 2:05 p.m. They were received by the Secretary at 2:20 p.m. The Japanese Ambassador handed to the Secretary of State what was understood to be a reply to the document handed to him the Secretary of State on November 26.

時間は米国東部時間なので12月7日午後1時とは、真珠湾攻撃開始時間現地午前8時は米国東部時間で7日午後1時30分となる。これからすると、真珠湾攻撃開始の前にアポを申し込んだのである。しかし、アポが確定したのは、攻撃開始後であり、実際に面談できたのは攻撃開始の約50分後となる。

2) 米国への通知文書

 日本政府(外務省)は、この文書を「対米覚書」と呼んでいたのである。そして、この「対米覚書」 を米国ワシントン所在の日本大使館野村大使宛てに電報で送付したのは日本時間12月6日である。外務省の日本外交文書のページには 日本外交文書デジタルコレクションがあり、そこから外務省と在外大使館との電報の交信記録等を読むことが出来る。「対米覚書」送付に関する電報は第901号であり、次のことが書かれている。

本省12月6日発
第九O一号
一、政府ニ於テハ十一月二十六日ノ米側提案ニ付慎重廟議ヲ尽シタル結果対米覚書(英文) ヲ決定セリ
二、右覚書ハ長文ナル関係モアリ全部接受セラルルハ明日トナルヤモ知レサルモ刻下ノ情勢ハ極メテ機微ナルモノアルニ付右御受領相成リタルコトハ差当リ厳秘ニ付セラルル様致サレ度シ
三、右覚書ヲ米側ニ提示スル時期ニ付一アハ追テ別ニ電報スヘキモ右別電接到ノ上ハ訓令次第何時ニテモ米側ニ手交シ得ル様文書ノ整理其他予メ万端ノ手配ヲ了シ置カレ度シ

次に第902号として電報で送付している「対米覚書」 の文章が続く。この 第902号には、12月6日午後8時30分発とあるが、編注として全部で14本の電報であり、最終の14本目の発信は7日午後4時であったことが書いてある。日本時間7日午後4時は米国東部時間午前2時である。電報の発信から、到着までの時間はよく分からないが最低でも数時間は要したと思う。そして、外務省からの12月6日付電報904号には「対米覚書」 にはタイピストを使うなと書いてある。

「対米覚書」の機密保持方訓令
本省12月6日発
第九O四号
往電第九O二号ニ関シ申ス迄モナキコト乍ラ本件覚書ヲ準備スルニ当リテハ「タイピスト」等ハ絶対ニ使用セサル様機密保持ニハ此上共慎重ニ慎重ヲ期セラレ度シ

実は、ここまでして野村大使宛てに「対米覚書」を送付し、タイピストを使わずにこの文書を作成したのであるが、宣戦布告とは一言も述べていないのである。交渉決裂を伝える文書であったのである。

英文では、

”The Japanese Government regrets to have to notify hereby the American Government that in view of the attitude of the American Government it cannot but consider that it is impossible to reach an agreement through further negotiations.”

日本語訳では、

「仍テ帝国政府ハ茲ニ合衆国政府ノ態度ニ鑑ミ今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得スト認ムルノ外ナキ旨ヲ合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ」

英語の全文を1941年12月7日在米日本大使館から米国政府宛文書 に掲げておく。なお、「対米覚書」を米側に公布した文書では”Memorandum”と記載していた。

日本軍が真珠湾を攻撃していなかったら、これは単なる交渉上の駆け引きだと思う。しかし、ハル国務長官は、これを受領した時、既に真珠湾攻撃があったことを知らされていたと思うのである。

 

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コメント

>>引用開始
12月7日午後1時国務長官とのアポ申込が日本大使館よりあった。アポ時間は午後1時45分となった。日本の代表は2時05分に到着し、国務長官との会談は2時20分に始まり、書面を手渡した。
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日本の外務省は、ワシントン時間の12月7日午後1時30分より、真珠湾攻撃を開始するので、その30分前の午後1時に書面を手渡すように指示していた.

ところが書面の準備は遅れ遅れで、指示された会談時間になって面会の申し込みを行い、指示された時間より45分遅れで会談可能となったが、日本側はその約束時間より更に20分遅刻した.

日本が実際に真珠湾攻撃を開始した時間は、7日午後1時19分でした.ですから、この時刻より前に、日本側が書面を用意した上で、アメリカとの会談場所を到着していれば、だまし討ちとは言えないのですが、遅れ遅れの会談時間より更に20分も遅刻していては、何を言われても仕方がありません.
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東京裁判にも描かれているのですが、交渉打ち切り=開戦とアメリカ側は認識していたので、この点に関しては議論する必要は無いはずです.アメリカは通告の時刻を問題にしているだけで、内容には触れていません.
あなたが何を言いたいか不明ですが、交渉打切りと書いてあるだけなので、開戦の通告ではないとするならば、真珠湾攻撃は間違いなく騙し討ちです.
当時の情勢をふまえて、アメリカの日本大使館員が、交渉打ち切り=開戦と理解できなかったとしたら、認識不足も甚だしいです.

マレー半島上陸は、真珠湾攻撃の30分前に行われたと言われています.正確な時刻は別として、計画ではマレー半島上陸開始と同時に、外務省は通告の書面を手渡す予定で居たことが分ります.
ですから、先に真珠湾攻撃の開始時刻午後7時19分より前にと書きましたが、正しくはマレー半島上陸開始の午後7時00分より前に、通告の文書を手渡すことが可能になっていれば、騙し討ちでは無かったと言えます.
実際の時間は、海軍の真珠湾攻撃の時刻が10分早かったように、陸軍のマレー半島上陸開始の時間も怪しいと思われます.
海軍は無通告での攻撃開始を主張したが、外務省が反発して30分前の通告を海軍には了承させた.陸軍は事前通告には強引に反発して、攻撃開始と同時刻に通告する事となった.ただし攻撃相手のイギリスではなく、アメリカへの通告であった.
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1945年8月10日未明、『天皇の大権に変更無きことを条件に、ポツダム宣言を受諾する』表明を、日本の外務省は、外交ルートより先にNHKの海外放送により行った.
NHKの担当した人間が言っている.
「何を言いたいか意味不明の文章が、だらだら、だらだら延々と何時までも続いて、結局何を言いたいのか分らない.これではいけないと、自分で冒頭に簡潔な一文を付け加えた.....」

開戦時の通告文も、だらだらと14通の電報が送られて、それだけではなく、最後に訂正電報が送られている.訂正電報がいつも最後に送られて来るのであれば、訂正電報を読むまで、何も行動しなくても当然と言えます

投稿: bakeneko | 2019年12月10日 (火) 04時32分

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