太平洋戦争開戦(その9)雑感
太平洋戦争開戦に関して、その1からその8まで、8回にわたり幾つかの資料を参考として書きました。次が、その第1回から第8回であり、歴史のある一断面に接することが出来たと感じています。第9回として、私の思ったことを 書くこととします。
第1回 太平洋戦争開戦
第2回 開戦の通告
第3回 ハルノート
第4回 日米交渉
第5回 ハルノートから真珠湾攻撃まで
第6回 新聞報道
第7回 日米の国力差
第8回 御前会議
1) 御前会議
御前会議とは天皇陛下の出席を頂いて国家の最重要事項を決定する会議であった。太平洋戦争開戦(その5) と 太平洋戦争開戦(その8) で、1941年11月5日の御前会議と12月1日の御前会議に関して書いた。米国と戦争をするという太平洋戦争開戦に関する決定を下した2回の御前会議であった。米国との戦争は、冷静に考えれば、勝利の可能性がない戦争であり、その結果としては、数多くの日本人犠牲者を出した。
日本人の死者数は軍人・軍属で230万人、一般市民が80万人でその合計310万人という数字が一般的である。この数字には朝鮮人・台湾人戦没者が含まれていないので、その数字を加え、一方で開戦前の1941年以前の日中戦争期における死者を差し引くと300万人弱になると推定する。一方、米国人戦士の太平洋戦争での死者数は15万人にも満たない様である。日本の戦死者には戦病死を含んでおり、大雑把な比較であるが、戦死者比率が10:1なんて戦争をしたのであった。(なお、米国人戦士の第2次大戦における死者数は42万人という数字があるが、これは欧州戦線を含んだ数字である。)
明治憲法(大日本帝国憲法)は、第13条が「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」であり、天皇の関与なしでの戦争開始はあり得ない。一方、第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を考えると、象徴天皇に近いと思える。太平洋戦争開戦(その8)の中で御前会議次第を掲げたが、天皇が御前会議に参列する入御は、各大臣による説明及び質疑応答・意見の聴取が終了した後であり、天皇の参加は形式的である。天皇とは神聖であり侵してはならない存在であるなら、神であり、責任を天皇に振り向けてはならない。明治憲法において、御前会議について触れている条文はなく、御前会議について定めている法律もないと理解する。しかし、天皇の出席を得た御前会議の決定は最大限尊重されることとなる。
戦前の日本国家はガバナンスが機能しない制度であると思う。憲法が第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とし、第12条で「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」としている。だから、11月1日の大本営連絡会議でも「外交は作戦を妨害しないこと」というような発言が陸軍参謀次長より出てくる。
今の日本の会社でもあり得る話かも知れない。一定の手順を踏んだ社長決裁という決定がなされると情勢が変化した場合に、あるいは見落とした点を是正しようとしても、そこに社長決裁という形式があれば、変更は容易ではない。一方で社長決裁があれば、それを理由にその推進者は他人の意見をくむことなく突っ走ることができる。結果、失敗に結びついてしまうことがある。すべてが、そうとは思わないが、無理矢理にでも社長決裁を得たならば、それで動いてしまい、歯止めが掛からない状態に陥っては大変である。
2) ABCD包囲網・大東亜共栄圏
太平洋戦争前1941年頃の日本人が持っていたアジア観にABCD包囲網・大東亜共栄圏という思想があった。ABCDとは、America、British、China、Dutchのことであり、フィリピンは米、マレーシア・シンガポール、ミャンマーが英、Chinaとは蒋介石一派のことで、インドネシアがDutchとなる。ABCD包囲網は大東亜共栄圏と重なってくる。友好を重視しない敵視思想と思えるが、当時の考えでは、アジア民族の解放であった。読売新聞が1941年8月16日から8月21日まで6回にわたりABCD包囲網という特集記事を掲載している。その第6回は次の書き出しで始まっている。
いわゆるABCD陣営の対日包囲線は最近来ますます露骨な攻勢をみせている、あるいは経済圧迫にあるいは恫喝にデマ撒布に太平洋の波はまたしても掻き濁されようとする、これら執拗な牽制は、わが大東亜共栄圏への毅然たる歩みをいささかも阻み得ないばかりでなく、徒らに彼らの貪慾をむき出しに過ぎない、ビルマ、シンガポール、蘭印比島から豪洲、サモア、ハワイ、グアム等へ馬蹄型にのびる一連の軍事基地‐本来東亜民族の勢力圏であるべきこれらの地が、いかにして白人のためにふみにじられ、ついには“みずからの東亜”に向って歯を剥くにいたったか、われわれは過去五世紀にわたる白人侵略の歴史と、屈従と忍辱に挫がれた現実の姿態とに眼を向けなければならない‐南方問題の一権威である太平洋協会の沢田謙氏がけうの“語る人”である
(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・読売新聞 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003ncc_00503550 より)
オーストラリア、サモア、ハワイも大東亜共栄圏と考えていたのかも知れない。どのような考えでいたのか、何故太平洋戦争を始めてしまったのか、Link先の神戸大学新聞記事文庫で全文を読んで頂くと、参考になると思う。
広い視野を持ち、議論(ディベート)することが重要である。権威主義や精神論は間違いを助長することがある。「和を以て貴しとなす」なんて諺はゴミ箱に捨てるべきである。力の強い者が、弱い者を従わせ、不正をするに都合を良くするように使われることもある諺だと思う。深く考えることが重要である。
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コメント
一方、第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を考えると、象徴天皇に近いと思える。太平洋戦争開戦(その8)の中で御前会議次第を掲げたが、天皇が御前会議に参列する入御は、各大臣による説明及び質疑応答・意見の聴取が終了した後であり、天皇の参加は形式的である。
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>>「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
だと、なぜ象徴になるのですか?.
象徴天皇なんて戦後の新憲法下で言い出した言葉で、戦中戦前にはこんな言葉はありませんでした.
>>『質疑応答・意見の聴取が終了した後であり、天皇の参加は形式的である。』
通常は御前会議の前に、上奏下問を繰り返して、議題の内容が決定し天皇が了承してから行われるので、天皇は必要が無いので発言しない.
が、事前に天皇が了承しなかったときは、御前会議で枢密院議長が天皇の代わりに発言を行っている.1941年9月6日の御前会議は前日の9月5日に、天皇が杉山元、永野修身にたいして行った発言を枢密院議長が繰り返して発言した語、更に昭和天皇は明治天皇を歌を詠んだ.
投稿: rumichan | 2020年1月12日 (日) 23時06分
中国からの撤退が日米間の戦争回避の条件であったが、『中国は日本兵の血であがなった土地だ.手放すわけには行かない』と言って、東条英機は一歩も引かなかったので、追い詰められた近衛文麿は辞職してしまった.
代わって東条英機が総理大臣になった.そして『9月6日の御前会議の決定を白紙撤回し、交渉をやり直せ』と言う天皇の言葉に従って、東条英機はそれまでの態度を一転させて、『海軍が出来無いと言ってくれれば、陸軍をまとめることが出来る.海軍がアメリカと戦争できないと言って欲しい』と、戦争回避のために海軍に頼み込んだのだった.
御前会議の決定を、政府の首脳の意見も聞かず白紙撤回出来る、象徴天皇でした.
投稿: rumichan | 2020年1月12日 (日) 23時17分
近衛文麿がルーズベルトに日米の首脳会談を望んだら、ルーズベルトから「ハワイは無理だがアラスカなら可能.前提条件なしでも構わない.3日間話し合おう」と言う解答があった.
けれどもハル国務長官は、「事前交渉を行って、ある程度交渉内容を詰めてから会談すべきだ」と、ルーズベルトの発言を修正してしまった.
以降、ハル国務長官は、幾度も交渉の前提条件を修正して、日本が交渉で妥結できない方向へ導いている.
近衛文麿は、まずルーズベルトと会談し、交渉をまとめて持ち帰った条件で(象徴)天皇の了承を求め、それを決定事項として軍部をまとめようとしたのですが、ハルは、日本が事前に軍部の意見をまとめた上で、事前交渉に臨むように要求しました.
投稿: rumichan | 2020年1月12日 (日) 23時32分