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2022年9月24日 (土)

日露戦争 背景その2 朝鮮半島

日本列島に人が住み始めた頃より、交流があり、往来があったのは、朝鮮半島の人々と日本列島に住んでいた人々の間であった。中国の隆盛と衰退を繰り返す巨大な王朝の文化・物質が日本にもたらされたのは朝鮮列島を通じてであった。日本と朝鮮半島は長い歴史的な関係がある。

1 朝鮮王朝

高麗の武官であった李成桂が、高麗王を廃位せしめ、新しい政権を作り1392年に王位についた。第3代太宗の時の1403年、明の永楽帝から冊封をうけて朝鮮王国として明から認められた。日本の韓国併合まで続いたと考えると518年間の長期朝鮮王朝の時代である。このページはTV東京の韓流ドラマ朝鮮王朝略系図である。眺めてみるのも興味深い。

朝鮮王は、明皇帝から冊封を認められ、冊封を受けた。朝鮮国は朝鮮王が支配する自治国であると明は認めたと同時に皇帝は明の皇帝であり、形式的には朝鮮は明皇帝の支配する地域に属する形である。

中国では、17世紀にはいると東北方面の女真族が勢力を増し、1616年にはヌルハチが後金を建国。1636年に清と改めた。朝鮮王朝は、清を認めず、明朝皇帝を推戴する姿勢を見せ、これを不快に思った清は朝鮮に侵攻した。時の仁祖は漢城の南の南漢山城に拠って抵抗したが、1637年降伏し、清を宗主国として従属することとなり、冊封国となった。明は、李自成の乱によって、明の崇禎帝が死んで滅んだ。清は李自成を破り、1644年に都を盛京から北京に移し中国支配を開始した。

2 欧米諸国のアジア進出

18世紀末英国東インド会社がベンガル地方での採取に係わるアヘンの専売権を獲得し、中国(清)への輸出に乗り出した。清朝政府は1796年には輸入禁止とし、密貿易となったが、拡大を続け、英国に富をもたらした。そして、1840年には清・英間の アヘン戦争となった。アヘン戦争は英国の勝利となり、1842年の南京条約が締結され、英国への2100万ドルの支払、広州、福州、厦門、寧波、上海の5港の開港、香港島の割譲、輸入関税一律5%等が取り決められた。米国とフランスは英国の南京条約締結を受けて、清と交渉し、1844年に望厦条約と黄埔条約を締結した。

清国内では、1851年に、洪秀全が組織した拝上帝会が「太平天国」を称した。1856年に、英・仏とアロー戦争が起こったが、太平天国の乱と同時進行での戦いであった。アロー戦争の結果は1858年の天津条約となったが、批准交換使節の入京に際して紛争が生じ、1860年英・仏軍は北京を占領し、11月にロシアの調停の下に、更に英仏に有利な北京条約が締結された。

日本においては1853年の米国ペリー艦隊の浦賀到着・開国要求を契機とし徳川幕府は開国政策へと大きな政策転換を行ったのである。それはペリーが浦賀沖で空砲による威嚇や測量を行ったりしたこによる威圧に屈したということより、アヘン戦争や南京条約そして望厦条約や黄埔条約の締結を始めとする中国情勢の情報を幕府は保有しおり、欧米諸国によるアジア進出の情勢分析ができていたからだと思う。

日本が締結した条約をまとめてみた。1867年11月10日(当時の暦では慶応3年10月14日になる)が大政奉還であり、スウェーデン・ノルウェイ王国以後の条約が明治新政府により締結された条約である。

米国 1854年3月 日米和親条約
大英帝国 1854年10月 約定(日英和親条約)
ロシア 1855年2月7日 下田条約
オランダ 1856年1月30日 日蘭条約書
米国 1858年7月29日 修好通商条約
ロシア 1958年8月7日 修好通商条約
オランダ 1858年8月18日 修好通商条約
大英帝国 1858年8月26日 修好通商条約
フランス 1858年10月9日 修好通商条約
ポルトガル 1860年8月3日 修好通商条約
ドイツ 1861年1月24日 修好通商条約
スイス 1864年2月6日 修好通商条約
ベルギー 1866年8月1日 修好通商条約
イタリア 1866年8月25日 修好通商条約
デンマーク 1867年1月12日 修好通商条約
スウェーデン・ノルウェイ 1868年11月11日 修好通商条約
スペイン 1868年11月12日 修好通商条約
オーストリア 1869年10月18日 修好通商条約
ハワイ 1871年8月19日 修好通商条約
1871年9月18日 修好条規
ペルー 1873年8月21日 修好通商条約
朝鮮 1876年2月26日 修好条規

3 朝鮮の開国

冊封体制の宗主国である清はアヘン戦争やアロー戦争で南京条約、望厦条約、黄埔条約を締結させられ、更に天津条約、北京条約により賠償金の支払い、追加の開港、領土の割譲等が拡大していった。朝鮮も欧米各国から開国を要求されたが、鎖国政策を堅持した時期もあった。1866年のフランスとの丙寅洋擾や、同じ1866年に米国船ジェネラル・シャーマン号事件が発生。アメリカ政府は、ジェネラル・シャーマン号事件に対して朝鮮政府の責任追及と通商を認めさせるため、1871年に艦隊を派遣し、5月から7月にかけて江華島で朝鮮の軍隊とアメリカの艦隊との戦闘である辛未洋擾が発生。朝鮮は通商を拒否し、アメリカ艦隊と朝鮮軍が砲撃戦になり、更にその後アメリカ軍が江華島に上陸して白兵戦となり、朝鮮側に大きな被害が出たが、やがてアメリカ艦隊は引き上げ、朝鮮は引き続き鎖国体制を維持した。(江華島とは、現在の仁川国際空港のすぐ北の島であり、江華水域は朝鮮の首都漢城(ソウル)に通じる要衝にあたる。)

1875年に江華島で日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件と呼ぶ戦闘・武力衝突事件があった。9月20日に日本の軍艦雲揚号(約250トン)が朝鮮の江華水域に入ったとき、江華島の草芝鎮から砲撃を受け、日本側はこれに応戦し、損害を与えた。事件の背景には、日本の明治維新に伴う日朝両国関係の行き詰まりがあった。書契問題である。〈皇〉〈勅〉などの文字を用いた外交文書(書契)は、〈皇〉〈勅〉が朝鮮にとって清の皇帝を意味するものと考えられることから、大院君政権は、書契の受理を拒絶していた。1873年には大院君が政権を奪われ閔(びん)氏に政権が移ったが朝鮮側の対応は変わらず、7年間膠着状態が続いた。そこで日本政府は,雲揚号,第二丁卯号などの軍艦を朝鮮沿岸に派遣して圧力を加え、事態を打開しようとし、事件はこの結果起きた。この事件以後、朝鮮の閔氏政権は朴珪寿らの努力で大院君ら鎖国攘夷(衛正斥邪)派の反対を押しきって日本との復交を図り、1876年2月に江華府において日朝修好条規(江華条約)を締結した。

1882年には英国、米国、フランスとも修好条約を締結し、1884年にロシアと条約を締結した。

4 日清戦争

朝鮮王朝国は開国に至ったものの、独立国として自ら近代化を進めることにより諸外国に劣らない力を付けていくべきと考える開化派と、清国の庇護によって国を守っていくべきだと考える守旧派が存在し、内部抗争は継続した。1882年7月に開化派の動きと日本の姿勢に不満を持つ旧軍と民衆よる開化派の要人殺害や、初代駐朝鮮特命全権公使花房義質が襲撃される壬午事変が発生。その結果、1882年8月に済物浦条約が日朝で締結され、その内容には、公使館警護のための日本軍の首都漢城(ソウル)への常駐、朝鮮政府による賠償金の支払い、朝鮮政府による事変についての謝罪などといった日本側の要求事項を盛り込んでいる。

一方、壬午事変の鎮圧における清軍の影響力は大きかった。結果、清に対する依存度は強くなった。開化派は1884年12月に、日本の支援を期待して、甲申政変を起こしたが、即座に清国軍が新政府を攻撃して政変を鎮圧した。この時、日清間での戦争への危険性が高まったが、1885年4月に両国は天津条約を締結し、朝鮮からの双方の撤兵が決まった。しかし、朝鮮の朝廷での政治的混乱は終わらず、日清両国の警戒は続いた。一方で、朝鮮政府は独立国家として各国との関係を築こうとするようになり、ロシアへの接近をはかったほか、欧米各国に公使を派遣するなどした。清は、朝鮮の外交に対する監督を厳しくし、欧米各国との交流とが並行する中で、朝鮮ではさまざまな近代化政策が進められることとなったが、1890年代に入るころには次第に財政が厳しくなってきた。増税や役人の不正の蔓延等が広まり、その中で全羅道の古阜郡の農民たちが起こした武装蜂起が拡大し、甲午農民戦争が勃発、1894年の3月頃に全羅道から始まり、やがて朝鮮全土に拡大した。

1894年6月3日朝鮮政府は、自らの手で鎮圧することは難しいと、清国に対して出兵要請を行った。日本政府も6月2日に現地の日本人の保護を名目として軍隊を派遣を決定した。6月11日に朝鮮政府と農民軍との間で全州和約が締結され終息したことによって、日清共に朝鮮国内に軍隊を駐留させておく根拠が失われたとして、朝鮮政府からは両国に対して撤兵が要求された。日本政府は清国政府に対し、朝鮮の内政の改革を日清両国が共同で行い、この間は両国の軍隊を朝鮮内にとどめること、もし清国が合意しなければ日本が単独で行うと提案をし、清国は、農民蜂起が既に鎮圧されている以上まずは撤兵すべきであり、朝鮮の内政改革は朝鮮自らが行うべきであると回答した。

7月3日、日本政府は朝鮮政府に対し内政改革の案を提示したが、朝鮮政府からは、改革よりも日本軍の撤退を優先してほしいという要求が返された。7月23日未明、大鳥公使の指令を受け、漢城郊外の龍山にあった大島義昌陸軍少将率いる混成旅団が漢城に入り、午前4時半過ぎ頃には、朝鮮国王高宗が居住し政府が置かれていた王宮(景福宮)を包囲し、門を破壊するなどして内部への侵入をし王宮を警備していた朝鮮兵士と銃砲による戦闘が始まった。(参考 王宮を攻撃する日本軍の錦絵(JACAR:大英図書館請求記号: 16126.d.2(92)) )結果、王宮は日本軍の占領下に置かれた。この日のうちに大鳥公使を宮中に呼び出した高宗は、大鳥公使の立会いのもとで、興宣大院君に対し、国政と改革のすべてを委任することを告げると共に、すべて大鳥公使と協議を行うことを要請した。そして、日本政府は、牙山に駐屯する清国軍を朝鮮政府に代わって退去させてほしいとの要請を、興宣大院君から受け、その結果、清国軍を朝鮮から退去させるために日本軍が清国軍を攻撃する正当な理由を得た。

清国軍は、牙山からやや漢城寄りに位置する成歓にも、一部の部隊が陣を構えていた。牙山に向けて進軍してきた日本軍は成歓に到達し、7月29日成歓駅付近で日清間で最初の陸戦が起きた。

最初の海戦は、7月22日から23日に佐世保港から朝鮮半島西岸海域に向けて出撃していた日本海軍と清の軍艦との開戦・豊島沖海戦である。牙山の清国軍部隊への増派清国兵士を輸送していた英国船籍の商船とその護衛軍艦2隻と牙山を出港した1隻を加わった清国艦隊が、豊島付近の海域を航行中に、この海域を目指して進んできていた日本の連合艦隊の一部の艦船と遭遇し、双方の間で砲撃戦が始まり、日清間最初の海戦が引き起こされた。清国艦隊の艦船は撃沈、大破、降伏あるいは逃走となり、日本艦隊は無傷であった。(参考 王宮を攻撃する日本軍の錦絵(JACAR:豊島沖之海戦: 16126.d.2(20)) ) 豊島の位置は、現在の仁川国際空港の南約40km、牙山の北西約60kmにある島である。

5 日清戦争における宣戦の詔勅

1894年(明治)8月1日に、明治天皇により清国に対する宣戦の詔勅が発された。

天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各〻権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ

惟フニ朕カ即位以来茲ニ二十有余年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外国ニ構フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列国ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ何ソ料ラム清国ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ対シテ著著鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ挙ニ出テムトハ

朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ朕ハ明治十五年ノ条約ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清国ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ清国ハ翻テ種々ノ辞抦ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ帝国ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ独立国ノ権義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ清国ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ殆ト亡状ヲ極メタリ則チ清国ノ計図タル明ニ朝鮮国治安ノ責ヲシテ帰スル所アラサラシメ帝国カ率先シテ之ヲ諸独立国ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ条約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク担保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス熟〻其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス

この宣戦の詔勅は、朝鮮を清の属国から解放するという内容である。8月26日には、日本と朝鮮の間で、次の様な内容の「大日本大朝鮮両国盟約」が締結された。

第1条 本盟約は清国軍を撤退させ朝鮮の自主独立を守り、日朝両国の利益を増進することを目的とする。
第2条 清国との戦争は日本が行い、朝鮮はこれを支援し、便宜を与える。
第3条 本盟約は清国と平和条約が成立したとき廃棄される。

6 下関条約第1条

1895年4月17日に日清間の下関条約が調印された。その第1条は、次の条文である。

第一條
淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

即ち、清の宗主権は消滅し、朝鮮国の独立が確保された。

しかし、朝鮮内部では、日本の影響力が更に大きくなることを恐れ、ロシアと結んで独立を確保しようとする考えの一派も出てきた。その結果が、日本公使三浦梧楼による1895年10月8日の閔妃暗殺事件となった。

閔妃とは、閔玆暎がその姓名で、高宗の王妃(明成太皇后)である。高宗との婚姻は1866年であるが、この婚姻以後の朝鮮王朝では、高宗、その父親である興宣大院君、閔妃のそれぞれの一派による権力抗争が続いており、そこに清、日、露という外国の思惑や圧力等が加わり複雑な様相であった。

駐朝鮮国公使の三浦悟楼が日本軍人・大陸浪人らを景福宮に乱入させ、国王高宗の王妃である閔妃を殺害した。(参考 朝日新聞参考記事 2021年11月16日 )公使とは、国を代表して相手国に駐在しており、その公使が相手国の王妃を殺害したのである。結果、一旦は親日派(改革派)が優勢に立つと、国王高宗は、劣勢の親露派の手引きにより保護を求めて漢城のロシア公使館に居を移した。そして、親露派と結んだ政権が成立した。1897年2月20日には、高宗はロシア公使館を出て慶運宮に還宮した。 1897年10月12日に自主独立を強化する国づくりを目指し、国号を「大韓」に改めて、 大韓帝国の成立を宣言した。

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2022年9月 2日 (金)

24年ぶりの1ドル140円の今後

円/米ドル為替レートがついに140円台となった。8月20日からのチャートは次の通りである。

Usd_jpy

もう少し前からと云うことで、2年2月ほど前の2020年6月1日以降のチャートを書いてみた。そして、比較のために、ユーロと人民元のチャートも、2020年6月1日を1.000とし、米ドルに対し価値が下がった場合は1より小さな数字になるようにしてチャートを作成した。

Forex20220901a

円は弱いですね。更に、今年の3月以降の部分を3月1日を1.000として拡大したのが次です。

Forex20220901b

手の施しようがないとの感じです。物価高と不況が同時にやってくる予感がします。その対策しては、利上げしかないように思います。利上げは流通している国債の価値下落ですから、国債を保有している金融機関は軒並み評価損を計上する。金融市場の混乱の結果、日本経済の悪化は避けられない。国債に頼って、財政支出を拡大していた付けが回ってくるように思います。

国際市場を健全にするには、政府財政の立て直し・健全化を図らないとならないと思います。政府財政健全化のためには、増税ですかね。実施が考え得る増税は、消費税と高額所得者の金融課税なのでしょうかね。

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原子力発電に関する方針

NHKニュースが伝えたのは次でした。

NHKニュース 2022年8月25日 政府 原発7基 再稼働目指す方針確認 次世代の原子炉開発検討へ

この件について首相官邸のこのWeb Pageは、「総理は、本日の議論を踏まえ、次のように述べました。」として、以下の様に書いています。

電力需給ひっ迫という足元の危機克服のため、今年の冬のみならず今後数年間を見据えてあらゆる施策を総動員し不測の事態にも備えて万全を期していきます。特に、原子力発電所については、再稼働済み10機の稼働確保に加え、設置許可済みの原発再稼働に向け、国が前面に立ってあらゆる対応を採ってまいります。

官邸のWebだと10基の稼働であり、NHKによれば更に7基を加えた17基となっており、よくわからず、8月24日のGX実行会議のWebbがここにあり、資料1の12/27ページの記載によれば、①今冬までの最大9基の稼働確保並びにその次の②来夏・来冬からの高浜1・2、女川2、島根2の着実な再稼働、および柏崎・刈羽、東海第二の再稼働へ向けた取り組みが記載されている。

なお、最重要なことは、原発を稼働させる・運転するとするならば、現状で良いのか、どうすべきかをきちんと考えることである。

1 福島事故から学ぶべき事はないのか

福島事故からの教訓を生かすことなく、原発を再稼働だ、新設だと動くべきではない。

2011年3月の福島第一原発の事故の水素爆発を整理すると、次の表の通りである。

3月11日14時46分 地震発生
 13時37分 津波襲来 交流・直流の全電源喪失
 13時37分 1号機 冷却機能を喪失(全電源喪失と同時)
 3月12日15時36分 1号機 水素爆発
 3月13日 2時42分 3号機 バッテリー枯渇により冷却機能を喪失
 3月14日11時01分 3号機 水素爆発
 3月14日13時25分 2号機 冷却機能を喪失
 3月15日 6時14分 4号機建屋 3号機からの水素により爆発
 3月15日 午前 2号機 建屋外に放射性物質の飛散
出所:東京電力ホールディングス https://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/outline/2_1-j.html より

3回の水素爆発により放射性物質が福島原発より大量に大気中に排出された。1号機は、直流電源が全く使えず。2号機と3号機の直流電源はバッテリー枯渇まで利用できたので、枯渇まで冷却できた。

2 水素爆発は防ぎ得なかったのか

1号機は津波来襲と同時に冷却機能を喪失し、まっしぐらに水素爆発へと突き進んだ。果たして、防ぎ得たかであるが、直流電源(バッテリー)を直ちに用意することができてたならば、付け加えて電源車もと思う。1号機の冷却装置である非常用復水器は電動弁のため作動しなかったとのこと。もし、自衛隊が災害派遣でバッテリーを輸送していたならと思うが、どうなのだろうか?

いずれにせよ、事故対応が十分であったのか、そのことは原因究明のみならず、極めて重要である。事故対応について調査し、教訓はないか、研究すべきである。

3 原発の大事故対応については、特別な仕組みが必要と考える

ここに官房長官記者発表2011年3月12日午前がある。福島原発に関しては、「非常用炉心冷却装置による注水が不能な状態が続いておりますが」と述べているのだが、余り緊迫感はないと感じる。パニックを起こさないようにと、冷静に述べていることは理解できる。しかし、実際に起こったことは、上の表の通りである。3月11日14:46地震発生、15:37津波襲来そして1号機の冷却・注水・減圧機能の喪失、翌12日15:36水素爆発(1号機)となったのである。

このNEWSポストセブンの記事(2011.03.20)は、{保安院の中村幸一郎・審議官が、「(1号機の)炉心の中の燃料が溶けているとみてよい」と記者会見で明らかにした。ところが、菅首相は審議官の“更迭”を命じた。}と報じている。

安心・安全な原発は安全性が確認された原発であることのみならず、運転・管理する体制も重要なのである。事故が大規模な災害を招く原発のようなものは、民間企業に運営を任せることだけでは済まない。事故が発生すれば、お前の責任だと追及しても、その企業の負担能力を超える責任を追及しても意味は無い。国で責任を持つ。国とは国民である。運転は、民間企業が行うが、国のあるいは独立した有能な機関が事故の発生がないように監視をし、改善や使用禁止等を決定できるようにする。立法により仕組みを作り上げる。

考えれば、原発とは原爆とイコールである。譲っても、同等・同程度という位である。原発を進めるなら、原爆を監視するのと同程度の管理やケアが必要なのである。今回の岸田総理の発言を機会に、誇れる管理システムを構築していくべきである。審議官の“更迭”を命じる首相は、あの人には限らず、今後も出てくる可能性はある。変なのが首相になっても大丈夫な制度を構築しなければならない。

3 世界の原発

次の表は世界の原子力発電所である。2021年12月末現在400GW近い原発が存在し、56基で計58GWの原発が建設中である。福島の事故を経験した日本だからこそ、世界に向けて発信すべき事があると考える。使用済み核燃料のプルトニウム問題も極めて重要である。なお、原発を止めても、それまでの発電により発生したプルトニウムは存在するわけで、プルトニウムは、将来の原爆のために保有しましょうとはできないのである。

Nuclearplantworld202112

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