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2022年10月20日 (木)

条約から見た幕末史

日露戦争に関しての前回のブログ の「背景その2 朝鮮半島」の中で、日米和親条約、日米修好通商条約他1854年(安政元年)から1876年(明治9年)の間に日本が締結した22の条約を列記した。 この22の条約の中で、次の5つの条約が安政5か国条約と呼ばれ、不平等条約と言われることが多い。本当にそうであるのか、条約文を読んで、考えてみたい。

1) 安政5か国条約

安政5か国条約と呼ばれるのは、次の5条約である。

米国 1858年7月29日 日本国米利堅合衆国修好通商条約
ロシア 1858年8月7日 日本国露西亜国修好通商条約
オランダ 1858年8月18日 日本和蘭修好通商条約
大英帝国 1858年8月26日 日本国大不列顛国修好通商条約
フランス 1858年10月9日 日本国仏蘭西国修好通商条約

安政5か国条約は全て1858年である。ペリーがフィルモア大統領(Millard Fillmore)の国書を持参して浦賀へ来航したのが、この5年前の1953年である。翌年1954年1月にペリーは再来航し、3月に日米和親条約(神奈川条約)の締結となった。しかし、大統領国書にあった友好、石炭と必需品の供給、遭難者の保護は、日米和親条約で取り決められたが、貿易については触れられていなかった。貿易に関する条約締結には修好通商条約(安政5か国条約)まで、更に4年を要したのである。

2) 日米和親条約締結・日米修好通商条約への道のり

1840年・41年の英・中国(清)間のアヘン戦争、そしてその結果としての1942年の南京条約が、一番大きな理由と考える。17世紀末から清ではアヘンは禁止となっていたが、英国商人や清の密輸販売組織は無視する中、アヘン・ビジネスは拡大し、中毒患者の拡大を始め社会的問題も発生することとなっていった。清政府にるアヘン押収と言う対策に対して、英国は海軍を派遣し対立は大きくなっていった。そして、武力衝突・戦争となった。結果は、清の敗北であり、1842年8月南京条約が締結された。

1842年南京条約の結果、清は、アヘンの賠償金600万ドルを含め合計2100万ドル(銀貨600万枚)の支払、香港島の割譲、広州・福州・厦門・寧波・上海の5港開港、5%一律の関税率適用等に合意することとなった。なお、アヘン禁止条項は南京条約には記載されず、盛り込まれなかった。南京条約の後は、これに次いで、清・米間で1844年に望厦条約、清・仏間で1844年に黄埔条約の締結となった。

ペリー来航の9年前1844年、日本には、オランダ国王ウィレム2世から徳川将軍あての国書を持参した特使コープスが来航した。内容は、日本がこのまま鎖国を続ければ西欧諸国と摩擦が生じ、アヘン戦争で惨敗した清国のようになる恐れがあるとの開国の勧告であった。長崎出島のオランダ商館長からの情報「阿片招禍録」、中国人魏源の「海国図志」等によっても情報は徳川幕府中枢には届いていた。1853年ペリー来航、1854年3月に日米和親条約(神奈川条約)の締結となった。

1956年9月に初代駐日米国総領事ハリスが着任した。ハリス総領事は、国際情勢の変化や貿易による日本の利益についての説明・説得を行い、1858年7月29日江戸湾の合衆国軍艦ポーハタン号上での日米修好通商条約締結となった。

3) 日米修好通商条約での領事裁判権

条約で、どのように定めたかを調べてみる。なお、日米修好通商条約の条約文は、明治7年と明治17年に条約類纂が外務省により発行されており、これら条約類纂から引用する。なお、本記事における条約文は全て条約類纂からの引用である。

F

第6条が領事裁判権に関する条文であり、英文では次の通りである。

Americans, committing offenses against Japanese, shall be tried in American consular courts, and when found guilty shall be punished according to American law.
Japanese, committing offenses against Americans, shall be tried by the Japanese authorities, and punished according to Japanese law.
The consular courts shall be open to Japanese creditors, to enable them, to recover their just claims against American citizens, and the Japanese courts shall in like manner be open, to American citizens for the recovery of their just claims against Japanese.
All claims for forfeitures or penalties for violations of this treaty or of the articles, regulating trade, which are appended hereunto, shall be sued for in the consular courts, and all recoveries shall be delivered to the Japanese authorities.
Neither the Americans or Japanese governments are to be held responsible for the payment of any debts, contracted by their respective citizens or subjects.

米国人は法令違反があっても米国領事館に裁判権がある。変かも知れないが、開国後においても相手国の法や裁判制度を理解できない状態では、相手国官警の逮捕権・裁判権等を認め、居住・活動する自国民が相手国の法制度により処罰されることを受入れることは困難と考える。日米和親条約で、下田・函館に加え、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の4港を開港(第3条)し、第7条では通行の自由を定めたが、10里以内の範囲としたり、神奈川では六郷川筋より江戸方面の立ち入り禁止や京都10里以内立ち入り禁止を定めた。なお、通商目的での江戸または大坂での居住は、それぞれ1862年1月と1863年1月以降は可能とした。但し、日米とも外交官や領事の公務目的の旅行・滞在は双方とも自由とした。

一方、日本人が米国人に対して法を犯した場合については、日本の役人が日本の法度により罰するとした。また、重大な罪(felony・重立たる悪事)を犯した場合は、行動範囲を1里以内とし、日本の奉行所は国外退去を命じることができるとした。

当時の貿易とは、国際郵便・電報もなく、貿易商が相手国に駐在し、持ち込んだ商品を相手国で販売する方法であったと考える。この場合、相手国の輸入通関した港の近くに商館を設けビジネスをする方法であり、相手国に駐在する必要がある。身の安全が保証されていないとビジネスを安心してできない。

領事裁判権が永遠に続くわけではないと考えるし、特別規定はいずれ消滅するはずである。日米地位協定に於いては「合衆国の軍当局が、合衆国軍隊の構成員又は軍属に対して、公務執行中の作為又は不作為から生ずる罪については、 裁判権を行使する第一次の権利を有する。」としている。

日米修好通商条約の領事裁判権について、日本側が受け入れなかった場合は、条約の締結は困難を伴ったと思う。

4) 興味ある条文

4-1) 大麻輸入禁止

第4条の中で、大麻の輸入禁止は定められた。

 The importation of opium is prohibited, and any American vessel coming to Japan, for the purposes of trade, having more than (3) three catties [三斤](four pounds avoirdupois){1.8kgに相当する}weight of opium on board, such surplus quantity shall be seized and destroyed by the Japanese authorities.

4-2) 金貨・銀貨は重量を基準とする

第5条では、金貨・銀貨は同種・同重量での交換と規定し、輸出は可能とした。貿易のための通貨となった。なお、金銀の交換割合については、この条約では取り決めなし。

 All foreign coin shall be current in Japan, and pass for its corresponding weight of Japanese coin of the same description.
Americans and Japanese may freely use foreign coins in making payments to each other.
-----
Coins of all descriptions (with the exception of Japanese copper coin) may be exported from Japan, and foreign gold and silver uncoined.

4-3) 信仰・宗教の自由

第8条では信仰・宗教の自由についても記載された。

 Americans in Japan shall be allowed the free exercise of their religion, and for this purpose shall have the right, to erect suitable places of worship. No injury shall be done to such buildings, nor any insult be offered to the religious worship of the Americans.
American citizens shall not injure any Japanese temple or mia, or offer any insult or injury to Japanese religious ceremonies, or to the objects of their worship.
The Americans and Japanese shall not do anything, that may be calculated to excite religious animosity. The government of Japan has already abolished the practice of trampling on religious emblems.

この第8条を読むと、当時の幕府のトップの人達は宗教の自由という概念の重要性に気づいていたように感じる。踏み絵のことを英語で”trampling on religious emblems ”と呼ぶのは、初めて知りました。

4-4) 軍艦・大砲・武器類の購入権

次の条文が第10条である。

 The Japanese government may purchase or construct in the United States, ships of war, steamers, merchant ships, cannon, munitions of war, and arms of all kinds, and any other things it may require. It shall have the right to engage in the United States, scientific, naval and military men, artisans of all kinds, and mariners to enter into its service. All purchases made for the government of Japan, may be exported from the United States, and all persons engaged for its service may freely depart from the United States, Provided.- That no articles that are contraband of war shall be exported, nor any persons engaged to act in a naval or military capacity, while Japan shall be at war with any power in amity with the United States.

日本政府は、米国において軍艦、蒸気船、商船、大砲や武器類の建造、購入を可能とし、技師・軍人・職工の雇用と出国は可能であるとした。幕府は、米国の軍艦、大砲、ライフル、砲弾等を購入することができるようになった。

また、第3条においても武器取引は幕府にのみ販売可能とした。和文の条約文では「軍用の諸物は日本役所の外へ売るへからず」となっている。国内における食糧供給は優先事項と考えたからと思うが米と麦の輸出禁止も盛り込んでいる。

 Munitions of war shall only be sold to the Japanese government and foreigners.
No rice or wheat shall be exported from Japan as cargo, but all Americans resident in Japan, and ships for their crews and passengers, shall be furnished with sufficient supplies of the same.

5) 関税

日米修好通商条約第4条に、関税は日本への輸入品ならびに日本からの輸出品に課され、日本政府へ納付され、その関税率は附属関税率表によるとある。

 Duties shall be paid to the government of Japan, on all goods landed in the country, and on all articles of Japanese production, that are exported as cargo, according to the tariff hereunto appended.

輸入関税については、品目を4種類に分けている。

(1) 免税: 金貨・銀貨、地金、居留者の衣服、家具、書籍、その他居住必要品
(2)  5%: 船舶建造・修理用品、捕鯨用品、塩蔵食料、パン、鳥獣類、石炭、木材、米、トタン、鉛、錫、生絹、蒸気機械
(3)  35%: 酒類
(4) 20%: (1)から(3)に含まれないその他の品目

日本からの輸出品は5%とする。但し、金貨・銀貨、地金は適用外。

貿易協定は現代でも存在するし、世界全体、地域、国の発展に寄与するものであり、合理的な地球規模での発展に貿易協定は欠かせない。また、その範囲は物品のみならず、サービスは勿論IT分野においても重要である。日米貿易協定において日本は牛肉・豚肉の関税削減を約束したり、米国が機械類の関税削減に約束したりしている。修好通商条約は、貿易協定であり、貿易協定の中で関税率について取り決めをすることについて、関税自主権の放棄と言うには、やはり言いすぎであると考える。ある国に貿易協定を結び、特恵関税を認めることもある。

輸出についても関税5%を規定しているが、貿易商が米国商人または商社であり、輸出も彼らが日本人から買い付け輸出するのであるから、幕府が輸出関税を課しても良いように思うし、さもなければ輸出入に関する正確な統計の把握さえ困難であったと思う。開港する港を限定し、貿易商の居留地を限定し、必要な申告させる。外国貿易を始めるにあたり、立派な条約を締結したことと感心してしまう。

6) 1866年改税約書

1866年6月25日に改税約書(英文名:Tariff Convention)が日本と英・仏・米・蘭の4カ国との間で調印された。この改税約書の合意こそ不平等な条件で幕府は締結させられたと言える。

6-1) 改税約書の関税率

関税率表は品目を第1種から第4種までに分類している。

第1種は重量や長さ等により一文銀で関税を幾らと規定し、品目の計量単位を基準に関税額を定めている。輸入関税の場合、例えば、白砂糖は第1種の品目であり100斤(60kg)あたり銀貨0.75分(11.25匁=42.19グラム)と言った様な表である。第2種は、免税品であり、安政5カ国条約では、通貨として使用する金・銀と外国人の日本滞在用持ち込み品に限られていたが、改税条約では免税品目が増加し、多くの物品が免税品となっており、その中には、食用、家畜用の獣類、石炭、米麦等穀類及び穀物粉、塩等が含まれ、関税ゼロとなっている。第3種は禁製品であり、アヘンのみが記載されている。第4種は5%の関税率対象であり、大部分が第4種になると思われる。なお、酒類が第4種に含まれており、安政5カ国条約での35%から5%になり、他の大部分の品も20%から5%になってしまったのである。

輸出関税も第1種から第4種まであり、例えば、干しエビは100斤あたり銀貨1.8分(12匁=45グラム)、絹生糸は100斤あたり銀貨75分となっている。第2種の免税品は金・銀・銅。第3種の輸出禁制品は米・麦・硝石である。第4種はその他の品目であり、5%の輸出関税となっている。

安政5カ国条約と改税約書の関税率を比較すると、分類の差もあり、計量単位基準もあるので、比較は容易ではない。しかし、第4種のその他のカテゴリーで20%の税率が5%に下がっており、概ね、関税率は4分の1に下がったと言えるのではと思う。国内産業の保護や政府財政収入の面では、低すぎる輸入関税率は好ましくない。関税率が貿易協定での取り決めである場合、改定には相手国 との交渉が必要である。5%の輸入関税率は低すぎると思えるが、そうならば、関税自主権の喪失は、安政5カ国条約よりも、改税約書でこそ関税自主権の喪失と言える。

交渉の結果について、評価することは、容易ではない。例えば、日米貿易交渉で車について日本は関税ゼロに対し米国は2.5%であり、牛肉は25.8%(セーフガード超過分は38.5%)と言ったように。様々な要素がからみあっており、単純ではないが。

6-2) 改税約書締結の理由

改税約書の条約文は次の文で始まっている。即ち、1865年11月に大阪で日本政府が輸出入の関税率を5%に変更することに対しての書面合意を条約書として作成すると記載されている。

The representatives of Great Britain, France the United States of America and Hollande, ------
 And the Japanese Government having given the said Representatives, during their visit to Osaka in November 1865, a written engagement to proceed immediately to the Revision of Tariff in question, on the general basis of a duty of five per cent on the value of all articles Imported or Exported;

1865年11月の合意とは、英・仏・蘭の連合艦隊が兵庫沖に侵入し、軍事力を背景に安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件において幕府より取り付けた合意のこと。米国は艦隊を派遣しなかったが公使は同行しており、四カ国艦隊摂海侵入事件とも呼ばれる。

6-3) 下関取り決め書(Shimonoseki Convention)

四カ国艦隊摂海侵入事件での合意が改税約書の中に記載されているが、背景は、下関戦争と呼ばれる1863年と1864年に起こった長州藩による関門海峡の砲撃・封鎖そして、襲撃に対する英・仏・米・蘭の4カ国の軍艦による報復と賠償請求ならびに下関戦争での勝利を利用しての4カ国の日本での勢力拡大である。力の差は、歴然としており、長州の弱さ、幕府の統制力の欠如、4カ国の軍事力の強さを示した。

その結果結ばれたのが、1864年10月22日の下関取り決め書(Shimonoseki Convention)であり、条約文は次の様になっている。


SHIMONOSEKI CONVENTION

The representatives of Great Britain, France, the United States, and the Netherlands, in view of the hostile acts of Mori Daizen, Prince of Nagato and Suwo, which were assuming such formidable proportions as to make it difficult for the Tycoon faithfully to observe the Treaties, having been obliged to send their combined forces to the straits of Shimonoseki, in order to destroy the batteries erected by that Daimio for the destruction of foreign vessels and stoppage of trade; and the Government of Tycoon, on whom devolved the duty of chastising
This rebellious Prince, being held responsible for any damage resulting to the interests of Treaty Powers, as well as the expenses occasioned by the expedition.
The Undersigned Representatives of Treaty Powers, and Sakai Hida no Kami, a member of the Second Council, invested with plenipotentiary powers by Tycoon of Japan, animated with the desire to put an end to all reclamations concerning the acts of aggression and hostility committed by the said Mori Daizen, since the first of these acts, in June 1863, against the flags of divers Treaty Powers, and at the same time to regulate definitively the question of indemnities of war, of whatever kind; in respect to the allied expedition to Shimonoseki, have agreed and determined upon the four Articles following: -

I
The amount payable to the four Powers is fixed at 3,000,000 dollars. This sum to include all claims, of whatever nature, for past aggressions on the part of the Prince of Nagato, whether indemnities, ransom for Shimonoseki, or expenses entailed by the operations of the allied squadrons.

II

The whole sum to be payable quarterly in installments of one-sixth, or 500,000 dollars, to begin from the date when the Representatives of said Powers shall make known to the Tycoon’s Government the ratification of this Convention and the instructions of their respective Governments.

III

Inasmuch as the receipt of money has never been object of the said Powers, but the establishment of better relations with Japan, and the desire to place these on a more satisfactory and mutually advantageous footing is still the leading object in view, therefore, if His Majesty the Tycoon wishes to offer in lieu of payment of the sum claimed, and as a material compensation for loss and injury sustained, the opening of Shimonoseki, or some other eligible port in the Inland Sea, it shall be at the option of the said foreign Governments to accept the same, or insist on the payment of the indemnity in money under the conditions above stipulated.

(注) 米国は、1883年に受領した賠償金785,000ドルを返還したと脚注がある。

外国船を襲撃する。襲撃された方からすれば、黙って見過ごすわけにはいかない。外国は幕府を日本政府と認め、平和条約・貿易条約を締結した。航行を妨げられ、砲撃を受けたなら、戦争となっても不思議ではない。反乱軍を打ち負かし、相手政府に善処を要求する。アヘン戦争のことを考えたら、更に酷い厳しい条件を呑まされる可能性もあったのではと思う。

幕末の歴史が複雑なのは、長州藩は当初から幕府転覆を謀っていたのだろうと思うことである。長州藩上層部も和親条約や修好通商条約の内容は勿論、世界情勢についても知識があったはず。吉田松陰が開いた松下村塾で多くの長州藩士は海外の知識を得ていた。また、国内の開国反対論の勢力についても十分知っていた。そのような中で、下関戦争を始めた。1866年6月に改税約書が締結されたが、この年1月には薩長同盟が形成されていた。薩長同盟の恐ろしさには、長州による英国の長崎グラバー商会から1866年7月最新式ライフル購入である。ミニエー銃4300挺とゲベール銃3000挺を薩摩藩名義で購入し、坂本龍馬の亀山社中が長州に運搬した。密輸であり、完全な条約違反である。幕府は第2次長州戦争を始めたが勝利できず。1866年8月将軍家茂が大阪城で死去。1867年1月に慶喜が将軍に就任し、この年の11月に大政奉還となった。そして、その2月後の1868年1月鳥羽・伏見の戦いが起こった。ミニエー銃を持った長州軍は強かった。

長州軍のミニエー銃はグラバー商会による密輸であった。しかし、英国政府は実態を知っていたはずであり、同様に米・仏・蘭も情報を正確に把握していたと思う。日本が国際舞台に入っていく過程の歴史だったと考える。

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