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2022年12月31日 (土)

日露戦争 背景その3 ロシア

日露戦争は、当時の記録には明治37・38年戦争と書かれていることは多い。明治になって、さほど経過していない時期の戦争であるとも言えるし、明治新政府が成熟し、世界へ羽ばたく段階に達した時期の戦争であるとも言える。日露戦争を考えるにあたり、ある程度は歴史を遡って、考えてたみるこが必要と思う。

1) ロシアの歴史(キエフ公国)

9世紀の中ごろ、ノルマン系のルーシ(Rus' )と言われた人々が、バルト海沿岸から内陸に向かい、スラヴ人の居住地域に入っていった。ルーシの国であるノヴゴロド国(Novgorod)が862年に建設された。ノヴゴロドはセントペテルブルグから南約170kmのロシア国内に位置し、街とその周辺は、現在UNESCO世界遺産になっている。

ノヴゴロド国の長(大公)となったオレーグ(Oleg)は、ドニエプル川を越え、スモレンスクとキーウを882年に支配下に置いた。これが、キエフ公国(Kievan Rus)として発展し、領土を拡大していった。907年には東ローマ帝国(Byzantine Empire)の首都コンスタンチノープル(Constantinople)に攻め入ったこともある。オレーグの死後、妻オルガ(Olga)がキエフ公国大公となり、954年コンスタンチノープルに出向き、洗礼を受け、ギリシャ正教会信者となり、教会から大公の地位を認められた。978年にウラディミル(Vladimir)が大公となり、988年にギリシア正教を国教とし、国民に信仰・洗礼を義務化し、中世国家として繁栄した。ウクライナのキーウにある聖ソフィア大聖堂も、この時代の1037年に建立されている。しかし、1054年からは、王位をめぐる王家の子弟の争いが始まり、王子たちの間で争いが起こり、やがて内戦も発生した。地方分権・封建制・地主による農民の農奴化・貧困等様々な問題も拡大しキエフ公国の衰退が始まった。

2) ロシアの歴史(モンゴル帝国・タタールのくびき)

キエフ・ルーシ諸侯国から東方は、遊牧民の地域であった。匈奴は、その代表的勢力であったと言え、紀元前33世紀には、匈奴・遊牧民に対する北方防衛を容易とするため秦の始皇帝は万里の長城を建設した。12世紀の中ごろモンゴル高原の各地には多くのモンゴル系、トルコ系の氏族・部族が割拠していた。モンゴル民族の一氏族であるテムジンは1189年ごろモンゴル諸氏族を統一してその盟主に推され、チンギス・ハンの称号を贈られた。

彼は、隣接するタタール他諸部族を服属させ、西方のアルタイ方面のナイマン部族も滅ぼしてモンゴル高原を統一し、支配地域を拡大した。チンギス・ハンは、西方遠征から凱旋後、その領土のうち、遊牧地域は、そこに遊牧する民衆とともにこれを諸子、諸弟に与えた。モンゴル本土は、これを自分の領土として末子のトゥルイに、北西モンゴル高原を第3子オゴタイ(オゴタイ・ハン国)に、中央アジアを第2子チャガタイ(チャガタイ・ハン国)に、南ロシアのキプチャク草原は、将来これを長子のジュチの領土(キプチャク・ハン国)とすることにした。チンギス・ハンは1227年に死亡。

1236年、三男オゴタイ・ハンの命を受けてバトゥはヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、出征した。1237年秋、ルーシ方面に侵攻。1238年2月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガーリチ公ダニールらの帰順を受けた。翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行った。1240年初春にはルーシ南部に侵攻し、キエフ大公国を包囲して同地を攻略・破壊した。当時キエフは大公位を巡ってルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。キプチャク・ハン国は、西方遠征で拡大され、南ロシア一帯まで支配を拡大した。14世紀前半、全盛期となったが同時にイスラーム化が進み、領域内のトルコ系民族が次々と自立した。ロシアも1480年に「タタールのくびき」から脱し、キプチャク・ハン国は1502年に滅亡した。

3) ロシアの歴史(モスクワ大公国)

キエフ公国がモンゴルに滅ぼされてから、ルーシはいくつかの地方政権にわかれ、それぞれキプチャク・ハン国に貢納してその間接的支配を受けることとなった。その地方政権の中で、次第に有力となったのがモスクワ公国であった。1283年、ダニールがモスクワ公となってモスクワを本拠にして次第に領土を拡大させていった。キプチャク・ハン国に対しては臣従の姿勢をしめしてその徴税を請け負い、14世紀前半のイヴァン1世はキプチャク・ハン国の助力を得て、宿敵トベーリを圧倒し、モスクワを北東ロシア最強の国とした。14世紀後半ドミトリー・ドンスコイ公はキプチャク・ハン国の支配に反旗を翻し、一時ロシアを独立させた。15世紀に入ると内乱に悩まされたが、イワン3世(大帝)の治世には、キプチャク・ハン国からの最終的独立が達成され、大公権が強化され、東ロシアのほとんどがモスクワの支配に服した。大公国の発展は、16世紀中頃イワン4世(イワン雷帝)治世に成立するモスクワ帝国によって継承された。カザン・ハン国、アストラハン・ハン国を併合し、さらにボリス・ゴドゥノフに命じ、コサック(騎馬隊)のイェルマークに、西シベリアのシビル・ハン国を制圧させた。農民の移動を禁止し、農奴制を強化したが、度重なる戦乱で財政は疲弊、重税に苦しむ農民逃亡者も多数発生した。

4) ロシアの歴史(ロマノフ朝)

1584年にイヴァン4世が死去すると、貴族間の抗争が続いて混乱し動乱の時代となった。ポーランドの介入もあってモスクワは危機に陥ったが貴族連合がポーランド勢を撃退して、新たにミハイル・ロマノフをツァーリに選出し、ロマノフ朝が始まった。

1613年に成立したロマノフ朝は、モスクワ大公国の貴族層が、その共同の利害を代表するものとして16歳のミハイル・ロマノフが皇帝に選出されて始まり、当初は貴族の共同統治という面が強かったが、1670年に農民反乱ステンカ・ラージンの反乱を鎮圧して、農奴制の強化に成功した。また徐々に西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制の国から官僚制・常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌していった。

1712年には、西欧諸国に互していくためにバルト海に進出する必要があると考え、バルト海沿岸に面した新都のペテルブルクを建設し、遷都した。東方ではシベリア進出を推し進め、1689年に清の康煕帝との間でネルチンスク条約を締結してた。またベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ロシアの東方進出の足がかりを作った。南方ではオスマン帝国からアゾフを獲得し、黒海方面への突破口としいわゆる南下政策を開始した。このピョートル大帝の時が実質的なロシアの出発点であり、後のロシア帝国の繁栄、それを領土的には継承したソ連邦、そして現在のロシア連邦のもととなったといえる。「ルーシ」に代わって「ロシア」が正式な国号となるのもこの頃である。

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2022年12月17日 (土)

防衛費2.6倍がムードや雰囲気で決まってしまう気がする

日本の防衛に関する方針が閣議決定されている。重要なことなのだが、国民の間での、議論はできていないと確信するのである。

日経 12月16日 岸田首相「防衛力強化が外交の説得力に」 記者会見

岸田内閣総理大臣記者会見 令和4年12月16日

閣議決定したのは、来年度から5年間の防衛力整備計画における総額を約43兆円とし、現行計画の約27兆円の約1.6倍にするということである。ところで、令和4年度の防衛費と呼ばれる防衛省所管の支出予算は5兆3687億円である。このうち人件・糧食比が2兆1881億円で、物件費が3兆2915億円となっている。ところが、防衛力整備計画には、43兆円について「新たに必要となる事業に係る契約額(物件費)は、43 兆5,000 億円程度(維持整備等の事業効率化に資する契約の計画期間外の支払相当額を除く)」と書いてある。なお、12月16日閣議決定の中期防衛力整備計画はここにあります。

私の算数によれば、43 兆5,000 億円の5年間平均は8兆6000億円になり、3兆2915億円の何と2.6倍以上になるのである。そりょあ、無茶苦茶な国民に対する騙しだろうと言いたい。

日本国民の一致した信念は、平和主義であると確信する。即ち、対話を優先し、文は武よりも強しであり、武器・軍事力よりも強いものがある。ウクライナは、人口が自国の3.5倍もあるロシアと戦って負けてはいない。両国の軍事力が拮抗しているからでもなく、やはり外交戦略でウクライナが1枚上手であると言えると思う。

日本に対してウクライナの状況をあてはめるのは間違いであり、日本は日本の方針・戦略を持つべきである。第2次大戦でアジアを戦場に巻き込んだ日本であるが、逆にそれを踏まえて、同じ目線に立って平和戦略を考えることもできるはずである。武器に金を使うなら、その金の一部を周辺国や世界との平和追求のための組織作り支援に充てた方が、よほど平和に貢献すると考える。

このNHKニュース 12月15日は、「安全保障関連の文書をめぐって、有識者らで作るグループが抑止力に頼らない政策などを盛り込んだ提言を発表しました。」と報道している。この会議のYou Tubeが次のアドレスにあり、興味深い内容が語られている。

https://youtu.be/1xR6BinP1Ks

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2022年12月 7日 (水)

原発対応を含め災害対応庁の新設はどうか

9月2日のこのブログ で、岸田首相が「原子力発電所については、再稼働済み10機の稼働確保に加え、設置許可済みの原発再稼働に向け、国が前面に立ってあらゆる対応を採ってまいります。」と述べたことを紹介したが、最近は化石燃料の価格の高騰による電気料金上昇やこの冬の電力需給逼迫の懸念もあり、原発再稼働やこの11月28日日経ニュースのように廃止が決まった原発の建て替え案も浮上している。

福島原発事故で、私が思ったのは、日本そのものの脆弱性についてである。日本の和歌や古文は日本の自然の美しさを讃え、喜び、日本に生まれ生きていることの感激を述べているものが多い。一方、現代人は自然科学や社会科学を持っている。科学的な研究、調査、分析、思考等様々な方法を駆使して、豊かな社会や生活を実現していく努力を継続すべきである。ところが、日本は、特に日本の制度は、十分に合理的とは言えず、改善すべきことは多いと考える。原発について考えるなら、現状の制度や仕組みのままで良いのかも、十分考えるべきである。

1) 福島事故菅直人現地視察の謎

首相ともあろうお方が、事故翌日の3月12日の午前7時11分から約1時間近く福島第一原発を視察・訪問している(参考:この共同通信:津村一史の記録(YahooNews) )。午後3時16分に1号機の水素爆発があったので、それは約7時間後のことであった。津波による全電源喪失が15時37分だったから、電源喪失から爆発までほぼ24時間。

そのような原発が爆発する危険を承知で首相は現場に行ったのではないはず。無知はあったかも知れないが、正確な情報や分析結果が届いていなかったのか、官邸主導だと言って聞く耳を持たなかったのか、それとも妥当な分析やシミュレーションが実施されていなかったのか、原因は不明である。「安全が確認された原発」という不思議な言葉を耳にする。100%の安全はあり得ない。何故なら人間だからである。人間だからこそ、漏れは否が応でも出てしまう。しかし、人間だからこそ、漏れに対しても臨機応変な対応もあり得るのである。

あえて一言言うなら、原発を運転する電力会社に全ての責任を押しつけるのは間違いである。当時、官房長官は電力会社に責任があると言い続けていたことを思い出す。この資源エネルギー庁の説明地図によれば、原発で現在稼働中は7基、停止中3基、設置変更許可7基、審査中10基、未申請9基で国内に36基の原発がある。電力会社(発電会社)の数では11社である。これらの原発を安全に管理・運転するための役所を作ってはと思う。

2) 災害対応庁の新設

米国FEMAを思うのであるが、FEMAは災害に関して大きな権限を持つ役所である。日本には、これに該当する役所がない。災害は、消防・地方自治体・総務省・国交省の担当であるのだろうか?災害対応は市町村役場の対応のようになっている面があるが、余りにも不透明と思う。災害への対応とは、災害発生前から発生時のシミュレーションを行い、対応を考え、計画することからスタートする。市町村・都道府県レベルより大きい国レベルの検討・対策・対応が必要である。なお、市町村・都道府県の役割は重要である。市町村・都道府県に責任を押しつけても最善の結果は生まれないのである。災害対応庁をつくれば、合理的な災害対応が計れると考える。

運転を止めても原発の使用済み核燃料や高濃度を含め放射性廃棄物は存在する。どのような体制でどう管理するのか、リスクは残り続ける。災害リスクは政治家に行くのではない。国民に行くのである。原子力災害を含め全ての災害は、国民に対するリスクである。

NHKは、このWebページで、原発運転延長との題で、様々な論点を述べている。原発運転延長が議論されるなら、その議論の中で、原発事故対応や政府の組織・権限のあり方、事業者の解体・再編を含めた合理的な仕組み構築を含めた検討をすべきと考える。

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