日露戦争 背景その3 ロシア
日露戦争は、当時の記録には明治37・38年戦争と書かれていることは多い。明治になって、さほど経過していない時期の戦争であるとも言えるし、明治新政府が成熟し、世界へ羽ばたく段階に達した時期の戦争であるとも言える。日露戦争を考えるにあたり、ある程度は歴史を遡って、考えてたみるこが必要と思う。
1) ロシアの歴史(キエフ公国)
9世紀の中ごろ、ノルマン系のルーシ(Rus' )と言われた人々が、バルト海沿岸から内陸に向かい、スラヴ人の居住地域に入っていった。ルーシの国であるノヴゴロド国(Novgorod)が862年に建設された。ノヴゴロドはセントペテルブルグから南約170kmのロシア国内に位置し、街とその周辺は、現在UNESCO世界遺産になっている。
ノヴゴロド国の長(大公)となったオレーグ(Oleg)は、ドニエプル川を越え、スモレンスクとキーウを882年に支配下に置いた。これが、キエフ公国(Kievan Rus)として発展し、領土を拡大していった。907年には東ローマ帝国(Byzantine Empire)の首都コンスタンチノープル(Constantinople)に攻め入ったこともある。オレーグの死後、妻オルガ(Olga)がキエフ公国大公となり、954年コンスタンチノープルに出向き、洗礼を受け、ギリシャ正教会信者となり、教会から大公の地位を認められた。978年にウラディミル(Vladimir)が大公となり、988年にギリシア正教を国教とし、国民に信仰・洗礼を義務化し、中世国家として繁栄した。ウクライナのキーウにある聖ソフィア大聖堂も、この時代の1037年に建立されている。しかし、1054年からは、王位をめぐる王家の子弟の争いが始まり、王子たちの間で争いが起こり、やがて内戦も発生した。地方分権・封建制・地主による農民の農奴化・貧困等様々な問題も拡大しキエフ公国の衰退が始まった。
2) ロシアの歴史(モンゴル帝国・タタールのくびき)
キエフ・ルーシ諸侯国から東方は、遊牧民の地域であった。匈奴は、その代表的勢力であったと言え、紀元前33世紀には、匈奴・遊牧民に対する北方防衛を容易とするため秦の始皇帝は万里の長城を建設した。12世紀の中ごろモンゴル高原の各地には多くのモンゴル系、トルコ系の氏族・部族が割拠していた。モンゴル民族の一氏族であるテムジンは1189年ごろモンゴル諸氏族を統一してその盟主に推され、チンギス・ハンの称号を贈られた。
彼は、隣接するタタール他諸部族を服属させ、西方のアルタイ方面のナイマン部族も滅ぼしてモンゴル高原を統一し、支配地域を拡大した。チンギス・ハンは、西方遠征から凱旋後、その領土のうち、遊牧地域は、そこに遊牧する民衆とともにこれを諸子、諸弟に与えた。モンゴル本土は、これを自分の領土として末子のトゥルイに、北西モンゴル高原を第3子オゴタイ(オゴタイ・ハン国)に、中央アジアを第2子チャガタイ(チャガタイ・ハン国)に、南ロシアのキプチャク草原は、将来これを長子のジュチの領土(キプチャク・ハン国)とすることにした。チンギス・ハンは1227年に死亡。
1236年、三男オゴタイ・ハンの命を受けてバトゥはヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、出征した。1237年秋、ルーシ方面に侵攻。1238年2月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガーリチ公ダニールらの帰順を受けた。翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行った。1240年初春にはルーシ南部に侵攻し、キエフ大公国を包囲して同地を攻略・破壊した。当時キエフは大公位を巡ってルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。キプチャク・ハン国は、西方遠征で拡大され、南ロシア一帯まで支配を拡大した。14世紀前半、全盛期となったが同時にイスラーム化が進み、領域内のトルコ系民族が次々と自立した。ロシアも1480年に「タタールのくびき」から脱し、キプチャク・ハン国は1502年に滅亡した。
3) ロシアの歴史(モスクワ大公国)
キエフ公国がモンゴルに滅ぼされてから、ルーシはいくつかの地方政権にわかれ、それぞれキプチャク・ハン国に貢納してその間接的支配を受けることとなった。その地方政権の中で、次第に有力となったのがモスクワ公国であった。1283年、ダニールがモスクワ公となってモスクワを本拠にして次第に領土を拡大させていった。キプチャク・ハン国に対しては臣従の姿勢をしめしてその徴税を請け負い、14世紀前半のイヴァン1世はキプチャク・ハン国の助力を得て、宿敵トベーリを圧倒し、モスクワを北東ロシア最強の国とした。14世紀後半ドミトリー・ドンスコイ公はキプチャク・ハン国の支配に反旗を翻し、一時ロシアを独立させた。15世紀に入ると内乱に悩まされたが、イワン3世(大帝)の治世には、キプチャク・ハン国からの最終的独立が達成され、大公権が強化され、東ロシアのほとんどがモスクワの支配に服した。大公国の発展は、16世紀中頃イワン4世(イワン雷帝)治世に成立するモスクワ帝国によって継承された。カザン・ハン国、アストラハン・ハン国を併合し、さらにボリス・ゴドゥノフに命じ、コサック(騎馬隊)のイェルマークに、西シベリアのシビル・ハン国を制圧させた。農民の移動を禁止し、農奴制を強化したが、度重なる戦乱で財政は疲弊、重税に苦しむ農民逃亡者も多数発生した。
4) ロシアの歴史(ロマノフ朝)
1584年にイヴァン4世が死去すると、貴族間の抗争が続いて混乱し動乱の時代となった。ポーランドの介入もあってモスクワは危機に陥ったが貴族連合がポーランド勢を撃退して、新たにミハイル・ロマノフをツァーリに選出し、ロマノフ朝が始まった。
1613年に成立したロマノフ朝は、モスクワ大公国の貴族層が、その共同の利害を代表するものとして16歳のミハイル・ロマノフが皇帝に選出されて始まり、当初は貴族の共同統治という面が強かったが、1670年に農民反乱ステンカ・ラージンの反乱を鎮圧して、農奴制の強化に成功した。また徐々に西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制の国から官僚制・常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌していった。
1712年には、西欧諸国に互していくためにバルト海に進出する必要があると考え、バルト海沿岸に面した新都のペテルブルクを建設し、遷都した。東方ではシベリア進出を推し進め、1689年に清の康煕帝との間でネルチンスク条約を締結してた。またベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ロシアの東方進出の足がかりを作った。南方ではオスマン帝国からアゾフを獲得し、黒海方面への突破口としいわゆる南下政策を開始した。このピョートル大帝の時が実質的なロシアの出発点であり、後のロシア帝国の繁栄、それを領土的には継承したソ連邦、そして現在のロシア連邦のもととなったといえる。「ルーシ」に代わって「ロシア」が正式な国号となるのもこの頃である。
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