日露戦争 その4 日露関係の幕開け
ロシアは日本の隣国である。しかし、朝鮮半島や中国との間とは異なり、交流は少なかった。北に位置することから、冬は寒く、また人口も希薄な地域であった。シベリア地方には、古くからシベリア先住民が暮らしていた。アメリカ先住民がアメリカに渡ったのが、シベリア経由と言われていることからすると、シベリア先住民の歴史はアメリカ先住民より古いのかも知れない。
(なお、シベリアという名称は、シビル・ハン国に由来する。シビル・ハン国とは、チンギス・ハンの長子ジュチの領土(キプチャク・ハン国)が、分裂していった中でウラル山脈の東、オビ川・イルティシ川とその支流の流域を支配していた国である。)
1) ロシアのシベリア進出
14世紀後半ごろからロシア(モスクワ大公国)によるキプチャク・ハン国の支配への反抗が強まり、イワン3世の治世には、支配からの脱却・独立が達成された。イワン4世(1533-1584)の時代になると、大公権が強化され、ウラル山脈西部までの東ロシアでは、多くの地域がモスクワ大公国の支配に服した。
本格的なシベリア進出が始まったのは、商人ストロガノフ(Stroganov)家の東方への事業拡大であった。事業許可に際しては、武装や砦建設また免税特権も皇帝から獲得した。ストロガノフが雇ったコサックのイェルマーク(Yermak)は、ウラル山脈のすぐ東のシビル・ハン国を1581年に制圧した。イェルマークは1584年に戦死したが、コサック集団は国境警備の任務に就き、皇帝から給料・食料・武器の提供を受ける公務員となった。そして、ロシアのシベリア進出は東へと拡大していった。
16世紀頃よりヨーロッパ諸国は、ヨーロッパの外へ進出し、その植民地を獲得・拡大していったのであるが、ロシアは、地続きのシベリアへと支配地域を拡大していった。16世紀・17世紀ロシアの東方進出では、次のGoogle地図上に表示した様に、砦・都市の建設がなされていった。
2) 大黒屋光太夫
江戸の鎖国時代に米国大統領の国書を携えてペリーが浦賀沖に来航したのは1853年6月であるが、それより60年強遡る、1792年にロシアから、日本との通商を求める国書を携えた使節が日本に来航している。ロシア使節団の来航目的には通商以外に、漂流民・光太夫他2名の帰国送還があり、幕府は追い払うことはせず、北海道松前で会談は行われた。しかし、国書を幕府は受け取らなかった。一方、幕府は光太夫からロシア他外国情報を入手することができた。光太夫に関する経緯は、強く興味を引かられる出来事であり、その概要を以下に記載する。
2-1) 神昌丸の漂流
1783年1月、伊勢国白子村(現在の三重県鈴鹿市白子)の百姓彦兵衛の持船・神昌丸(船頭大黒屋光太夫ら乗組員17名)は、白子の浦から江戸へ向かい出航するが、駿河沖付近で暴風に遭い航路を外れ、7ヶ月あまり船に乗った状態で漂流の後、アムチトカ島(Amchitka)へ漂着した。アムチトカ島の位置は北緯51度、東経179度付近で丁度アリューシャン列島のまん中あたり。上のロシアの東方進出地図では少し図外となる部分である。光太夫漂着時はロシア人が居住し、多くの原住民は他の島に追いやられていたようである。なお、その後の歴史として、アリューシャン列島は、80年少し後の1867年に、米国がロシアより購入した。更に約100年後の1965年、1969年、1971年の3回、米国は光太夫漂着のアムチトカ島で地下核実験を実施した。島は、現在無人島である。
神昌丸の積荷は何であったのかであるが、大黒屋光太夫記念館だよりの2013年9月発行の19号(ここにあり)によれば、木綿が主要貨物であり、船の重心位置を下げ安定性確保のために船底に米を積載したようで、光太夫は出航前には米調達のためにも尽力したようである。7ヶ月余りの間補給なしの漂流であったが、1名の死亡に止まり、16名がアムチトカ島に漂着できたのは、積荷に米があったからと思う。
2-2) アムチトカ島脱出・ペテルブルグでエカテリナ2世に謁見
アムチトカ島漂着から約4年半を経過して、1787年に島を離れ、カムチャッカに行くことができた。しかし、それまでに、8名は死亡し、人数は9人となっていた。カムチャッカで更に3人が死亡。1789年シベリア総督がいるイルクーツクに移動。イルクーツクでキリル・ラクスマン教授の知己を得た。1791年2月、ラクスマン教授に伴われ、光太夫、小市、磯吉、庄蔵、新蔵の5人はペテルブルグに到着した。5月エカテリナ2世に謁見した。
1791年9月13日エカテリナ2世は日本人救助と官費による扶養を決定。その背景として「漂流日本人の本国帰還の機会は日本と通商関係を結ぶのぞみをいだかせるものである。海路至近距離にあり、しかも隣国であると言うことから見て、ロシアはいかなる欧州の国よりも都合が好い」との考えがあったと言える。エカテリナ2世はピーリ東シベリア提督の名で使節を派遣するように命じた。光太夫たち3人はK・ラクスマンの息子アダム・ラクスマンと帰国することになった。なお、キリスト教徒となった2人の日本人新蔵と庄蔵はイルクーツクの国民学校に残った。
2-3) 帰国へ
1792年5月20日光太夫たち3人はイルクーツクを出発、8月オホーツク到着。9月13日に日本人3人とアダム・ラクスマン使節は、シベリア総督の書簡を携え、1792年(寛政4年)9月根室へ到着した。ラクスマンは、当時運上屋に駐在した藩吏熊谷留太郎を訪問し、来航の理由を述べ、かつ季節が遅れたので、同所に越年したいと述べ、藩吏はただちに松前に報じたが、藩では事の重大さに驚き、江戸にお伺いを立てることとなった。
幕府では、老中松平定信はただちに閣僚、若年寄、3奉行に諮問し、その処置を相談した結果、このロシア使節は、わが漂民を送って来たことでもあり、松前に引見し、国法をさとし聞かせることとし、宣諭使を任命するとともに、松前藩には「ヲロシヤ人、漂流の者召連れ罷り越し場合、追って江戸表より沙汰あるまでは、出帆致させてはならない。その間、手荒にはせず、失礼等これなく丁寧し、酒食の類も心付けせよ。」その結果、使節は越年させられることとなった。
宣諭使は1793年3月に松前に到着した。当初幕府は使節一行を根室から陸路をとって松前へ導く方針であったが、ロシア使節はこれを拒否したので、駒ヶ岳の北・砂原に海路で至り、そこから陸路で松前に向うこととなった。幕吏の船は、使節船エカテリーナ号を先導したが、途中海上濃霧のため両船が離ればなれになり、ロシア船は6月8日に箱館港に入った。
2-4) 松前での会見
箱館港 から松前に向った使節団は、露船乗組人員41名のうち、ラクスマンをはじめ11名と光太夫、磯吉(小市は根室で病死)の2名であった。松前の旅宿古田屋敷に、6月20日に到着した。宣諭使とラクスマン使節の第1回の会見は、6月21日松前家の浜屋敷で行われた。幕吏はさきにラクスマンが送った文書を返戻し、通信なき異国の船、日本の地に来る時は、或は召捕り又は海上にて打払う等を述べた申諭書を朗読して渡した。翌22日と23日幕吏はロシア使節の旅宿を訪れ、宣諭使が交付した諭書を反復して説明に努めた。
6月24日再び使節を浜屋敷に引見した。ラクスマンは国書を提出したが、宣諭使はこれを、長崎以外では受理することができないとしてしりぞけ、こうした交渉は長崎に行ってなすべきこと、月末晦日には松前を出発して帰途に就くべきことなどを申し渡した。また遠路漂流民を送還されたロシア王の仁心を謝し、大麦61俵、小麦27俵、蕎麦3俵、鹿肉6樽を船中手当として贈与すべき旨を達した。この夜、光太夫と磯吉を受け取った。27日使節は浜屋敷に来て別れを告げたので、宣諭使は長崎に来航する場合のためとして信牌を与えた。
ロシア使節に与えた諭書は、わが国鎖国の趣旨を厳重にさとしたものである。しかし、「望む所あらば、長崎に至りてその沙汰にまかす。」との信牌 を与えた。6月30日ラクスマン使節一行は松前を発し、7月4日箱館に到着し、帰帆の準備をしながら順風を待った。7月15日夜小雨一過、風向きが南西にかわり、16日午前10時ロシア船は、出帆した。
3) レザノフの来航
ラクスマンが帰国した1793年から11年後の1804年9月、レザノフ(Nikolai Petrovich Rezanov)が信牌とロシア皇帝の親書を携えて長崎の出島に来航した。船には、1793年11月に石巻港(宮城県石巻市)を出港し、翌年アリューシャン列島の島に漂着、ロシアに8年滞留したのち、ロシア残留を希望する6名を除く津太夫ら4名がレザーノフに伴われていた。皇帝の親書には、12年前にラクスマンが長崎への入港を許可する信牌を授けられた礼を述べると共に、両国の間に「交易之道」を開きたいと、通商の希望を述べていた。レザノフらは半年間出島近くに留め置かれ、翌1805年、長崎奉行所は、 中国・朝鮮・琉球・オランダ (紅毛) 以外の国との通信・通商の関係を保持しないのが国法である、と通告し通商を拒絶した。 1805年4月レザノフは長崎を去り、カムチャツカへ向かった。レザノフは、シベリア経由で帰国の途中、日本と通商を開くには軍事的な圧力をかける必要があると部下の軍人に示唆したとのことである。
結果、1806(文化3)年から翌年にかけて、レザノフの部下であったフヴォストフが中心となってロシア軍艦が樺太や択捉を攻撃する事件(フヴォストフ事件・文化露寇)がおこり、択捉守備兵は敗走した。1811年6月には、ロシア船ディアナ号の艦長ゴロウニンらが測量中に国後島で日本側に捕らえられる事件が起き、これに対抗してロシア側は、豪商高田屋嘉兵衛を捕らえてカムチャッカヘ連行。和解が成立した結果、1813年に双方の捕虜の交換となった。
1808年に長崎で英国軍艦フェートン号によるオランダ商館襲撃事件、その後の英国船の日本近海における煩雑な出没、1824年の英国捕鯨船員の水戸藩領大津浜や1825年の薩摩の宝島に不法上陸があり、1825年には幕府により異国船打払令が出された。
4) 開国
幕府は、1842年8月28日(南京条約調印の前日)に清朝が英国に敗北したことを知り、 薪水給与令を出し、異国船打払令は緩和された。南京条約から約10年後の1853年7月8日、蒸気推進艦サスケハナ号とミシ シッピー号をはじめ、帆船のサラトガ号、プリマス号の4隻からなるペリー率いる 黒船艦隊が浦賀沖に姿を現した。幕府は、長崎への回航を求めた。しかし、フィルモア大統領からの親書をあくまでも江戸近郊で渡そうとするペリーの強硬姿勢に抗しきれず、親書の受け取りを決定して久里浜に 応接所を作り、7月14日親書等書簡類 を受理した。7月17日、次回はさらに大規模な艦隊を率いて来ることを予告し、浦賀沖を退去した。
ペリーは翌1854年2月13日、旗艦で蒸気推進艦であるポーハタン号、サスケハナ号、ミシシッピー号、帆船のマセドニアン号、ヴァンダリアン号、レキシントン号、サザンプトン号の7隻で再び来航 し、浦賀を経て武蔵小柴沖に投錨した。さらに後日には、帆船のサプライ号とサラトガ号が合流する大艦隊であった。江戸を交渉場所に主張するペリーと鎌倉・浦賀付近を提案する幕府との折衝で、最終的に双方が譲歩して応接所を横浜と決定 した。3月8日から始まった交渉で、議論が繰り返されたが、下田、函館の2港の開港を含む日米和親条約が3月31日に締結された。
5) プチャーチンの来日
米国との日米和親条約の締結が1854年3月31日。ロシアとの日露和親条約締結は1855年2月7日であった。ロシアは1年遅れであったように思える。しかし、ロシアは、日本に近く樺太や千島で衝突もあった訳で、米国以上に日本との外交関係の樹立や貿易に興味があったとも言えるし、ペリーの遠征準備の段階から情報を入手していた。米露 はほぼ同時期に日本への開国要請を計画したと思う。1852年10月にプチャーチン(Putjatin)一行は北海を出航し、長崎に1853年8月12日に到着した。プチャーチンが持参したロシア国首相から老中宛の書簡の引き渡しは、手間を要したが、9月9日には行われた。しかし、その後は徳川家慶の喪に服する等のことから交渉は中断となり、プチャーチンは上海に向かった。12月22日日本に戻り、1854年1月4日から交渉が始まったが、決着はつかなかった。プチャーチンは4月14日に日本を離れたが、その時つぎは江戸に近い場所での交渉希望を表明した。
この時期、ロシアとオスマン帝国とのクリミア戦争が1853年10月に始まり、1854年には英国とフランスはオスマン帝国側に加わっていた。英国軍艦がロシアシベリアに攻め入って来た時の対策を講じるため、アムール川河口のデカストリ(Dekastri)やその南のインペラトールスカヤ・ガワニ(Sovetskaya Gavan)での防禦施設構築の指揮等にも携わった。
7月12日に新造船ディアナ号が北海のクロンスタット(Kronstadt-Kotlin Island)から廻航されてきた。プチャーチンは10月3日日本へ向かい、10月9日函館へ、そして大阪へ向かったが、入れてもらえず、下田が交渉地に指定され、11月22日下田に到着した。12月22日福泉寺で第1回目の交渉が始まった。翌日の1854年12月23日安政東海地震が発生。翌5日に安政南海地震が起き、伊豆から四国までの広範な地帯で死者数千名、倒壊家屋3万軒以上という被害が出た。ディアナ号も津波により大破し、死亡者も出た。一方、ディアナ号の船医は日本の傷病者の手当も行った。ディアナ号は修理すべく戸田へ廻送しようとしたが、途上で沈没した。結果、ロシア一行の帰国船はなくなり幕府に代船建造の許可を願い出て、日本側の協力の下、戸田でスクーナー帆船が建造されることとなった
6) 日露通好条約(下田条約)
震災から3日後には事務折衝が開始され、1855年1月に入ってからは長楽寺で本格的な交渉や条文作成の折衝が行われた。そして、1855年2月7日日露通好条約(下田条約)が調印された。条約は第1条から第9条までの9条で構成され米ペリーが調印した日米友好通商条約の全12条より条文が少ないが、国境に関する取りきめを除き、基本的には同一内容である。但し、米国との条約では下田と函館の開港であったが、ロシアとの条約では函館、下田、長崎の3港となっている。
日露通好条約(下田条約)の第2条が国境に関する取りきめであるが、その全文は次の通りである。
第2条 今より後 日本国と露西亜国との境「エトロフ」島と「ウルップ」島との間に在るべし。「エトロフ」全島は日本に属し「ウルップ」全島それより北の方「クリル」諸島は露西亜に属す。「カラフト」島に至りては日本国と露西亜国との間に於いて界を分たす。是まで仕来の通たるべし。 |
1855年の下田条約では国境を定めないとしたカラフト(Sakhalin)については、サンクトペテルブルクで樺太千島交換条約が1875年(明治8年)5月7日に調印され千島列島は全島が日本、カラフトは全島がロシアとすることで合意された。
樺太千島交換条約の第1条と第2条を参考に掲げる。
第1条 大日本国皇帝陛下は其の後胤に至るまで現今樺太島の一部を所領するの権利及び君主に属する一切の権利を全露西亜国皇帝陛下に譲りて而して今後樺太全党は悉くロシア帝国に属しラペールズ海峡を以て両国の境界とす。 第2条 全露西亜国皇帝陛下は第1条に記せる樺太島の権利を受けし代として其の後胤に至るまで現今所領クリル群島即ち第1シュムシュ島・・・・第18ウルップ島合計18島の権利及び君主に属する一切の権利を大日本皇帝閣下に譲りて今後クリル全島は日本帝国に属し東察加半島(カムチャッカ半島)ラパッカ岬とシュムシュ島の間なる海峡を以て両国の境界とす。 |
7) ヘダ(戸田)号の建造・帰国
大破したディアナ号は1955年1月14日に日本船の案内で戸田で修理すべく下田を出港して航行中、浸水・漂流し、1月15日座礁、1月19日に沈没した。幕府はプチャーチンから申し出があった帰国用の船舶建造を、攘夷・開国の複雑な国内情勢ではあったが許可。条約調印後の2月10日起工した。なお、帰国用の船舶は、船長25m足らず、船幅7m、排水量80-100トン、乗員数約50名で、マスト2本のスクーナー帆船であった。スクーナー帆船の図面がディアナ号にあり、また技術者や作業員も乗船していたことがあるが、一方で幕府や日本の船大工他も洋船建造の技術取得ができる絶好のチャンスでもあった。ヘダ号は起工してから2月半後の4月26日に進水、3月22日に下田から出港し、クリミア戦争で敵である英・仏軍艦を避けながら、アムール川河口のニコライエフに到着した。ディアナ号は船長50m強で排水量2000トンで乗組員約500人はヘダ号には乗船できない。そこで、下田に来た米国船カロラインフート号と交渉して2月25日に約150人を乗船させ先行帰国させた。残る約300人は、ドイツ船グレタ号で6月10日出港で帰国の途についたが、ハバロフスク地方のアヤン港到着前に英国船に捕らえられ、香港に、そして英国本土に連れて行かれた。ロシア本国への帰国はクリミア戦争講和会議のパリ条約締結の1856年3月以後となった。
8) プチャーチンその後
プチャーチンは、翌年も来日し、日露追加条約を1857年10月24日に調印した。そして1858年8月7日に日露修好通商条約を調印したのもプチャーチンであった。米国のハリスが日米修好通商条約を調印したのが、7月29日であり、9日後にほぼ同一の条約を調印した。
プチャーチンは日本に好意を持ち続け、サンクトペテルブルクに滞在する日本人留学生の庇護他様々なかたちで日本に貢献をした。プチャーチンは1883年10月にパリで亡くなったが、その2年前の年である1881年に、駐露公使柳原前光による叙勲提議により、勲一等旭日大綬章を受け取った。プチャーチンの長女オーリガは、1887年に訪日し、戸田村などを訪れた。1891年に亡くなった時、長女オーリガは家の財産から800ルーブルを日本の貧しい人々へ遺贈する遺言を残した。駐日ロシア公使から外務大臣に伝えられ、日本の貧しい人々や、日本赤十字社、戸田村住民のなかの生活困窮者に贈られることが希望された。
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