中国とロシアは日本の隣国であり、どの国も単独で存在しているのではなく、常に隣国からの影響を受け、歴史がつくられている。1904年-5年に戦われた日露戦争について考える場合、中国(清王朝)の19世紀における政治的混乱や衰退、そして同時期のロシア(ロマノフ王朝)の興隆を考える必要があると考える。
1) 1600年-1900年頃の日本、中国、ロシアの人口
1600年から1900年頃の中国、日本、ロシアの人口を書き出したのが、次の表である。中国(清)は当時も人口世界最大の国であり、1600年-1900年頃は世界人口の25%-35%が中国に住んでいた。ロシア(ロマノフ王朝)も急速に人口が増大している国であり、1700年頃は日本と人口はほぼ同じであったが、1800年頃は日本の倍近くで、1900年頃には1億2千万人と日本の3倍近くになっていた。日本も江戸時代に入ってからは人口の増加は大きかった。
2) 清王朝とロマノフ王朝
清朝とロマノフ朝の歴代皇帝を書き出したのが次の表である。
2-1) 清王朝
清朝の初代皇帝とされるヌルハチは、中国東北地方で挙兵、1598年建州女真を統一し、さらに北方地方の全域を統一することに成功して、1616年にアイシン(満州語で金を意味する)と号する国をたてた。
1626年にヌルハチが没すると、その第8子ホンタイジ(1592〜1643)が、ハンの位についた。明軍と交戦したが、破ることができず、モンゴル高原を迂回して明を攻撃する計画をたてた。1635年内モンゴルのチャハル部を平定した際、元朝の皇室に伝わったという玉璽(ぎょくじ)を手に入れ、1636年、満州人・漢人・モンゴル人の皇帝の位につき、国号を清に改めた。
1644年、明 が李自成の乱によって滅ぼされると、明の武将呉三桂が清に投降し、万里の長城の東端の山海関の門を開き、清軍を導き入れた。山海関を突破した清軍は、呉三桂らと共に北京を占領し、清は都を北京に遷して、華北支配に着手した。ホンタイジは紫禁城入城直前に崩じ、息子の順治帝が急遽帝位についた。即位時の年齢は5歳であった。
ホンタイジは副官ドルゴンを主席摂政親王に指名し、順治皇帝が政権の親政ができるまで叔父のジルガランとともに清帝国を2重臣総理大臣による集団指導体制にさせた。ドルゴンは呉三桂などの漢人を登用して明の残存勢力を討ち、中国の統一支配を進める一方、明の機構を継承して漢民族との融和を図った。ドルゴンが死んだ後、順治帝も同様な姿勢をとった。
第4代皇帝となった康煕帝(1661~1722)は、1673年からの三藩の乱で呉三桂ら藩王の勢力の削減に乗りだし、1681年に鎮圧に成功し、漢人武将の勢力を抑え、さらに1683年には鄭氏台湾を平定し、はじめて台湾を中国本土の王朝の支配下に入れ、清の全国的な統一支配を達成した。
清の全盛は、康熙帝・雍正帝・乾隆帝と続いた時代であったが、18世紀後半になると、各地で抗租・抗糧と呼ばれる経済闘争、白蓮教と総称される秘密宗教結社の反乱が続発し、戦乱による荒廃と反乱平定に要した巨額の出により、国力は消耗した。
2-2) ロマノフ王朝
ロシアでロマノフ王朝が成立したのは1613年。ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフがに初代ツァーリ(皇帝)となった時である。1584年にモスクワ大公国のイヴァン4世(雷帝)が死去し、政治の混乱・動乱の時代となり、フョードル・ニキーチチ・ロマノフが次第に勢力を拡大していき、その息子ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが即位して、ロマノフ朝が始まった。17世紀末に即位したピョートル1世は、ロシアの近代化を進めた。1700年に始まったスウェーデンとの北方戦争は20年以上続いたが、1721年にロシアは勝利し、バルト海東岸に進出した。この間、1712年に新都をペテルブルクに建設し、首都を移した。ロシアは東欧の強国となり、ヨーロッパ国際政治の舞台への台頭となった。
エカチェリーナ2世の時代の1768年には、ロシア=トルコ戦争(第1次)を開始し、1774年にモンゴル人の国であったクリム・ハン国の保護権を獲得し、1783年には併合した。1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)を再開しオスマン帝国と戦い、クリミア併合を承認させた。1801年アレクサンドル1世が即位。この時期、フランスでは、ナポレオンが1799年に総裁政府から実権を奪い第一統領となり、1804年には皇帝ナポレオン1世となった。 1812年ナポレオン軍は、モスクワ遠征を行いモスクワに進軍したが、大きな犠牲を出し、ロシアが勝利した。
アレクサンドル1世の急逝により1825年ニコライ1世は皇帝となった。オスマン帝国の弱体化に乗じ、黒海から地中海・中近東方面への南下政策を強めていくロシアであったが、イギリスとフランスはそれに対して警戒を強めていた。1853年ロシアとオスマン帝国が開戦し、英・仏の連合軍がオスマン帝国を支援し、1854年3月に両国はロシアに宣戦。9月連合軍はクリミア半島に上陸し、ロシア要塞セバストーポリを攻囲し、1855年9月セヴァストーポリは陥落してロシアの敗北となった。翌1856年このクリミア戦争終結のパリ講和会議で、オスマン帝国の領土保全、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡軍艦通過のオスマン帝国限定、黒海の非武装化、ドナウ川の自由航行等が盛り込まれたパリ条約が締結された。
ニコライ1世は戦争中の1855年に死去し、アレクサンドル2世が即位し、軍隊の近代化等に努めるようになり、農奴制の解体にも着手した。
1875年ボスニア=ヘルツェゴヴィナでギリシア正教会徒が反乱をおこし、ブルガリアにも飛び火し、オスマン帝国は軍隊の力で鎮圧に向かい、ロシアはパン・スラヴ主義(Pan-Slavism)を掲げ、ギリシア正教会徒保護の名目でオスマン帝国と開戦した(露土戦争 1877〜78)。ロシアはイスタンブルに肉薄し、オスマン帝国はイギリスに支援要請し、イギリスとの戦争の可能性が発生した。1878年ロシアは急遽オスマン帝国とサン・ステファノ条約を結び、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化等を決めた。
ロシアの東地中海・西アジアへの進出を恐れるイギリスと、バルカン半島へのロシアの進出を警戒するオーストリア=ハンガリー帝国が強く反対し、ドイツ帝国の宰相ビスマルクがこの危機の調停に乗り出した。 ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリス、オスマン帝国、ドイツ、フランス、イタリアの六カ国代表をベルリンに招集し、ビスマルクが議長を務めた。その結果、同年8月のベルリン条約で、サン=ステファノ条約は修正され、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの三国のオスマン帝国からの独立承認、ブルガリアは領土を3分の1に縮小の上オスマン帝国を宗主国とする自治国、ロシアが獲得した領地は縮小されベッサラビア(ほぼ現在のモルドバ)のみとなり、オーストリアはオスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権、イギリスはオスマン帝国からキプロス島の統治権等が決められた。ロシアの地中海への進出は押さえられた。
3) ネルチンスク条約 (1689年)
ロシアは16世紀のイェルマークによる遠征を契機とし、東方シベリアの開発を実行中であった。オホーツクへの進出は1649年であり、ネルチンスクには1653年に砦建設を始めていた(参考 )。清では1662年に第4代康煕帝が即位。清が領土最大となる黄金期が始まった。ロシアではピョートル1世が1682年に即位。両国は、アムール川(黒龍江)沿いで衝突することとなった。その結果、1689年に中露間の和親条約に相当するネルチンスク条約(Treaty of Nerchinsk)が締結され、両国の国境が定められた。ネルチンスクは、ロシア領とし、アムール川流域地区は中国(清)とすることで合意された。同時に、ロシア・中国(清)間の陸路を経由しての交易がとり決められた。
ネルチンスク条約による中露国境は下の地図の紫線です。
4) 愛琿条約 (1858年)
愛琿(アイグン)条約による中露国境は前掲の地図の茶色線であり、アムール川の左岸(上流から見ての左側)側をロシアとし右岸側は中国とするが、ウスリー川が合流する地点(ハバロフスク)から下流のアムール川とウスリー川に囲まれた領域(前掲の地図でハバロフスクとウラジオストクを結ぶ青線の東側)は共有と取り決めた。
1853年にロシアとオスマン帝国が開戦し、英・仏の連合軍が加わりクリミア戦争となった。開戦前より、アムール川(黒龍江)の通行の可能性は、ロシアにとって大きな関心事であった。1851年ネヴェルスキー大尉の遠征隊が派遣され、サハリン、オホーツク海、タルタル海峡の探検が実施され アムール川の航行可能性も証明された。アムール川の河口には、ロシア最初の入植地と軍事拠点が設置された。クリミア戦争では、太平洋と中国の北方へのアプローチを強化するため、アムール川のロシア船の航行を確保し、軍事基地を設置した。クリミア戦争は、1856年パリ条約が締結されロシアは戦争に敗れたが、アムール川地域は条約の対象外であった。
当時の弱体化していた中国に対して、ロシアはすべての沿海州を承認するよう要求した。6日間の交渉の末、3つの条項からなる条約が愛琿(アイグン)で調印された。愛琿(アイグン)条約は、ロシアはアルグン川から河口までのアムール川左岸を領有し、アムール川右岸からウスリー川までは中国であるとされた。ウスリー川と海との間の地域は「両国の境界が確定するまでは」ロシアと中国の共有とされた。また、アムール川、スンガリ川、ウスリー川の航行は、ロシアと中国の船舶のみとされた。
当時の中国(清)は、1840年にアヘン戦争があり、その結果1842年に南京条約が結ばれた。1851年に太平天国の乱が始まり、同時進行で、清朝とイギリス・フランスとのアロー戦争があった。アロー戦争は、1856年に英国がアロー号が英船籍だと難癖を付けて 非難し、その2年前に広西省でフランス人宣教師の殺害事件が起きていたことから、フランスもイギリスと共同で清朝に宣戦を布告。本格的な戦闘は57年末からはじまり、英仏連合軍が海路北上し天津に迫ると、清朝は降伏し、1858年4月に天津条約が結ばれた。愛琿条約は約1月後の5月28日に調印された。
しかし、清朝内部の条約批准反対派の声に押され、イギリス・フランスの使節の北京入りを清朝政府は拒否した。結果、清に圧力をかけるためのイギリス艦隊による天津外港の大沽で示威行動を起こし、反発した清側が発砲し、戦闘が再開された。1859年に、英仏の使節団が、批准書交換のためにやってきたが、清朝は内部で意思統一ができておらず、使節団に対してのの混乱を収拾できない清朝側は、天津の近くで使節団を砲撃して追い払ってしまう。
翌60年には、再び英仏連合軍が北上し、北京に向けて進撃し、皇帝(咸豊帝)は、北方の熱河の離宮に逃亡し、北京に残された政府が連合軍と北京条約を結び清朝は、再び降伏した。報復と称して北京に侵入したイギリス・フランス連合軍は、円明園を破壊するなどの暴行を加え、略奪を行った。恐れた清朝皇帝咸豊帝は熱河に逃亡してしまったので、北京に残った軍機処の役人との間で交渉が行われ、1860年10月に天津条約の批准書交換が実行された。さらに英仏両国は天津条約に加え、より有利な北京条約を締結することに成功。北京条約では、天津や南京など11港を新たに開港すること、キリスト教の布教の自由、外国人の中国国内の旅行の自由等が合意され、商人はどこにでも行けるようになりった。
5) 北京条約
清が英ならびに仏と1860年10月24日に締結したのが4)の北京条約であり、その翌月11月24日にロシアは清と北京で条約を締結し、この条約も北京条約と呼ばれている。
北京条約は、愛琿条約で中露共同管理としたウスリー川の右岸・東の地域をロシア領とした。サハリンの西部と北海道の西部に位置し太平洋に面するシベリア沿海州がロシア領となった。中国・朝鮮との太平洋・日本海に面する沿岸での国境はTume River(豆満江)と定めた。Tume River(豆満江)の川口から直線で北東130kmに位置するのがウラジオストクである。
ロシアは、北京条約によりウラジオストクという不凍港を入手したのである。ウラジオストク港は、下の地図で示したように湾の中で南につきだした全長約40kmの半島にあり、この半島の中に湾があり、主としてこの湾が港として利用されている。このような地形であることから、ウラジオストク港には流れ込む川がなく、凍らない。すなわち、真水は0度で表面から氷結が始まるが、海水は簡単には氷結しない。ここ に北海道・オホーツク海の海氷分布の図があるが、ウラジオストクは北緯43度であり札幌とほぼ同じです。日本からウラジオストク港行きのフェリーも、冬期欠航とならず、年中運行されていた。(なお、今現在フェリーは、運休中と思う。)
ロシアは、愛琿条約でアムール川の左岸地域を確保し、その2年後の北京条約でウラジオストクを含むシベリア極東地域を取得し、この国境線が現在の中露間の国境線とほぼ同じである。日露戦争 その4 日露関係の幕開けで大黒屋光太夫のエカテリナ2世との謁見そしてアダム・ラクスマンと帰国したことを書いた。この帰国の際の港はオホーツクであった。1792年当時は、オホーツクがロシアの太平洋岸で利用する主要港であった。1853年にプチャーチンは最初長崎に来航するが、この時はバルト海を出発してきた。1854年11月22日に下田へディアナ号で到着するが、来訪前はアムール川河口での防禦施設構築の指揮等にも携わっていた。1955年日露通好条約(下田条約)調印後、失われたディアナ号に代わるヘダ(戸田)号で帰国した際は、アムール川河口のニコライエフより帰国した。
6) ロシアの太平洋進出
ロシアは、愛琿条約・北京条約でサハリンから朝鮮国までの太平洋沿岸を手に入れた。そこには、内部統一が取れておらず外国に対する力が弱っていた中国・清政府の存在があった。アヘン戦争を契機に中国・清に手を伸ばし、利益を獲得しようとしていた国はイギリスのみならず。フランスもドイツも米国も画策・行動し、チャンスあらばと狙っていた。この外国勢力にロシアが加わるのは、当然であり、明治維新後には日本も加わった。
ロシアの太平洋進出を考える時に考慮すべきこととして、ヨーロッパや地中海方面のことも考える必要がある。2-2)に書いたように、20年以上続いたスウェーデンとの北方戦争にロシアは勝利し、1712年に首都をサンクトペテルブルクに移し、バルト海東岸に進出した。サンクトペテルブルクは、ネヴァ川の河口であり、冬期は凍結することがあり、今でも港湾機能維持のための砕氷船が存在する。日露戦争でのバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)もリバウ港(現ラトヴィア領リエパヤ)から出航してきたのである。
ロシアが海洋に面するヨーロッパでのもう一つの海は、黒海である。黒海は、エーゲ海から地中海につながるが、黒海とエーゲ海の間にボスポラス海峡、ダーダルネス海峡とその間にマルマラ海がある。これらの両岸はトルコ領であり、海峡の長さと最狭部の幅はボスポラス海峡31km、700mで、ダーダルネス海峡61km、1200mである。海峡通過については、トルコ政府が大きな影響力を保有しているのであり、戦争の結果による力関係で取りきめが変更されたり、戦時には海峡通過規則等の運用が変わったりとなる。今も、ウクライナ戦争で扱いは注目を集める。1768年のロシア=トルコ戦争でロシアは勝利した。しかし、ロシアが敗れた1853年-56年のクリミア戦争では、英・仏がトルコ側についたことがあるが、その背景にはロシアを地中海には進出させないとする意図があった。
1870年代から1880年代初頭にかけて、イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国は、成長する工業部門のための天然資源と、これらの工場が生産する商品の潜在的な市場を求めてアフリカに目を向け始めた。これらの国々はアフリカにおける自国の経済的利益を守るため、斥候を派遣し、先住民やその代理人とされる人々から条約を取りつけるようになった。1884年から1885年にかけてベルリン会議が開催され、イギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル、ベルギーは、アフリカの領有権について交渉し、正式な地図が作成され、また、植民地間の自由貿易を認め、将来のアフリカにおける領有権交渉のための枠組みを確立することにも合意した。ヨーロッパによるアフリカの植民地化のプロセスを正当化・形式化した。
参考まで、アフリカの植民地化の状況は このアフリカの地図が参考になると思う。ベルリン会議にはロシアも参加していた。しかし、アフリカ進出は他の参加国から認められることはなかった。
18世紀・19世紀のロシアはアムール川方面を含むシベリア開発の促進と拡大、そして太平洋への進出であった。世界の大国は、経済的利益・自国の繁栄を求めて影響力を及ぼせる範囲を拡大していった。
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