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2023年8月29日 (火)

黒部ダム (4)どうしてあの場所に?位置選定の理由

黒部ダムは観光目的で建設されたのではなく、エネルギー回収・発電目的で建設されたのである。エネルギー回収・発電目的とした場合、あの位置が最適となるのかを考えてみたい。

1) 安い建設費で大きな貯水量

環境影響を無視して良いわけではないが、ダム建設・ダム計画の基本は安い建設費で大きな貯水量を得ることであり、発電ダムに限らず、利水ダム、洪水調節ダムに関しても同じである。建設地の岩盤が良く、ダムの堤体が小さくて済む所が、建設費が安くなるところである。

言ってみれば、ダム建設地点での川幅は狭く、一方ダムより上流側は川幅が広くなり湖水面積が大きなダム湖が得られれば、単位水深あたりの貯水量は大きくなるわけで、そのような地点が存在すれば理想的である。

次の図(クリックで拡大)は、黒部川の河川断面図である。黒部川の主要ダムを記載した。なお、この中で、宇奈月ダムは2000年竣工であり、黒部ダム建設前には存在しなかった。黒部ダムの下流にあるのは仙人谷ダムであり、ダム湖の満水位851m。 この位置より標高の高い地点が黒部ダムの建設候補地となる。

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次の図が黒部川の断面図であり、仙人谷ダムから上流の幾つかの地点について作成した。黒部ダムより下流は深いV字谷の渓谷であり、それが黒部ダム付近を境界として、上流部はV字谷の角度が緩やかになっている。黒部ダムの地点は、地形からするとダム建設には絶好の地点である。

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2) 安い建設費を実現するトンネル

ダムとは、川の流れの直角方向に堤防を建設し、川の流れをせき止めて、流れを分流したり、流量制御を行ったりする。分流と流量制御の双方を行うことも多い。大阪府大阪狭山市にある狭山池は、飛鳥時代(西暦616年ごろ)に誕生した日本最古のダム形式のため池と紹介されている。香川県仲多度郡まんのう町の満濃池も821年に弘法大師空海が再築したと言われているダム形式のため池です。

黒部ダムは、コンクリート造のアーチダムであり、コンクリート重力ダムよりダム本体(堤体)の大きさは小さくて済むが、それでも黒部ダムの堤体積は約1,600千m3であり、ダムのみで160万トンのセメントと骨材を必要とする。この量は非常に大きいのである。例えば、ダム堤高157mの奥只見ダムやダム堤高155.5mの佐久間ダムが、それぞれ堤体積1,658千m3と1,120千m3であり、これらと比べて黒部ダムの建設は資材・機材の運搬も容易ではなく高い建設費になると考えられる。

しかし、黒部ダムは通常で考えると相当高くなると思われる建設費を安くする手段が存在したのである。それは、ダム地点と扇沢の間をトンネルで結ぶ方法である。これにより、黒部ダムが秘境とも言える黒部川の標高1270m地点であるにも拘わらず実現できた。トンネルであるから環境破壊も最小限にできた。 トンネルルートを地図(地理院地図から作成)で示すと次である。即ち、扇沢は現在の関電トンネルの大町側出口であり、西俣出合は他にトンネル出口として候補に考えられるならとして記載した地点である。 断面図を、その下に示したが、ダムから扇沢には約5kmであり、西俣出合だと10km以上となる。

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黒部ダムと扇沢を結ぶ関電トンネル(当初は大町トンネルとも呼ばれた)は、トンネル掘進開始位置の岩小屋沢横抗から1691m地点を掘り進んで、1762m地点に至るまでの71mの掘削に1932年5月1日から12月6日迄約7月(219日)を要したのであるが、トンネル工事には時として発生することとも言える。1940年11月に完成した黒部川第三発電所の水路トンネルの阿曽原・仙人谷ダム間の第1工区930mでは、岩盤温度110℃となる高熱隧道工事となった。第1工区トンネルは、1937年5月着工で、1939年6月貫通まで2年を要した。関電トンネルの破砕帯は7月という短期間で終わった。黒部川第三発電所の高熱隧道部分の工区は当初加藤組の請負であったが、工事を放棄。日本電力直営とし佐藤組が課程請負で工事を実施した。吉村昭の小説では、加瀬組、佐川組となっている。

黒部ダムと黒部第四発電所建設用のセメント・骨材、機材、重機等の輸送ルーとしては、立山越ルート、黒部川鉄道、関電トンネルの3ルートが使われたが、輸送実績は次の通りであり、圧倒的に関電トンネルが輸送手段の中心であった。 

輸送ルート 立山ルート 黒部川鉄道 関電トンネル 合計
輸送量 トン 1,800 120,000 5,500,000 5,621,800

立山ルートが利用されたのは、関電トンネル開通前の1966年・67年のみである。 関電トンネルによる輸送には骨材4,900,000トンを含む。

 

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