黒部の太陽とは、木元正次氏による黒部ダムと黒部第四発電所の建設を題材にした小説である。 しかし、不可能と言われた破砕帯の突破と言う様な記述は私には誇大と思える。 そこで、小説ではなく、事実に基づいて、建設工事等を記述することをしてみたいと思います。
1) 関電2号トンネル
1-1) 関電2号トンネル
関電2号トンネルとは、1956年8月6日横坑切り取りで着工した扇沢と黒部ダム間を結ぶ物資輸送用の全長5,430m関電トンネルのうち、分割された2号と称された長さ3,527mのトンネル工区である。 2号トンネルとは、4本のトンネル工区に分割の上、施工されたことによる呼び名であり、扇沢側より1号トンネル1,020m、2号トンネル3,527m、3号トンネル402m、4号トンネル481mとなっていた。 また、トンネルの分割地点で3カ所の工事用の横坑が掘られ、横坑は各トンネルの境目にあり104m、55m、45mであり、横坑を掘削して、本トンネルの位置に到達した後に、本トンネルを掘削する工法で掘り進められた。
全長5,430m関電トンネルとは、8月29日のブログで黒部ダム建設・資機材輸送用のトンネルとしてこの地図に掲げた黒部ダムと扇沢を結ぶ間に掘られたトンネルのことであり、現在はこのトンネル内を黒部立山アルペンルートの電気バスが運航されている。
順調に掘り進むことができていていたトンネル工事が、着工翌年の1957年5月1日に破砕帯にぶつかり、大量の出水に遭遇した。 破砕帯は、94.6mであったが、ここを掘削・突破するまで同年12月2日までの215日間を要した。 黒部の太陽が語っているのは、この破砕帯の掘削・突破に係わるトンネル工事を中心とした黒部ダムと黒部第四発電所建設工事についてである。
1-2) 2号トンネル掘削(大町側)破砕帯遭遇
2号トンネル大町・扇沢側は1956年8月6日に104mの横坑切り取りを開始し、10月13日から2号本抗掘削を開始した。 1957年4月30日に大規模な破砕帯に遭遇した。 この遭遇地点は、2号トンネル東端より1,668m(なお、トンネル反対側の黒部川・西端よりは1,589m)であり、それまでの平均掘削進度は8.34m/日であった。
関電トンネルの位置とその2号トンネルの縦断図は次の通りである。
破砕帯とは、地殻の変異(主に断層運動)に伴い岩石が機械的に破砕され、破砕,細片化し,帯状に連続分布している地質構造体である。 2号トンネルの破砕帯では4℃という低温の大量ゆう水が発生した。 この対策として2mの円形または正方形の水抜坑を掘削し、同時にボーリング地質調査と薬液注入を行った。 水抜坑の掘削合計延長499m、水抜きボーリング掘進長合計2898mとなった。 シールド工法の準備も行われた。 そして、水抜の効果と考えられるが、ゆう水量と水圧減少の兆候が現れ、10月1日から6月ぶりに本坑の掘削を開始することができ、1日掘進量80cm程度となり、水圧もほとんどなくなった。
尚、ゆう水量の最高は0.66m3(660L)/分で9月20日-28日頃に記録された。 水圧最高は42kg/cm2で、9月12日-18日頃であった。 12月2日、ついに94.6mの破砕帯を突破。 12月5日には全断面掘削に復帰した。
過去のトンネル掘削で破砕帯に遭遇して難工事となった有名なトンネル工事には1918年(大正7年)に掘削を開始し16年を要し1934年(昭和9年)に貫通した丹那トンネル工事がある。 この日本地質学会のWebによれば、最大の難所は40mの破砕帯でこの掘削に34月を要し、トンネル全体での水抜抗の総延長は14,630mとなり、本坑トンネル7,800mの2倍近くに達した。
もう一つあげると山陽新幹線の六甲トンネルであり、1968年のことであった。 工区のトンネル長さ2,500mに対して水抜抗2,950mを掘削したとのこと(参考: 神戸の自然シリーズのこのページ )。
1-3) 2号トンネル貫通
12月2日の破砕帯突破後翌年1958年2月21日に2,604m地点(西端からは923m)に到達し、2号トンネルの貫通にこぎつけた。 なお、関電2号トンネルの西から(黒部川本流側から)の掘削(迎え堀り)が、東側から掘り進んだトンネルと合体する境界は、当初の工区割においては西の黒部川本流側から795m(2号トンネル東端より2,732m)であったので、128mの応援堀を行ったこととなる。 応援堀の終了は1957年11月4日であるが、冬期間の掘削は機材はおろか食料さえ補給が困難なことから工事不可能であった。
2号トンネル扇町側は大型機械・重機を使用できたが、黒部川本流側は立山の一ノ越峠越えの輸送路であり、ほとんどを人力による輸送に依存することから、分解しての輸送を行っても使用機材には限定を受けた。 扇町側はトンネル全断面掘削を採用できたが、黒部川本流側は導坑式掘削工法による掘削で掘り進んだことから、2号トンネル断面の形状(下部の幅6.4m、天井高4.7m)への堀広げを2月22日から実施し、5月10日に完了した。
コンクリート巻立てを切り広げとほぼ同時に施工していており、1号トンネルは1956年8月20日から掘削開始し、1957年12月に切り広げも終了していたことから、1号・2号トンネルを利用して1958年5月に大町側からダムサイトまで重機や資材の搬入が可能となり、また黒部トンネルと圧力トンネルの上流側のトンネル掘削工事に着手することが可能となった。
1958年7月28日に関電3号トンネルは掘削を開始して11月13日完了し、4号トンネルは1958年8月12日開始で11月20日完了した。 関電2号トンネルを大町側から掘削し破砕帯に遭遇・突破したのは熊谷組。 黒部川側から掘削したのは間組であった。
1-4) 2号トンネル黒部本流側(西側)からの掘削
扇沢と黒部ダム間を結ぶ関電トンネルの黒部本流側(西側)からの掘削も、容易な工事ではなかった。 何故なら、1956年の建設開始当時は、立山ケーブルカーがその2年前の1954年8月に運転を開始していたが、その終点の美女平からのバスは1956年9月時点では追分までの運行であった。 すなわち、トラックによる輸送も追分までは可能であったが、追分から先は、人力に依存せざるを得なかった。 追分から掘削を開始する2号トンネル黒部本流側の赤沢横抗地点までは、17kmあり、この間を木場道を作ったり、軽便索道を仮設したりもしたが、多くを人力輸送に依存せざるを得なかった。 人力による輸送とは、歩荷(ボッカと読み、YAMA HACKの歩荷さんの写真 )です。 大きな資機材は分解して、人が担げるようにして運んだのです。 食料もダイナマイトもトンネルの坑木も全てです。
歩荷による輸送路の断面図は、次図です。
登山地図でコースタイムを見ると、追分から室堂まで3時間、室堂から一ノ越まで1時間20分で合計4時間20分。 一ノ越から先は黒部ダムまで5時間の下り坂。 黒部ダムの左岸から、当時はダム建設前なので、黒部川まで一旦降りて、再び2号トンネル赤沢横穴入り口の標高1555m付近まで登らなければならない。 追分から赤沢横穴入り口まで合計9時間50分の道のりである。
着工後、追分から室堂まで仮設道路を築造したり、東一ノ越から500mの軽便索道を敷設したり、木馬道を築造したりもした。 1957年春にはブルドーザー5台の雪上輸送もダム工事着手のために行われた。 重機用、発電用の軽油は追分からビニールパイプ20kmを用いて圧送された。 1958年5月の2号トンネル切り広げ完了・開通により大町側からの輸送が可能となり、室堂経由の立山ルートの輸送は終了した。 立山ルートの輸送合計量は、パイプ輸送の軽油515トン、歩荷670トン、ヘリコプター386トン、雪上輸送の重機187トンの合計1,758トンに登った。
2号トンネル黒部本流側の掘削は、資機材を立山ルートによる輸送となることから、大型重機が必要な全断面掘削は採用できず、4mx2.7mの導坑掘削を行い、貫通すれば大町側からの重機輸送が可能となるので6.4mx4.7mに切り広げることで工事を行った。 2号トンネル大町側は破砕帯の突破に216日間を要したのであるが、黒部本流側の工事も立山ルートの輸送が、当初計画より期間が延びた分、長期化し、大変な工事になったと言える。 2号トンネルの完成は1958年5月であった。
2) 黒部ダム・黒部第四発電所工事の全体像
関電・2号トンネルの大町側は熊谷組、黒部川側は間組であったが、黒部ダム・黒部第四発電所工事全体のゼネコンへの発注は、1956年6月に特命によりなされ、請負契約が締結された。 工事業者毎の工区割は、次の表の通りであった。
工区 |
工事業者 |
黒部ダム、関電トンネル黒部側の約3分の1、取水口と圧力トンネルの一部 |
間組 |
関電トンネル大町側の約3分の2、黒部トンネル及び圧力トンネル上流側の約3分の1 |
熊谷組 |
黒部トンネル及び圧力トンネル下流側の約3分の2、サージタンク |
佐藤工業 |
鉄管路、インクライン、発変電所、放水路 |
大成建設 |
コンクリート骨材の採取・選別・輸送 |
鹿島建設 |
関電トンネルとは1)で述べたトンネルであり、黒部トンネルとは、関電トンネルから分岐して下流に向かうインクライン迄の輸送用全長10,194mのトンネルである。 圧力トンネルはダムからの発電用水を水圧鉄管上部入り口まで送水する水トンネル10,327mである。 参考地図が次であり、黒部第四発電所工事とは、トンネル掘削工事も大きな部分を占めている。 なお、鹿島建設が担当した骨材採取場は図の右下端にある。
3) 佐藤工業のトンネル工事
次のGoogle Mapの中央に関西電力作廊谷宿舎として示されている鉄筋コンクリートの建物がある。 この宿舎の位置については、Google MapをZoom Outして確認してもよいし、地理院地図ならこの場所であり、標高1320mの地点である。 佐藤工業は、この位置から黒部トンネル下流部の掘削を開始し、更に圧力トンネル下流部とサージタンクの工事を実施した。 黒部ダム・黒部第四発電所にとって重要な地点であり、ダムの水はトンネルによりこの付近を経由して、発電所に送られるのである。 また、発電機、水車、変圧器等の発電機器も関電トンネルから、輸送用の黒部トンネルを通り、インクラインと呼ばれるケーブルカーを使って地下発電所に輸送された。 なお、作廊谷鉄筋コンクリート宿舎の完成は1957年11月であり、1956年の冬は地下宿舎での越冬であった。
工事開始当時は、作廊谷トンネル抗口(宿舎地点)まで徒歩で到達せざるを得なかったのであるが、仙人谷ダムの左岸までは、黒部第三発電所と仙人谷ダム用のメンテナンス用鉄道(軌道幅762mm)が利用できた。 この鉄道は、上部軌道と呼ばれる鉄道であり、欅平から仙人谷ダムを結ぶ。 但し、出発点の上部軌道欅平はトロッコ列車で有名な黒部峡谷鉄道の終点欅平より195m高い位置にある。 このため、欅平に立坑があり、その中に設置されたエレベーターに積み替えて運搬する方法である。 この上部軌道を延長し黒部川右岸に渡る80mの橋を架けた。 位置は、仙人谷ダムの下流側約100mにあり、橋には、黒部第四発電所放水路トンネルも併設されている。 軌道面の標高は860m。 1957年11月に完成した。 仙人谷ダムから見たGoogle Mapのストリートビューの写真は次である。
作廊谷トンネル抗口への輸送のためにはトラムウェイと呼ばれた貨物用のロープウェイ(積載量常時3ton、最大5ton)を建設した。 標高差444mを結び、1956年10月に完成した。 さらに、人員用のロープウェイを1957年6月に着工し、1957年12月完成させた。 ロープウェイの位置と地形断面は次がその参考図である。
1956年9月に黒部トンネルを導坑掘削で開始し、90m掘削後トラムウェイにより機材運搬が可能となり、12月からは全断面掘削で上流側に向けて掘り進めた。 黒部トンネル断面は幅4.4m、高さ4.5mである。 下流側佐藤工業の当初担当距離は5,857mであったが、関電トンネルが破砕帯により上流側からの掘削開始が遅れる予想となったため、1,150mの応援堀を行い、6,667mを掘削した。 全長10,710mの黒部トンネルは1959年2月8日貫通し、同年4月19日から使用開始となった。
黒部ダムと作廊谷間には、輸送用の黒部トンネルに加え、発電用水を通す全長10,327mの圧力トンネルの掘削が必要である。 圧力トンネルの断面はコンクリート巻立て後の内径4.8mの円形である。 掘削は作廊谷から1957年8月に開始し、全長10,327mの圧力トンネル掘削は1959年8月に終了した。
4) 大成建設地下発電所工事
黒部ダムの水は、ダムから10,327mの圧力トンネルを通った後、水圧鉄管につながって標高差471.5m下方にある立軸の水平に回転する水車を駆動する。 関電トンネルから分岐する輸送用の黒部トンネルは、10,710m先で発電所への輸送を担うインクラインと呼ばれるケーブルカー(貨物最大25トン)につながる。 インクラインの高低差は456mであり、地下発電所へと機器等を輸送できる。
地下発電所採用の理由には、国立公園内での森林伐採や掘削、更には建物・構造物の屋外配置を避ける環境・美観面の配慮があった。 また、同時に建設面でも地下発電所の採用による冬期間での工事実施による工期短縮が期待できる。 そして、急なV字峡谷で建屋や機器を外部に設置した場合の地盤面に対する掘削面の安全斜面角度を考えた場合の相当の量の掘削を不要とすることもできる。
水車発電機は、当初3基であるが、1基増設し、4基設置可能な発電所スペースとし変電所・開閉所も同様とした。 このためのスペースとしては発電所は幅20m、長さ117m、高さ20mの地下空間で、変電・開閉所は幅20m、高さ26.6mが一辺外側98.5mのL字配置の地下空間とした。 工事は、先ずは1956年9月に上部軌道の延長に着手し、1956年11月に延長960mの発電所横坑掘削を開始した。発電所は1957年8月から、変電・開閉所は1958年6月から掘削を開始した。 掘削は発電所が1959年5月、変電・開閉所が1959年7月に終了し、グラウチングを施工し、1960年末頃までには防水工事や左官工事を含めほぼ終了した。
水圧鉄管は、直径3.28mの円形で、その管路トンネルは幅6.1m、高さ5.55mで、長さ640m、47°20’の急傾斜である。 インクラインの勾配34°は、管路より少しは緩やかで、長さは758m。 トンネル幅5.8m、高さ7.7mである。 地下発電所と水圧鉄管やインクラインの位置関係については次図が参考である。
管路トンネルもインクライン・トンネルも急角度の斜抗トンネルであることから、横抗を掘削し、斜抗トンネルの地点から上向きに掘削する方法で掘削した。 管路トンネルは5本の横抗を掘削し、1958年6月に掘削完了、1959年6月コンクリート巻立完了。 1960年9月に水圧鉄管の据え付けを完了した。 インクライン・トンネルは管路トンネル横抗の途中から分岐して4カ所から上向掘削を実施。 1959年4月掘削完了。 同年7月コンクリート巻立完了、11月にインクラインの運転を開始した。12月には水車・発電機の運搬が始まり、1960年10月水車・発電機や変圧器の据付けを完了した。
5) ダム建設
5-1) 湛水(ダム貯水)開始まで
間組によるダム建設において、関電2号トンネル開通までの期間における資機材輸送は、立山越えの輸送ルートとヘリコプターであり、大型機材の利用はできなかった。 また、ダム工事は屋外工事となることから、冬期の工事は、コンクリートの打ち込みを含め、制限を受けざるを得なかった。
着工した1956年は地形測量、地質調査、仮設道路掘削等で終わり、約50人が御山谷地点で越冬し、1957年春の工事再開への準備をした。 1957年には立山ルートの雪上輸送を敢行し持ち込んだブルドーザー他を用いて工事用道路他の作業を実施した。 しかし、関電トンネルの開通が破砕帯工事で送れていたことから大規模な工事はできなかった。
1958年は、5月に関電2号トンネルが開通し、諸資材の搬入が可能となったことから、ケーブル・クレーンやバッチャー・プラント等工事用機器の基礎工事等に着手し、12月までには終了。 そして翌年1959年の工事用機器据付けができる状態にした。 1958年8月にはダム基礎の掘削に着手した。 仮排水トンネル2本のうちの1本は9月に完了し、本流の水を切り替えた。
1959年3月には除雪を行いながら左右両岸の掘削を開始。 5月に2号仮排水路完成。 7月には洪水にも遭遇したが、9月8日にコンクリート打ち込みを開始した。 さらに9月25日、26日には伊勢湾台風の来襲により被害もあったが、復旧を早め12月20日迄に185,000m3のコンクリートを打ち込むことができた。
1960年は3月20日からコンクリート打ち込みを開始し、ダムコンクリート工事の最盛期に入り、年内に807,000m3(累計992,000m3)の打ち込みを達成。 ダムの最終的な総コンクリート量は1,650,000m3なので、60%の累計打ち込みである。 コンクリート打ち込み面は右岸・左岸・中央等で異なるが、1960年11月19日中間湛水の目標標高1380m(ダム高さ112m)に達した。 なお、1960年10月1日から湛水を開始した。
5-2) 黒部ドーム(アーチ)ダム
次は地理院地図の黒部ダム航空写真である。
ダムを上空から見ると円弧が両端で約90°曲がった形をしている。 黒部ダムは水平面も垂直面も円弧のような曲面となっているドーム型のダムである。 ドームダムにかかる水圧・地震等の全ての荷重は、ダムが接している底部やアバットメント(ダムが取り付けられる谷の両岸の斜面部分)等の岩盤により支えられる。 地形・地質的条件がドームダム建設に適していれば、コンクリート量を少なくすることが可能であり、力学安全性も確保され、経済性にも優れているダムになる。
黒部ダム両端部で約90°曲がっているウィングダムと呼ばれる部分は、当初計画には存在せず、1957年2月に確立した基本設計案SOL.VIII(第8設計案)においても、なかったのである。 ウィングダムは1959年2月のSOL.XIIで設置が決定した。 ダムの掘削工事開始直前であった。 そのSOL.XIIは1960年11月にSOL.XIVへと修正がなされた。 SOL.XIVは1960年3月までの工事休止期間に仕上げられ、4月から未施工部分である上部3分のコンクリート打ち込みが初められた。
黒部ダムの設計を進めるにあたって、模型実験も実施された。 そのうちの一つは東京大学生産技術研究所への委託研究であり、500分の1(模型ダムの高さ37.2cm)の石膏+珪藻土模型を使っての実験であり、Sol. VIII、XI、XIIに関して1958年3月から11月まで合計11の模型を作成し、実施された。 もう一つがイタリアISMESで実施された90分の1(高さ約2m)のSOL.XIVの1/90模型実験や、最終採用となったSOL.XVIの1/100模型実験である。 実験は1961年4月に終了した。
1961年5月には、アバットメント上部の仕上げ掘削が完了し、ロックテストも順調に進み、基礎岩盤の強度についての定量的な評価も進んだ。 1961年6月SOL.XVIを採用し、左岸側のドーム上部方の切り落としを決定。 1962年5月右岸側での切り落としを決定した。
一方、1959年12月2日、フランスで421人の犠牲者が出たマルパッセ・ダム(Malpasset Dam)の崩壊事故が発生した。 マルパッセ・ダムは、崩壊した状態で現在も存在し、その位置は北緯43.51214、東経6.75676にあり、Google MapのViewで見ると、次である。
マルパッセ・ダムは1954年に完成した高さ60mのアーチダムであることから、世界銀行は融資中のアーチダムの安全性の実施をすることとした。 黒部ダムについては、37百万ドル(当時の1ドル360円換算で133億円)の融資を世界銀行から受けており、その安全性が問いかけられた。 世界銀行東京事務所のこのWebでは「岩盤強度への疑念から黒部ダムの高さを186mから150mにするよう勧告しました。」と述べている。 そして、2年間の協議を経てとあるが、世界銀行もSOL.XVI案を承認した。
6) 発電開始から竣工まで
1956年8月に着工した関電トンネルは1958年5月に利用可能となり、その先の下流に向かう黒部トンネルが1959年2月8日に貫通し、4月19日から使用可能となった。 更に、インクライン斜抗が1959年4月に掘削が完了し、7月にコンクリート巻立後、レール敷設を行い、11月にインクラインの運転が可能となった。 大町から関電トンネル-黒部トンネル-インクラインのルートで地下発電所までがつながり水車・発電機・変圧器・遮断機等の大型機器が分解すれば輸送可能となった。 水圧鉄管も、大町から関電トンネルー黒部トンネルのルートで輸送され1959年7月から据え付けが始まり、1960年9月に完了した。
地下発電所では1959年11月に先ずは天井クレーンが据え付けられ、1960年1月以降は水車・発電機・変圧器・遮断機等1・2号機の設備据え付けが順次開始され、1960年10月に完了した。一方、ダムでは1960年10月1日貯水池に湛水を開始した。 コンクリート打ち込みは、一部発電可能な目標水位1380m(ダム高さ112m)を1960年12月に達成した。
1961年1月15日貯水位1380m、最大出力154MWでの運転を開始した。 1956年8月の工事開始時点でのダムの中間湛水一部発電開始の目標時期は1959年10月末であったので、2月半の遅れでの達成であった。 関電2号トンネルの破砕帯による遅れ10月を2月半に短縮したのであった。
1961年のダム工事はダムの設計変更に伴う基礎掘削の変更や軟弱部の処理工事もあり、コンクリート打ち込みは1961年6月から12月までで250,000m3に止まった。 1962年は4月からコンクリート打ち込みを再開し、年末までに340,000m3を完了し、累計1,600,000m3に達し、左右ウィングダムの一部を残すのみとなった。 3号機水車・発電機は1961年より据え付けを開始し、1962年8月1日に運転を開始。 黒部第四発電所発電出力は234MWとなった。
本ブログ記事の執筆において、文中で引用や参考として掲げたWebアドレスやリンク先の資料以外は、関西電力株式会社 編『黒部川第四発電所工事誌』,土木学会,1966. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2510029 を参考としました。
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