2023年6月22日 (木)

ウラジオストク港利用が可能となった中国

次の様なニュースがありました。

5月29日 47NEWS 中国、極東ウラジオ港利用へ 物流でロシアと関係強化

こちらのタイトルは、衝撃的な表現です。

東洋経済 6月20日 中国がロシアの港を奪還? 極東権益を侵食中 ウラジオストク港の使用権を165年ぶりに回復

ウラジオストク港の使用権を165年ぶりに回復とは、愛琿条約が1858年5月であったので、1858年は今から165年前となる。しかし、ねえー、と思うわけです。

アムール川流域にはもともと狩猟と牧畜を営むシベリア先住民である遊牧民が住んでいた。そして、川の南側(右岸)にはさまざまなモンゴル族や満州族がいた。1689年にネルチンスク条約が清とロシアで締結され、アムール川流域は清(中国)領とすることで合意された。しかし、それ以前の17世紀頃からロシアの探検家や商人がアムール川以北の地域に入り始め、アムール川以北(西岸)で定住するロシア人もいた。

1858年の愛琿条約でウスリー川の東(右岸)は中国とロシアの共有となり、その2年後の北京条約でロシア領となった。当時の国力では、自然な結果と考える。戦争があって、決まった国境ではない。清(中国)にすれば、国力の差により認めざるを得なかった国境を確定する条約ではあったが、川口や海岸を調査し、ウラジオストクが天然の良港であることを発見したのはロシアであった。

今回の中国のウラジオストク港利用権取得は中国のウクライナ戦争でのロシアに対する支持の結果との見方があるが、逆に何故今まで利用できなかったのだろうかと思う。ウラジオストク港は軍港であったため、1992年までは外国船はおろか外国人も立ち入り禁止であった。だから、シベリア抑留者の帰還もナホトカ港からであった。

このブログ日露戦争 その5 中国・ロシアの関連で思ったことです。

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2023年6月12日 (月)

日露戦争 その5 中国・ロシア

中国とロシアは日本の隣国であり、どの国も単独で存在しているのではなく、常に隣国からの影響を受け、歴史がつくられている。1904年-5年に戦われた日露戦争について考える場合、中国(清王朝)の19世紀における政治的混乱や衰退、そして同時期のロシア(ロマノフ王朝)の興隆を考える必要があると考える。

1) 1600年-1900年頃の日本、中国、ロシアの人口

1600年から1900年頃の中国、日本、ロシアの人口を書き出したのが、次の表である。中国(清)は当時も人口世界最大の国であり、1600年-1900年頃は世界人口の25%-35%が中国に住んでいた。ロシア(ロマノフ王朝)も急速に人口が増大している国であり、1700年頃は日本と人口はほぼ同じであったが、1800年頃は日本の倍近くで、1900年頃には1億2千万人と日本の3倍近くになっていた。日本も江戸時代に入ってからは人口の増加は大きかった。

Population16001900

2) 清王朝とロマノフ王朝

清朝とロマノフ朝の歴代皇帝を書き出したのが次の表である。

Chinarussiaemperers1719c

2-1) 清王朝

清朝の初代皇帝とされるヌルハチは、中国東北地方で挙兵、1598年建州女真を統一し、さらに北方地方の全域を統一することに成功して、1616年にアイシン(満州語で金を意味する)と号する国をたてた。

1626年にヌルハチが没すると、その第8子ホンタイジ(1592〜1643)が、ハンの位についた。明軍と交戦したが、破ることができず、モンゴル高原を迂回して明を攻撃する計画をたてた。1635年内モンゴルのチャハル部を平定した際、元朝の皇室に伝わったという玉璽(ぎょくじ)を手に入れ、1636年、満州人・漢人・モンゴル人の皇帝の位につき、国号を清に改めた。

1644年、明 が李自成の乱によって滅ぼされると、明の武将呉三桂が清に投降し、万里の長城の東端の山海関の門を開き、清軍を導き入れた。山海関を突破した清軍は、呉三桂らと共に北京を占領し、清は都を北京に遷して、華北支配に着手した。ホンタイジは紫禁城入城直前に崩じ、息子の順治帝が急遽帝位についた。即位時の年齢は5歳であった。

ホンタイジは副官ドルゴンを主席摂政親王に指名し、順治皇帝が政権の親政ができるまで叔父のジルガランとともに清帝国を2重臣総理大臣による集団指導体制にさせた。ドルゴンは呉三桂などの漢人を登用して明の残存勢力を討ち、中国の統一支配を進める一方、明の機構を継承して漢民族との融和を図った。ドルゴンが死んだ後、順治帝も同様な姿勢をとった。

第4代皇帝となった康煕帝(1661~1722)は、1673年からの三藩の乱で呉三桂ら藩王の勢力の削減に乗りだし、1681年に鎮圧に成功し、漢人武将の勢力を抑え、さらに1683年には鄭氏台湾を平定し、はじめて台湾を中国本土の王朝の支配下に入れ、清の全国的な統一支配を達成した。

清の全盛は、康熙帝・雍正帝・乾隆帝と続いた時代であったが、18世紀後半になると、各地で抗租・抗糧と呼ばれる経済闘争、白蓮教と総称される秘密宗教結社の反乱が続発し、戦乱による荒廃と反乱平定に要した巨額の出により、国力は消耗した。

2-2) ロマノフ王朝

ロシアでロマノフ王朝が成立したのは1613年。ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフがに初代ツァーリ(皇帝)となった時である。1584年にモスクワ大公国のイヴァン4世(雷帝)が死去し、政治の混乱・動乱の時代となり、フョードル・ニキーチチ・ロマノフが次第に勢力を拡大していき、その息子ミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが即位して、ロマノフ朝が始まった。17世紀末に即位したピョートル1世は、ロシアの近代化を進めた。1700年に始まったスウェーデンとの北方戦争は20年以上続いたが、1721年にロシアは勝利し、バルト海東岸に進出した。この間、1712年に新都をペテルブルクに建設し、首都を移した。ロシアは東欧の強国となり、ヨーロッパ国際政治の舞台への台頭となった。

エカチェリーナ2世の時代の1768年には、ロシア=トルコ戦争(第1次)を開始し、1774年にモンゴル人の国であったクリム・ハン国の保護権を獲得し、1783年には併合した。1787年にはロシア=トルコ戦争(第2次)を再開しオスマン帝国と戦い、クリミア併合を承認させた。1801年アレクサンドル1世が即位。この時期、フランスでは、ナポレオンが1799年に総裁政府から実権を奪い第一統領となり、1804年には皇帝ナポレオン1世となった。 1812年ナポレオン軍は、モスクワ遠征を行いモスクワに進軍したが、大きな犠牲を出し、ロシアが勝利した。

アレクサンドル1世の急逝により1825年ニコライ1世は皇帝となった。オスマン帝国の弱体化に乗じ、黒海から地中海・中近東方面への南下政策を強めていくロシアであったが、イギリスとフランスはそれに対して警戒を強めていた。1853年ロシアとオスマン帝国が開戦し、英・仏の連合軍がオスマン帝国を支援し、1854年3月に両国はロシアに宣戦。9月連合軍はクリミア半島に上陸し、ロシア要塞セバストーポリを攻囲し、1855年9月セヴァストーポリは陥落してロシアの敗北となった。翌1856年このクリミア戦争終結のパリ講和会議で、オスマン帝国の領土保全、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡軍艦通過のオスマン帝国限定、黒海の非武装化、ドナウ川の自由航行等が盛り込まれたパリ条約が締結された。

ニコライ1世は戦争中の1855年に死去し、アレクサンドル2世が即位し、軍隊の近代化等に努めるようになり、農奴制の解体にも着手した。

1875年ボスニア=ヘルツェゴヴィナでギリシア正教会徒が反乱をおこし、ブルガリアにも飛び火し、オスマン帝国は軍隊の力で鎮圧に向かい、ロシアはパン・スラヴ主義(Pan-Slavism)を掲げ、ギリシア正教会徒保護の名目でオスマン帝国と開戦した(露土戦争 1877〜78)。ロシアはイスタンブルに肉薄し、オスマン帝国はイギリスに支援要請し、イギリスとの戦争の可能性が発生した。1878年ロシアは急遽オスマン帝国とサン・ステファノ条約を結び、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化等を決めた。

ロシアの東地中海・西アジアへの進出を恐れるイギリスと、バルカン半島へのロシアの進出を警戒するオーストリア=ハンガリー帝国が強く反対し、ドイツ帝国の宰相ビスマルクがこの危機の調停に乗り出した。 ロシア帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、イギリス、オスマン帝国、ドイツ、フランス、イタリアの六カ国代表をベルリンに招集し、ビスマルクが議長を務めた。その結果、同年8月のベルリン条約で、サン=ステファノ条約は修正され、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの三国のオスマン帝国からの独立承認、ブルガリアは領土を3分の1に縮小の上オスマン帝国を宗主国とする自治国、ロシアが獲得した領地は縮小されベッサラビア(ほぼ現在のモルドバ)のみとなり、オーストリアはオスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治権、イギリスはオスマン帝国からキプロス島の統治権等が決められた。ロシアの地中海への進出は押さえられた。

3) ネルチンスク条約 (1689年)

ロシアは16世紀のイェルマークによる遠征を契機とし、東方シベリアの開発を実行中であった。オホーツクへの進出は1649年であり、ネルチンスクには1653年に砦建設を始めていた(参考 )。清では1662年に第4代康煕帝が即位。清が領土最大となる黄金期が始まった。ロシアではピョートル1世が1682年に即位。両国は、アムール川(黒龍江)沿いで衝突することとなった。その結果、1689年に中露間の和親条約に相当するネルチンスク条約(Treaty of Nerchinsk)が締結され、両国の国境が定められた。ネルチンスクは、ロシア領とし、アムール川流域地区は中国(清)とすることで合意された。同時に、ロシア・中国(清)間の陸路を経由しての交易がとり決められた。

ネルチンスク条約による中露国境は下の地図の紫線です。

Russiachina

4) 愛琿条約 (1858年)

愛琿(アイグン)条約による中露国境は前掲の地図の茶色線であり、アムール川の左岸(上流から見ての左側)側をロシアとし右岸側は中国とするが、ウスリー川が合流する地点(ハバロフスク)から下流のアムール川とウスリー川に囲まれた領域(前掲の地図でハバロフスクとウラジオストクを結ぶ青線の東側)は共有と取り決めた。

1853年にロシアとオスマン帝国が開戦し、英・仏の連合軍が加わりクリミア戦争となった。開戦前より、アムール川(黒龍江)の通行の可能性は、ロシアにとって大きな関心事であった。1851年ネヴェルスキー大尉の遠征隊が派遣され、サハリン、オホーツク海、タルタル海峡の探検が実施され アムール川の航行可能性も証明された。アムール川の河口には、ロシア最初の入植地と軍事拠点が設置された。クリミア戦争では、太平洋と中国の北方へのアプローチを強化するため、アムール川のロシア船の航行を確保し、軍事基地を設置した。クリミア戦争は、1856年パリ条約が締結されロシアは戦争に敗れたが、アムール川地域は条約の対象外であった。

当時の弱体化していた中国に対して、ロシアはすべての沿海州を承認するよう要求した。6日間の交渉の末、3つの条項からなる条約が愛琿(アイグン)で調印された。愛琿(アイグン)条約は、ロシアはアルグン川から河口までのアムール川左岸を領有し、アムール川右岸からウスリー川までは中国であるとされた。ウスリー川と海との間の地域は「両国の境界が確定するまでは」ロシアと中国の共有とされた。また、アムール川、スンガリ川、ウスリー川の航行は、ロシアと中国の船舶のみとされた。

当時の中国(清)は、1840年にアヘン戦争があり、その結果1842年に南京条約が結ばれた。1851年に太平天国の乱が始まり、同時進行で、清朝とイギリス・フランスとのアロー戦争があった。アロー戦争は、1856年に英国がアロー号が英船籍だと難癖を付けて 非難し、その2年前に広西省でフランス人宣教師の殺害事件が起きていたことから、フランスもイギリスと共同で清朝に宣戦を布告。本格的な戦闘は57年末からはじまり、英仏連合軍が海路北上し天津に迫ると、清朝は降伏し、1858年4月に天津条約が結ばれた。愛琿条約は約1月後の5月28日に調印された。

しかし、清朝内部の条約批准反対派の声に押され、イギリス・フランスの使節の北京入りを清朝政府は拒否した。結果、清に圧力をかけるためのイギリス艦隊による天津外港の大沽で示威行動を起こし、反発した清側が発砲し、戦闘が再開された。1859年に、英仏の使節団が、批准書交換のためにやってきたが、清朝は内部で意思統一ができておらず、使節団に対してのの混乱を収拾できない清朝側は、天津の近くで使節団を砲撃して追い払ってしまう。

翌60年には、再び英仏連合軍が北上し、北京に向けて進撃し、皇帝(咸豊帝)は、北方の熱河の離宮に逃亡し、北京に残された政府が連合軍と北京条約を結び清朝は、再び降伏した。報復と称して北京に侵入したイギリス・フランス連合軍は、円明園を破壊するなどの暴行を加え、略奪を行った。恐れた清朝皇帝咸豊帝は熱河に逃亡してしまったので、北京に残った軍機処の役人との間で交渉が行われ、1860年10月に天津条約の批准書交換が実行された。さらに英仏両国は天津条約に加え、より有利な北京条約を締結することに成功。北京条約では、天津や南京など11港を新たに開港すること、キリスト教の布教の自由、外国人の中国国内の旅行の自由等が合意され、商人はどこにでも行けるようになりった。

5) 北京条約

清が英ならびに仏と1860年10月24日に締結したのが4)の北京条約であり、その翌月11月24日にロシアは清と北京で条約を締結し、この条約も北京条約と呼ばれている。

北京条約は、愛琿条約で中露共同管理としたウスリー川の右岸・東の地域をロシア領とした。サハリンの西部と北海道の西部に位置し太平洋に面するシベリア沿海州がロシア領となった。中国・朝鮮との太平洋・日本海に面する沿岸での国境はTume River(豆満江)と定めた。Tume River(豆満江)の川口から直線で北東130kmに位置するのがウラジオストクである。

ロシアは、北京条約によりウラジオストクという不凍港を入手したのである。ウラジオストク港は、下の地図で示したように湾の中で南につきだした全長約40kmの半島にあり、この半島の中に湾があり、主としてこの湾が港として利用されている。このような地形であることから、ウラジオストク港には流れ込む川がなく、凍らない。すなわち、真水は0度で表面から氷結が始まるが、海水は簡単には氷結しない。ここ に北海道・オホーツク海の海氷分布の図があるが、ウラジオストクは北緯43度であり札幌とほぼ同じです。日本からウラジオストク港行きのフェリーも、冬期欠航とならず、年中運行されていた。(なお、今現在フェリーは、運休中と思う。)

Vladivostok

ロシアは、愛琿条約でアムール川の左岸地域を確保し、その2年後の北京条約でウラジオストクを含むシベリア極東地域を取得し、この国境線が現在の中露間の国境線とほぼ同じである。日露戦争 その4 日露関係の幕開けで大黒屋光太夫のエカテリナ2世との謁見そしてアダム・ラクスマンと帰国したことを書いた。この帰国の際の港はオホーツクであった。1792年当時は、オホーツクがロシアの太平洋岸で利用する主要港であった。1853年にプチャーチンは最初長崎に来航するが、この時はバルト海を出発してきた。1854年11月22日に下田へディアナ号で到着するが、来訪前はアムール川河口での防禦施設構築の指揮等にも携わっていた。1955年日露通好条約(下田条約)調印後、失われたディアナ号に代わるヘダ(戸田)号で帰国した際は、アムール川河口のニコライエフより帰国した。

6) ロシアの太平洋進出

ロシアは、愛琿条約・北京条約でサハリンから朝鮮国までの太平洋沿岸を手に入れた。そこには、内部統一が取れておらず外国に対する力が弱っていた中国・清政府の存在があった。アヘン戦争を契機に中国・清に手を伸ばし、利益を獲得しようとしていた国はイギリスのみならず。フランスもドイツも米国も画策・行動し、チャンスあらばと狙っていた。この外国勢力にロシアが加わるのは、当然であり、明治維新後には日本も加わった。

ロシアの太平洋進出を考える時に考慮すべきこととして、ヨーロッパや地中海方面のことも考える必要がある。2-2)に書いたように、20年以上続いたスウェーデンとの北方戦争にロシアは勝利し、1712年に首都をサンクトペテルブルクに移し、バルト海東岸に進出した。サンクトペテルブルクは、ネヴァ川の河口であり、冬期は凍結することがあり、今でも港湾機能維持のための砕氷船が存在する。日露戦争でのバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)もリバウ港(現ラトヴィア領リエパヤ)から出航してきたのである。

ロシアが海洋に面するヨーロッパでのもう一つの海は、黒海である。黒海は、エーゲ海から地中海につながるが、黒海とエーゲ海の間にボスポラス海峡、ダーダルネス海峡とその間にマルマラ海がある。これらの両岸はトルコ領であり、海峡の長さと最狭部の幅はボスポラス海峡31km、700mで、ダーダルネス海峡61km、1200mである。海峡通過については、トルコ政府が大きな影響力を保有しているのであり、戦争の結果による力関係で取りきめが変更されたり、戦時には海峡通過規則等の運用が変わったりとなる。今も、ウクライナ戦争で扱いは注目を集める。1768年のロシア=トルコ戦争でロシアは勝利した。しかし、ロシアが敗れた1853年-56年のクリミア戦争では、英・仏がトルコ側についたことがあるが、その背景にはロシアを地中海には進出させないとする意図があった。

Balcksea33c

1870年代から1880年代初頭にかけて、イギリス、フランス、ドイツなどのヨーロッパ諸国は、成長する工業部門のための天然資源と、これらの工場が生産する商品の潜在的な市場を求めてアフリカに目を向け始めた。これらの国々はアフリカにおける自国の経済的利益を守るため、斥候を派遣し、先住民やその代理人とされる人々から条約を取りつけるようになった。1884年から1885年にかけてベルリン会議が開催され、イギリス、フランス、ドイツ、ポルトガル、ベルギーは、アフリカの領有権について交渉し、正式な地図が作成され、また、植民地間の自由貿易を認め、将来のアフリカにおける領有権交渉のための枠組みを確立することにも合意した。ヨーロッパによるアフリカの植民地化のプロセスを正当化・形式化した。

参考まで、アフリカの植民地化の状況は このアフリカの地図が参考になると思う。ベルリン会議にはロシアも参加していた。しかし、アフリカ進出は他の参加国から認められることはなかった。

18世紀・19世紀のロシアはアムール川方面を含むシベリア開発の促進と拡大、そして太平洋への進出であった。世界の大国は、経済的利益・自国の繁栄を求めて影響力を及ぼせる範囲を拡大していった。

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2022年12月31日 (土)

日露戦争 背景その3 ロシア

日露戦争は、当時の記録には明治37・38年戦争と書かれていることは多い。明治になって、さほど経過していない時期の戦争であるとも言えるし、明治新政府が成熟し、世界へ羽ばたく段階に達した時期の戦争であるとも言える。日露戦争を考えるにあたり、ある程度は歴史を遡って、考えてたみるこが必要と思う。

1) ロシアの歴史(キエフ公国)

9世紀の中ごろ、ノルマン系のルーシ(Rus' )と言われた人々が、バルト海沿岸から内陸に向かい、スラヴ人の居住地域に入っていった。ルーシの国であるノヴゴロド国(Novgorod)が862年に建設された。ノヴゴロドはセントペテルブルグから南約170kmのロシア国内に位置し、街とその周辺は、現在UNESCO世界遺産になっている。

ノヴゴロド国の長(大公)となったオレーグ(Oleg)は、ドニエプル川を越え、スモレンスクとキーウを882年に支配下に置いた。これが、キエフ公国(Kievan Rus)として発展し、領土を拡大していった。907年には東ローマ帝国(Byzantine Empire)の首都コンスタンチノープル(Constantinople)に攻め入ったこともある。オレーグの死後、妻オルガ(Olga)がキエフ公国大公となり、954年コンスタンチノープルに出向き、洗礼を受け、ギリシャ正教会信者となり、教会から大公の地位を認められた。978年にウラディミル(Vladimir)が大公となり、988年にギリシア正教を国教とし、国民に信仰・洗礼を義務化し、中世国家として繁栄した。ウクライナのキーウにある聖ソフィア大聖堂も、この時代の1037年に建立されている。しかし、1054年からは、王位をめぐる王家の子弟の争いが始まり、王子たちの間で争いが起こり、やがて内戦も発生した。地方分権・封建制・地主による農民の農奴化・貧困等様々な問題も拡大しキエフ公国の衰退が始まった。

2) ロシアの歴史(モンゴル帝国・タタールのくびき)

キエフ・ルーシ諸侯国から東方は、遊牧民の地域であった。匈奴は、その代表的勢力であったと言え、紀元前33世紀には、匈奴・遊牧民に対する北方防衛を容易とするため秦の始皇帝は万里の長城を建設した。12世紀の中ごろモンゴル高原の各地には多くのモンゴル系、トルコ系の氏族・部族が割拠していた。モンゴル民族の一氏族であるテムジンは1189年ごろモンゴル諸氏族を統一してその盟主に推され、チンギス・ハンの称号を贈られた。

彼は、隣接するタタール他諸部族を服属させ、西方のアルタイ方面のナイマン部族も滅ぼしてモンゴル高原を統一し、支配地域を拡大した。チンギス・ハンは、西方遠征から凱旋後、その領土のうち、遊牧地域は、そこに遊牧する民衆とともにこれを諸子、諸弟に与えた。モンゴル本土は、これを自分の領土として末子のトゥルイに、北西モンゴル高原を第3子オゴタイ(オゴタイ・ハン国)に、中央アジアを第2子チャガタイ(チャガタイ・ハン国)に、南ロシアのキプチャク草原は、将来これを長子のジュチの領土(キプチャク・ハン国)とすることにした。チンギス・ハンは1227年に死亡。

1236年、三男オゴタイ・ハンの命を受けてバトゥはヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、出征した。1237年秋、ルーシ方面に侵攻。1238年2月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガーリチ公ダニールらの帰順を受けた。翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行った。1240年初春にはルーシ南部に侵攻し、キエフ大公国を包囲して同地を攻略・破壊した。当時キエフは大公位を巡ってルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。キプチャク・ハン国は、西方遠征で拡大され、南ロシア一帯まで支配を拡大した。14世紀前半、全盛期となったが同時にイスラーム化が進み、領域内のトルコ系民族が次々と自立した。ロシアも1480年に「タタールのくびき」から脱し、キプチャク・ハン国は1502年に滅亡した。

3) ロシアの歴史(モスクワ大公国)

キエフ公国がモンゴルに滅ぼされてから、ルーシはいくつかの地方政権にわかれ、それぞれキプチャク・ハン国に貢納してその間接的支配を受けることとなった。その地方政権の中で、次第に有力となったのがモスクワ公国であった。1283年、ダニールがモスクワ公となってモスクワを本拠にして次第に領土を拡大させていった。キプチャク・ハン国に対しては臣従の姿勢をしめしてその徴税を請け負い、14世紀前半のイヴァン1世はキプチャク・ハン国の助力を得て、宿敵トベーリを圧倒し、モスクワを北東ロシア最強の国とした。14世紀後半ドミトリー・ドンスコイ公はキプチャク・ハン国の支配に反旗を翻し、一時ロシアを独立させた。15世紀に入ると内乱に悩まされたが、イワン3世(大帝)の治世には、キプチャク・ハン国からの最終的独立が達成され、大公権が強化され、東ロシアのほとんどがモスクワの支配に服した。大公国の発展は、16世紀中頃イワン4世(イワン雷帝)治世に成立するモスクワ帝国によって継承された。カザン・ハン国、アストラハン・ハン国を併合し、さらにボリス・ゴドゥノフに命じ、コサック(騎馬隊)のイェルマークに、西シベリアのシビル・ハン国を制圧させた。農民の移動を禁止し、農奴制を強化したが、度重なる戦乱で財政は疲弊、重税に苦しむ農民逃亡者も多数発生した。

4) ロシアの歴史(ロマノフ朝)

1584年にイヴァン4世が死去すると、貴族間の抗争が続いて混乱し動乱の時代となった。ポーランドの介入もあってモスクワは危機に陥ったが貴族連合がポーランド勢を撃退して、新たにミハイル・ロマノフをツァーリに選出し、ロマノフ朝が始まった。

1613年に成立したロマノフ朝は、モスクワ大公国の貴族層が、その共同の利害を代表するものとして16歳のミハイル・ロマノフが皇帝に選出されて始まり、当初は貴族の共同統治という面が強かったが、1670年に農民反乱ステンカ・ラージンの反乱を鎮圧して、農奴制の強化に成功した。また徐々に西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制の国から官僚制・常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌していった。

1712年には、西欧諸国に互していくためにバルト海に進出する必要があると考え、バルト海沿岸に面した新都のペテルブルクを建設し、遷都した。東方ではシベリア進出を推し進め、1689年に清の康煕帝との間でネルチンスク条約を締結してた。またベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ロシアの東方進出の足がかりを作った。南方ではオスマン帝国からアゾフを獲得し、黒海方面への突破口としいわゆる南下政策を開始した。このピョートル大帝の時が実質的なロシアの出発点であり、後のロシア帝国の繁栄、それを領土的には継承したソ連邦、そして現在のロシア連邦のもととなったといえる。「ルーシ」に代わって「ロシア」が正式な国号となるのもこの頃である。

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2022年10月20日 (木)

条約から見た幕末史

日露戦争に関しての前回のブログ の「背景その2 朝鮮半島」の中で、日米和親条約、日米修好通商条約他1854年(安政元年)から1876年(明治9年)の間に日本が締結した22の条約を列記した。 この22の条約の中で、次の5つの条約が安政5か国条約と呼ばれ、不平等条約と言われることが多い。本当にそうであるのか、条約文を読んで、考えてみたい。

1) 安政5か国条約

安政5か国条約と呼ばれるのは、次の5条約である。

米国 1858年7月29日 日本国米利堅合衆国修好通商条約
ロシア 1858年8月7日 日本国露西亜国修好通商条約
オランダ 1858年8月18日 日本和蘭修好通商条約
大英帝国 1858年8月26日 日本国大不列顛国修好通商条約
フランス 1858年10月9日 日本国仏蘭西国修好通商条約

安政5か国条約は全て1858年である。ペリーがフィルモア大統領(Millard Fillmore)の国書を持参して浦賀へ来航したのが、この5年前の1953年である。翌年1954年1月にペリーは再来航し、3月に日米和親条約(神奈川条約)の締結となった。しかし、大統領国書にあった友好、石炭と必需品の供給、遭難者の保護は、日米和親条約で取り決められたが、貿易については触れられていなかった。貿易に関する条約締結には修好通商条約(安政5か国条約)まで、更に4年を要したのである。

2) 日米和親条約締結・日米修好通商条約への道のり

1840年・41年の英・中国(清)間のアヘン戦争、そしてその結果としての1942年の南京条約が、一番大きな理由と考える。17世紀末から清ではアヘンは禁止となっていたが、英国商人や清の密輸販売組織は無視する中、アヘン・ビジネスは拡大し、中毒患者の拡大を始め社会的問題も発生することとなっていった。清政府にるアヘン押収と言う対策に対して、英国は海軍を派遣し対立は大きくなっていった。そして、武力衝突・戦争となった。結果は、清の敗北であり、1842年8月南京条約が締結された。

1842年南京条約の結果、清は、アヘンの賠償金600万ドルを含め合計2100万ドル(銀貨600万枚)の支払、香港島の割譲、広州・福州・厦門・寧波・上海の5港開港、5%一律の関税率適用等に合意することとなった。なお、アヘン禁止条項は南京条約には記載されず、盛り込まれなかった。南京条約の後は、これに次いで、清・米間で1844年に望厦条約、清・仏間で1844年に黄埔条約の締結となった。

ペリー来航の9年前1844年、日本には、オランダ国王ウィレム2世から徳川将軍あての国書を持参した特使コープスが来航した。内容は、日本がこのまま鎖国を続ければ西欧諸国と摩擦が生じ、アヘン戦争で惨敗した清国のようになる恐れがあるとの開国の勧告であった。長崎出島のオランダ商館長からの情報「阿片招禍録」、中国人魏源の「海国図志」等によっても情報は徳川幕府中枢には届いていた。1853年ペリー来航、1854年3月に日米和親条約(神奈川条約)の締結となった。

1956年9月に初代駐日米国総領事ハリスが着任した。ハリス総領事は、国際情勢の変化や貿易による日本の利益についての説明・説得を行い、1858年7月29日江戸湾の合衆国軍艦ポーハタン号上での日米修好通商条約締結となった。

3) 日米修好通商条約での領事裁判権

条約で、どのように定めたかを調べてみる。なお、日米修好通商条約の条約文は、明治7年と明治17年に条約類纂が外務省により発行されており、これら条約類纂から引用する。なお、本記事における条約文は全て条約類纂からの引用である。

F

第6条が領事裁判権に関する条文であり、英文では次の通りである。

Americans, committing offenses against Japanese, shall be tried in American consular courts, and when found guilty shall be punished according to American law.
Japanese, committing offenses against Americans, shall be tried by the Japanese authorities, and punished according to Japanese law.
The consular courts shall be open to Japanese creditors, to enable them, to recover their just claims against American citizens, and the Japanese courts shall in like manner be open, to American citizens for the recovery of their just claims against Japanese.
All claims for forfeitures or penalties for violations of this treaty or of the articles, regulating trade, which are appended hereunto, shall be sued for in the consular courts, and all recoveries shall be delivered to the Japanese authorities.
Neither the Americans or Japanese governments are to be held responsible for the payment of any debts, contracted by their respective citizens or subjects.

米国人は法令違反があっても米国領事館に裁判権がある。変かも知れないが、開国後においても相手国の法や裁判制度を理解できない状態では、相手国官警の逮捕権・裁判権等を認め、居住・活動する自国民が相手国の法制度により処罰されることを受入れることは困難と考える。日米和親条約で、下田・函館に加え、神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の4港を開港(第3条)し、第7条では通行の自由を定めたが、10里以内の範囲としたり、神奈川では六郷川筋より江戸方面の立ち入り禁止や京都10里以内立ち入り禁止を定めた。なお、通商目的での江戸または大坂での居住は、それぞれ1862年1月と1863年1月以降は可能とした。但し、日米とも外交官や領事の公務目的の旅行・滞在は双方とも自由とした。

一方、日本人が米国人に対して法を犯した場合については、日本の役人が日本の法度により罰するとした。また、重大な罪(felony・重立たる悪事)を犯した場合は、行動範囲を1里以内とし、日本の奉行所は国外退去を命じることができるとした。

当時の貿易とは、国際郵便・電報もなく、貿易商が相手国に駐在し、持ち込んだ商品を相手国で販売する方法であったと考える。この場合、相手国の輸入通関した港の近くに商館を設けビジネスをする方法であり、相手国に駐在する必要がある。身の安全が保証されていないとビジネスを安心してできない。

領事裁判権が永遠に続くわけではないと考えるし、特別規定はいずれ消滅するはずである。日米地位協定に於いては「合衆国の軍当局が、合衆国軍隊の構成員又は軍属に対して、公務執行中の作為又は不作為から生ずる罪については、 裁判権を行使する第一次の権利を有する。」としている。

日米修好通商条約の領事裁判権について、日本側が受け入れなかった場合は、条約の締結は困難を伴ったと思う。

4) 興味ある条文

4-1) 大麻輸入禁止

第4条の中で、大麻の輸入禁止は定められた。

 The importation of opium is prohibited, and any American vessel coming to Japan, for the purposes of trade, having more than (3) three catties [三斤](four pounds avoirdupois){1.8kgに相当する}weight of opium on board, such surplus quantity shall be seized and destroyed by the Japanese authorities.

4-2) 金貨・銀貨は重量を基準とする

第5条では、金貨・銀貨は同種・同重量での交換と規定し、輸出は可能とした。貿易のための通貨となった。なお、金銀の交換割合については、この条約では取り決めなし。

 All foreign coin shall be current in Japan, and pass for its corresponding weight of Japanese coin of the same description.
Americans and Japanese may freely use foreign coins in making payments to each other.
-----
Coins of all descriptions (with the exception of Japanese copper coin) may be exported from Japan, and foreign gold and silver uncoined.

4-3) 信仰・宗教の自由

第8条では信仰・宗教の自由についても記載された。

 Americans in Japan shall be allowed the free exercise of their religion, and for this purpose shall have the right, to erect suitable places of worship. No injury shall be done to such buildings, nor any insult be offered to the religious worship of the Americans.
American citizens shall not injure any Japanese temple or mia, or offer any insult or injury to Japanese religious ceremonies, or to the objects of their worship.
The Americans and Japanese shall not do anything, that may be calculated to excite religious animosity. The government of Japan has already abolished the practice of trampling on religious emblems.

この第8条を読むと、当時の幕府のトップの人達は宗教の自由という概念の重要性に気づいていたように感じる。踏み絵のことを英語で”trampling on religious emblems ”と呼ぶのは、初めて知りました。

4-4) 軍艦・大砲・武器類の購入権

次の条文が第10条である。

 The Japanese government may purchase or construct in the United States, ships of war, steamers, merchant ships, cannon, munitions of war, and arms of all kinds, and any other things it may require. It shall have the right to engage in the United States, scientific, naval and military men, artisans of all kinds, and mariners to enter into its service. All purchases made for the government of Japan, may be exported from the United States, and all persons engaged for its service may freely depart from the United States, Provided.- That no articles that are contraband of war shall be exported, nor any persons engaged to act in a naval or military capacity, while Japan shall be at war with any power in amity with the United States.

日本政府は、米国において軍艦、蒸気船、商船、大砲や武器類の建造、購入を可能とし、技師・軍人・職工の雇用と出国は可能であるとした。幕府は、米国の軍艦、大砲、ライフル、砲弾等を購入することができるようになった。

また、第3条においても武器取引は幕府にのみ販売可能とした。和文の条約文では「軍用の諸物は日本役所の外へ売るへからず」となっている。国内における食糧供給は優先事項と考えたからと思うが米と麦の輸出禁止も盛り込んでいる。

 Munitions of war shall only be sold to the Japanese government and foreigners.
No rice or wheat shall be exported from Japan as cargo, but all Americans resident in Japan, and ships for their crews and passengers, shall be furnished with sufficient supplies of the same.

5) 関税

日米修好通商条約第4条に、関税は日本への輸入品ならびに日本からの輸出品に課され、日本政府へ納付され、その関税率は附属関税率表によるとある。

 Duties shall be paid to the government of Japan, on all goods landed in the country, and on all articles of Japanese production, that are exported as cargo, according to the tariff hereunto appended.

輸入関税については、品目を4種類に分けている。

(1) 免税: 金貨・銀貨、地金、居留者の衣服、家具、書籍、その他居住必要品
(2)  5%: 船舶建造・修理用品、捕鯨用品、塩蔵食料、パン、鳥獣類、石炭、木材、米、トタン、鉛、錫、生絹、蒸気機械
(3)  35%: 酒類
(4) 20%: (1)から(3)に含まれないその他の品目

日本からの輸出品は5%とする。但し、金貨・銀貨、地金は適用外。

貿易協定は現代でも存在するし、世界全体、地域、国の発展に寄与するものであり、合理的な地球規模での発展に貿易協定は欠かせない。また、その範囲は物品のみならず、サービスは勿論IT分野においても重要である。日米貿易協定において日本は牛肉・豚肉の関税削減を約束したり、米国が機械類の関税削減に約束したりしている。修好通商条約は、貿易協定であり、貿易協定の中で関税率について取り決めをすることについて、関税自主権の放棄と言うには、やはり言いすぎであると考える。ある国に貿易協定を結び、特恵関税を認めることもある。

輸出についても関税5%を規定しているが、貿易商が米国商人または商社であり、輸出も彼らが日本人から買い付け輸出するのであるから、幕府が輸出関税を課しても良いように思うし、さもなければ輸出入に関する正確な統計の把握さえ困難であったと思う。開港する港を限定し、貿易商の居留地を限定し、必要な申告させる。外国貿易を始めるにあたり、立派な条約を締結したことと感心してしまう。

6) 1866年改税約書

1866年6月25日に改税約書(英文名:Tariff Convention)が日本と英・仏・米・蘭の4カ国との間で調印された。この改税約書の合意こそ不平等な条件で幕府は締結させられたと言える。

6-1) 改税約書の関税率

関税率表は品目を第1種から第4種までに分類している。

第1種は重量や長さ等により一文銀で関税を幾らと規定し、品目の計量単位を基準に関税額を定めている。輸入関税の場合、例えば、白砂糖は第1種の品目であり100斤(60kg)あたり銀貨0.75分(11.25匁=42.19グラム)と言った様な表である。第2種は、免税品であり、安政5カ国条約では、通貨として使用する金・銀と外国人の日本滞在用持ち込み品に限られていたが、改税条約では免税品目が増加し、多くの物品が免税品となっており、その中には、食用、家畜用の獣類、石炭、米麦等穀類及び穀物粉、塩等が含まれ、関税ゼロとなっている。第3種は禁製品であり、アヘンのみが記載されている。第4種は5%の関税率対象であり、大部分が第4種になると思われる。なお、酒類が第4種に含まれており、安政5カ国条約での35%から5%になり、他の大部分の品も20%から5%になってしまったのである。

輸出関税も第1種から第4種まであり、例えば、干しエビは100斤あたり銀貨1.8分(12匁=45グラム)、絹生糸は100斤あたり銀貨75分となっている。第2種の免税品は金・銀・銅。第3種の輸出禁制品は米・麦・硝石である。第4種はその他の品目であり、5%の輸出関税となっている。

安政5カ国条約と改税約書の関税率を比較すると、分類の差もあり、計量単位基準もあるので、比較は容易ではない。しかし、第4種のその他のカテゴリーで20%の税率が5%に下がっており、概ね、関税率は4分の1に下がったと言えるのではと思う。国内産業の保護や政府財政収入の面では、低すぎる輸入関税率は好ましくない。関税率が貿易協定での取り決めである場合、改定には相手国 との交渉が必要である。5%の輸入関税率は低すぎると思えるが、そうならば、関税自主権の喪失は、安政5カ国条約よりも、改税約書でこそ関税自主権の喪失と言える。

交渉の結果について、評価することは、容易ではない。例えば、日米貿易交渉で車について日本は関税ゼロに対し米国は2.5%であり、牛肉は25.8%(セーフガード超過分は38.5%)と言ったように。様々な要素がからみあっており、単純ではないが。

6-2) 改税約書締結の理由

改税約書の条約文は次の文で始まっている。即ち、1865年11月に大阪で日本政府が輸出入の関税率を5%に変更することに対しての書面合意を条約書として作成すると記載されている。

The representatives of Great Britain, France the United States of America and Hollande, ------
 And the Japanese Government having given the said Representatives, during their visit to Osaka in November 1865, a written engagement to proceed immediately to the Revision of Tariff in question, on the general basis of a duty of five per cent on the value of all articles Imported or Exported;

1865年11月の合意とは、英・仏・蘭の連合艦隊が兵庫沖に侵入し、軍事力を背景に安政五カ国条約の勅許と兵庫の早期開港を迫った事件において幕府より取り付けた合意のこと。米国は艦隊を派遣しなかったが公使は同行しており、四カ国艦隊摂海侵入事件とも呼ばれる。

6-3) 下関取り決め書(Shimonoseki Convention)

四カ国艦隊摂海侵入事件での合意が改税約書の中に記載されているが、背景は、下関戦争と呼ばれる1863年と1864年に起こった長州藩による関門海峡の砲撃・封鎖そして、襲撃に対する英・仏・米・蘭の4カ国の軍艦による報復と賠償請求ならびに下関戦争での勝利を利用しての4カ国の日本での勢力拡大である。力の差は、歴然としており、長州の弱さ、幕府の統制力の欠如、4カ国の軍事力の強さを示した。

その結果結ばれたのが、1864年10月22日の下関取り決め書(Shimonoseki Convention)であり、条約文は次の様になっている。


SHIMONOSEKI CONVENTION

The representatives of Great Britain, France, the United States, and the Netherlands, in view of the hostile acts of Mori Daizen, Prince of Nagato and Suwo, which were assuming such formidable proportions as to make it difficult for the Tycoon faithfully to observe the Treaties, having been obliged to send their combined forces to the straits of Shimonoseki, in order to destroy the batteries erected by that Daimio for the destruction of foreign vessels and stoppage of trade; and the Government of Tycoon, on whom devolved the duty of chastising
This rebellious Prince, being held responsible for any damage resulting to the interests of Treaty Powers, as well as the expenses occasioned by the expedition.
The Undersigned Representatives of Treaty Powers, and Sakai Hida no Kami, a member of the Second Council, invested with plenipotentiary powers by Tycoon of Japan, animated with the desire to put an end to all reclamations concerning the acts of aggression and hostility committed by the said Mori Daizen, since the first of these acts, in June 1863, against the flags of divers Treaty Powers, and at the same time to regulate definitively the question of indemnities of war, of whatever kind; in respect to the allied expedition to Shimonoseki, have agreed and determined upon the four Articles following: -

I
The amount payable to the four Powers is fixed at 3,000,000 dollars. This sum to include all claims, of whatever nature, for past aggressions on the part of the Prince of Nagato, whether indemnities, ransom for Shimonoseki, or expenses entailed by the operations of the allied squadrons.

II

The whole sum to be payable quarterly in installments of one-sixth, or 500,000 dollars, to begin from the date when the Representatives of said Powers shall make known to the Tycoon’s Government the ratification of this Convention and the instructions of their respective Governments.

III

Inasmuch as the receipt of money has never been object of the said Powers, but the establishment of better relations with Japan, and the desire to place these on a more satisfactory and mutually advantageous footing is still the leading object in view, therefore, if His Majesty the Tycoon wishes to offer in lieu of payment of the sum claimed, and as a material compensation for loss and injury sustained, the opening of Shimonoseki, or some other eligible port in the Inland Sea, it shall be at the option of the said foreign Governments to accept the same, or insist on the payment of the indemnity in money under the conditions above stipulated.

(注) 米国は、1883年に受領した賠償金785,000ドルを返還したと脚注がある。

外国船を襲撃する。襲撃された方からすれば、黙って見過ごすわけにはいかない。外国は幕府を日本政府と認め、平和条約・貿易条約を締結した。航行を妨げられ、砲撃を受けたなら、戦争となっても不思議ではない。反乱軍を打ち負かし、相手政府に善処を要求する。アヘン戦争のことを考えたら、更に酷い厳しい条件を呑まされる可能性もあったのではと思う。

幕末の歴史が複雑なのは、長州藩は当初から幕府転覆を謀っていたのだろうと思うことである。長州藩上層部も和親条約や修好通商条約の内容は勿論、世界情勢についても知識があったはず。吉田松陰が開いた松下村塾で多くの長州藩士は海外の知識を得ていた。また、国内の開国反対論の勢力についても十分知っていた。そのような中で、下関戦争を始めた。1866年6月に改税約書が締結されたが、この年1月には薩長同盟が形成されていた。薩長同盟の恐ろしさには、長州による英国の長崎グラバー商会から1866年7月最新式ライフル購入である。ミニエー銃4300挺とゲベール銃3000挺を薩摩藩名義で購入し、坂本龍馬の亀山社中が長州に運搬した。密輸であり、完全な条約違反である。幕府は第2次長州戦争を始めたが勝利できず。1866年8月将軍家茂が大阪城で死去。1867年1月に慶喜が将軍に就任し、この年の11月に大政奉還となった。そして、その2月後の1868年1月鳥羽・伏見の戦いが起こった。ミニエー銃を持った長州軍は強かった。

長州軍のミニエー銃はグラバー商会による密輸であった。しかし、英国政府は実態を知っていたはずであり、同様に米・仏・蘭も情報を正確に把握していたと思う。日本が国際舞台に入っていく過程の歴史だったと考える。

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2022年9月24日 (土)

日露戦争 背景その2 朝鮮半島

日本列島に人が住み始めた頃より、交流があり、往来があったのは、朝鮮半島の人々と日本列島に住んでいた人々の間であった。中国の隆盛と衰退を繰り返す巨大な王朝の文化・物質が日本にもたらされたのは朝鮮列島を通じてであった。日本と朝鮮半島は長い歴史的な関係がある。

1 朝鮮王朝

高麗の武官であった李成桂が、高麗王を廃位せしめ、新しい政権を作り1392年に王位についた。第3代太宗の時の1403年、明の永楽帝から冊封をうけて朝鮮王国として明から認められた。日本の韓国併合まで続いたと考えると518年間の長期朝鮮王朝の時代である。このページはTV東京の韓流ドラマ朝鮮王朝略系図である。眺めてみるのも興味深い。

朝鮮王は、明皇帝から冊封を認められ、冊封を受けた。朝鮮国は朝鮮王が支配する自治国であると明は認めたと同時に皇帝は明の皇帝であり、形式的には朝鮮は明皇帝の支配する地域に属する形である。

中国では、17世紀にはいると東北方面の女真族が勢力を増し、1616年にはヌルハチが後金を建国。1636年に清と改めた。朝鮮王朝は、清を認めず、明朝皇帝を推戴する姿勢を見せ、これを不快に思った清は朝鮮に侵攻した。時の仁祖は漢城の南の南漢山城に拠って抵抗したが、1637年降伏し、清を宗主国として従属することとなり、冊封国となった。明は、李自成の乱によって、明の崇禎帝が死んで滅んだ。清は李自成を破り、1644年に都を盛京から北京に移し中国支配を開始した。

2 欧米諸国のアジア進出

18世紀末英国東インド会社がベンガル地方での採取に係わるアヘンの専売権を獲得し、中国(清)への輸出に乗り出した。清朝政府は1796年には輸入禁止とし、密貿易となったが、拡大を続け、英国に富をもたらした。そして、1840年には清・英間の アヘン戦争となった。アヘン戦争は英国の勝利となり、1842年の南京条約が締結され、英国への2100万ドルの支払、広州、福州、厦門、寧波、上海の5港の開港、香港島の割譲、輸入関税一律5%等が取り決められた。米国とフランスは英国の南京条約締結を受けて、清と交渉し、1844年に望厦条約と黄埔条約を締結した。

清国内では、1851年に、洪秀全が組織した拝上帝会が「太平天国」を称した。1856年に、英・仏とアロー戦争が起こったが、太平天国の乱と同時進行での戦いであった。アロー戦争の結果は1858年の天津条約となったが、批准交換使節の入京に際して紛争が生じ、1860年英・仏軍は北京を占領し、11月にロシアの調停の下に、更に英仏に有利な北京条約が締結された。

日本においては1853年の米国ペリー艦隊の浦賀到着・開国要求を契機とし徳川幕府は開国政策へと大きな政策転換を行ったのである。それはペリーが浦賀沖で空砲による威嚇や測量を行ったりしたこによる威圧に屈したということより、アヘン戦争や南京条約そして望厦条約や黄埔条約の締結を始めとする中国情勢の情報を幕府は保有しおり、欧米諸国によるアジア進出の情勢分析ができていたからだと思う。

日本が締結した条約をまとめてみた。1867年11月10日(当時の暦では慶応3年10月14日になる)が大政奉還であり、スウェーデン・ノルウェイ王国以後の条約が明治新政府により締結された条約である。

米国 1854年3月 日米和親条約
大英帝国 1854年10月 約定(日英和親条約)
ロシア 1855年2月7日 下田条約
オランダ 1856年1月30日 日蘭条約書
米国 1858年7月29日 修好通商条約
ロシア 1958年8月7日 修好通商条約
オランダ 1858年8月18日 修好通商条約
大英帝国 1858年8月26日 修好通商条約
フランス 1858年10月9日 修好通商条約
ポルトガル 1860年8月3日 修好通商条約
ドイツ 1861年1月24日 修好通商条約
スイス 1864年2月6日 修好通商条約
ベルギー 1866年8月1日 修好通商条約
イタリア 1866年8月25日 修好通商条約
デンマーク 1867年1月12日 修好通商条約
スウェーデン・ノルウェイ 1868年11月11日 修好通商条約
スペイン 1868年11月12日 修好通商条約
オーストリア 1869年10月18日 修好通商条約
ハワイ 1871年8月19日 修好通商条約
1871年9月18日 修好条規
ペルー 1873年8月21日 修好通商条約
朝鮮 1876年2月26日 修好条規

3 朝鮮の開国

冊封体制の宗主国である清はアヘン戦争やアロー戦争で南京条約、望厦条約、黄埔条約を締結させられ、更に天津条約、北京条約により賠償金の支払い、追加の開港、領土の割譲等が拡大していった。朝鮮も欧米各国から開国を要求されたが、鎖国政策を堅持した時期もあった。1866年のフランスとの丙寅洋擾や、同じ1866年に米国船ジェネラル・シャーマン号事件が発生。アメリカ政府は、ジェネラル・シャーマン号事件に対して朝鮮政府の責任追及と通商を認めさせるため、1871年に艦隊を派遣し、5月から7月にかけて江華島で朝鮮の軍隊とアメリカの艦隊との戦闘である辛未洋擾が発生。朝鮮は通商を拒否し、アメリカ艦隊と朝鮮軍が砲撃戦になり、更にその後アメリカ軍が江華島に上陸して白兵戦となり、朝鮮側に大きな被害が出たが、やがてアメリカ艦隊は引き上げ、朝鮮は引き続き鎖国体制を維持した。(江華島とは、現在の仁川国際空港のすぐ北の島であり、江華水域は朝鮮の首都漢城(ソウル)に通じる要衝にあたる。)

1875年に江華島で日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件と呼ぶ戦闘・武力衝突事件があった。9月20日に日本の軍艦雲揚号(約250トン)が朝鮮の江華水域に入ったとき、江華島の草芝鎮から砲撃を受け、日本側はこれに応戦し、損害を与えた。事件の背景には、日本の明治維新に伴う日朝両国関係の行き詰まりがあった。書契問題である。〈皇〉〈勅〉などの文字を用いた外交文書(書契)は、〈皇〉〈勅〉が朝鮮にとって清の皇帝を意味するものと考えられることから、大院君政権は、書契の受理を拒絶していた。1873年には大院君が政権を奪われ閔(びん)氏に政権が移ったが朝鮮側の対応は変わらず、7年間膠着状態が続いた。そこで日本政府は,雲揚号,第二丁卯号などの軍艦を朝鮮沿岸に派遣して圧力を加え、事態を打開しようとし、事件はこの結果起きた。この事件以後、朝鮮の閔氏政権は朴珪寿らの努力で大院君ら鎖国攘夷(衛正斥邪)派の反対を押しきって日本との復交を図り、1876年2月に江華府において日朝修好条規(江華条約)を締結した。

1882年には英国、米国、フランスとも修好条約を締結し、1884年にロシアと条約を締結した。

4 日清戦争

朝鮮王朝国は開国に至ったものの、独立国として自ら近代化を進めることにより諸外国に劣らない力を付けていくべきと考える開化派と、清国の庇護によって国を守っていくべきだと考える守旧派が存在し、内部抗争は継続した。1882年7月に開化派の動きと日本の姿勢に不満を持つ旧軍と民衆よる開化派の要人殺害や、初代駐朝鮮特命全権公使花房義質が襲撃される壬午事変が発生。その結果、1882年8月に済物浦条約が日朝で締結され、その内容には、公使館警護のための日本軍の首都漢城(ソウル)への常駐、朝鮮政府による賠償金の支払い、朝鮮政府による事変についての謝罪などといった日本側の要求事項を盛り込んでいる。

一方、壬午事変の鎮圧における清軍の影響力は大きかった。結果、清に対する依存度は強くなった。開化派は1884年12月に、日本の支援を期待して、甲申政変を起こしたが、即座に清国軍が新政府を攻撃して政変を鎮圧した。この時、日清間での戦争への危険性が高まったが、1885年4月に両国は天津条約を締結し、朝鮮からの双方の撤兵が決まった。しかし、朝鮮の朝廷での政治的混乱は終わらず、日清両国の警戒は続いた。一方で、朝鮮政府は独立国家として各国との関係を築こうとするようになり、ロシアへの接近をはかったほか、欧米各国に公使を派遣するなどした。清は、朝鮮の外交に対する監督を厳しくし、欧米各国との交流とが並行する中で、朝鮮ではさまざまな近代化政策が進められることとなったが、1890年代に入るころには次第に財政が厳しくなってきた。増税や役人の不正の蔓延等が広まり、その中で全羅道の古阜郡の農民たちが起こした武装蜂起が拡大し、甲午農民戦争が勃発、1894年の3月頃に全羅道から始まり、やがて朝鮮全土に拡大した。

1894年6月3日朝鮮政府は、自らの手で鎮圧することは難しいと、清国に対して出兵要請を行った。日本政府も6月2日に現地の日本人の保護を名目として軍隊を派遣を決定した。6月11日に朝鮮政府と農民軍との間で全州和約が締結され終息したことによって、日清共に朝鮮国内に軍隊を駐留させておく根拠が失われたとして、朝鮮政府からは両国に対して撤兵が要求された。日本政府は清国政府に対し、朝鮮の内政の改革を日清両国が共同で行い、この間は両国の軍隊を朝鮮内にとどめること、もし清国が合意しなければ日本が単独で行うと提案をし、清国は、農民蜂起が既に鎮圧されている以上まずは撤兵すべきであり、朝鮮の内政改革は朝鮮自らが行うべきであると回答した。

7月3日、日本政府は朝鮮政府に対し内政改革の案を提示したが、朝鮮政府からは、改革よりも日本軍の撤退を優先してほしいという要求が返された。7月23日未明、大鳥公使の指令を受け、漢城郊外の龍山にあった大島義昌陸軍少将率いる混成旅団が漢城に入り、午前4時半過ぎ頃には、朝鮮国王高宗が居住し政府が置かれていた王宮(景福宮)を包囲し、門を破壊するなどして内部への侵入をし王宮を警備していた朝鮮兵士と銃砲による戦闘が始まった。(参考 王宮を攻撃する日本軍の錦絵(JACAR:大英図書館請求記号: 16126.d.2(92)) )結果、王宮は日本軍の占領下に置かれた。この日のうちに大鳥公使を宮中に呼び出した高宗は、大鳥公使の立会いのもとで、興宣大院君に対し、国政と改革のすべてを委任することを告げると共に、すべて大鳥公使と協議を行うことを要請した。そして、日本政府は、牙山に駐屯する清国軍を朝鮮政府に代わって退去させてほしいとの要請を、興宣大院君から受け、その結果、清国軍を朝鮮から退去させるために日本軍が清国軍を攻撃する正当な理由を得た。

清国軍は、牙山からやや漢城寄りに位置する成歓にも、一部の部隊が陣を構えていた。牙山に向けて進軍してきた日本軍は成歓に到達し、7月29日成歓駅付近で日清間で最初の陸戦が起きた。

最初の海戦は、7月22日から23日に佐世保港から朝鮮半島西岸海域に向けて出撃していた日本海軍と清の軍艦との開戦・豊島沖海戦である。牙山の清国軍部隊への増派清国兵士を輸送していた英国船籍の商船とその護衛軍艦2隻と牙山を出港した1隻を加わった清国艦隊が、豊島付近の海域を航行中に、この海域を目指して進んできていた日本の連合艦隊の一部の艦船と遭遇し、双方の間で砲撃戦が始まり、日清間最初の海戦が引き起こされた。清国艦隊の艦船は撃沈、大破、降伏あるいは逃走となり、日本艦隊は無傷であった。(参考 王宮を攻撃する日本軍の錦絵(JACAR:豊島沖之海戦: 16126.d.2(20)) ) 豊島の位置は、現在の仁川国際空港の南約40km、牙山の北西約60kmにある島である。

5 日清戦争における宣戦の詔勅

1894年(明治)8月1日に、明治天皇により清国に対する宣戦の詔勅が発された。

天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各〻権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ

惟フニ朕カ即位以来茲ニ二十有余年文明ノ化ヲ平和ノ治ニ求メ事ヲ外国ニ構フルノ極メテ不可ナルヲ信シ有司ヲシテ常ニ友邦ノ誼ヲ篤クスルニ努力セシメ幸ニ列国ノ交際ハ年ヲ逐フテ親密ヲ加フ何ソ料ラム清国ノ朝鮮事件ニ於ケル我ニ対シテ著著鄰交ニ戻リ信義ヲ失スルノ挙ニ出テムトハ

朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ朕ハ明治十五年ノ条約ニ依リ兵ヲ出シテ変ニ備ヘシメ更ニ朝鮮ヲシテ禍乱ヲ永遠ニ免レ治安ヲ将来ニ保タシメ以テ東洋全局ノ平和ヲ維持セムト欲シ先ツ清国ニ告クルニ協同事ニ従ハムコトヲ以テシタルニ清国ハ翻テ種々ノ辞抦ヲ設ケ之ヲ拒ミタリ帝国ハ是ニ於テ朝鮮ニ勧ムルニ其ノ秕政ヲ釐革シ内ハ治安ノ基ヲ堅クシ外ハ独立国ノ権義ヲ全クセムコトヲ以テシタルニ朝鮮ハ既ニ之ヲ肯諾シタルモ清国ハ終始陰ニ居テ百方其ノ目的ヲ妨碍シ剰ヘ辞ヲ左右ニ托シ時機ヲ緩ニシ以テ其ノ水陸ノ兵備ヲ整ヘ一旦成ルヲ告クルヤ直ニ其ノ力ヲ以テ其ノ欲望ヲ達セムトシ更ニ大兵ヲ韓土ニ派シ我艦ヲ韓海ニ要撃シ殆ト亡状ヲ極メタリ則チ清国ノ計図タル明ニ朝鮮国治安ノ責ヲシテ帰スル所アラサラシメ帝国カ率先シテ之ヲ諸独立国ノ列ニ伍セシメタル朝鮮ノ地位ハ之ヲ表示スルノ条約ト共ニ之ヲ蒙晦ニ付シ以テ帝国ノ権利利益ヲ損傷シ以テ東洋ノ平和ヲシテ永ク担保ナカラシムルニ存スルヤ疑フヘカラス熟〻其ノ為ス所ニ就テ深ク其ノ謀計ノ存スル所ヲ揣ルニ実ニ始メヨリ平和ヲ犠牲トシテ其ノ非望ヲ遂ケムトスルモノト謂ハサルヘカラス事既ニ茲ニ至ル朕平和ト相終始シテ以テ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚スルニ専ナリト雖亦公ニ戦ヲ宣セサルヲ得サルナリ汝有衆ノ忠実勇武ニ倚頼シ速ニ平和ヲ永遠ニ克復シ以テ帝国ノ光栄ヲ全クセムコトヲ期ス

この宣戦の詔勅は、朝鮮を清の属国から解放するという内容である。8月26日には、日本と朝鮮の間で、次の様な内容の「大日本大朝鮮両国盟約」が締結された。

第1条 本盟約は清国軍を撤退させ朝鮮の自主独立を守り、日朝両国の利益を増進することを目的とする。
第2条 清国との戦争は日本が行い、朝鮮はこれを支援し、便宜を与える。
第3条 本盟約は清国と平和条約が成立したとき廃棄される。

6 下関条約第1条

1895年4月17日に日清間の下関条約が調印された。その第1条は、次の条文である。

第一條
淸國ハ朝鮮國ノ完全無缺ナル獨立自主ノ國タルコトヲ確認ス因テ右獨立自主ヲ損害スヘキ朝鮮國ヨリ淸國ニ對スル貢獻典禮等ハ將來全ク之ヲ廢止スヘシ

即ち、清の宗主権は消滅し、朝鮮国の独立が確保された。

しかし、朝鮮内部では、日本の影響力が更に大きくなることを恐れ、ロシアと結んで独立を確保しようとする考えの一派も出てきた。その結果が、日本公使三浦梧楼による1895年10月8日の閔妃暗殺事件となった。

閔妃とは、閔玆暎がその姓名で、高宗の王妃(明成太皇后)である。高宗との婚姻は1866年であるが、この婚姻以後の朝鮮王朝では、高宗、その父親である興宣大院君、閔妃のそれぞれの一派による権力抗争が続いており、そこに清、日、露という外国の思惑や圧力等が加わり複雑な様相であった。

駐朝鮮国公使の三浦悟楼が日本軍人・大陸浪人らを景福宮に乱入させ、国王高宗の王妃である閔妃を殺害した。(参考 朝日新聞参考記事 2021年11月16日 )公使とは、国を代表して相手国に駐在しており、その公使が相手国の王妃を殺害したのである。結果、一旦は親日派(改革派)が優勢に立つと、国王高宗は、劣勢の親露派の手引きにより保護を求めて漢城のロシア公使館に居を移した。そして、親露派と結んだ政権が成立した。1897年2月20日には、高宗はロシア公使館を出て慶運宮に還宮した。 1897年10月12日に自主独立を強化する国づくりを目指し、国号を「大韓」に改めて、 大韓帝国の成立を宣言した。

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2022年8月29日 (月)

日露戦争 背景その1 三国干渉

日露戦争の背景として最初にあげる必要があるのは、やはり三国干渉と考える。日清戦争は明治28年(1895年)4月17日に下関で講和条約が締結され終結した。講和条約第2条では「清国は左記の土地の主権並びに城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。」と合意した。この第2条で1番目に記載されていた第1項が次であった。

1 鴨緑江口ヨリ該江ヲ溯リ安平河口ニ至リ該河口ヨリ鳳凰城海城營口ニ亘リ遼河口ニ至ル折線以南ノ地併セテ前記ノ各城市ヲ包含ス而シテ遼河ヲ以テ界トスル處ハ該河ノ中央ヲ以テ經界トスルコトト知ルヘシ 遼東灣東岸及黄海北岸ニ在テ奉天省ニ屬スル諸島嶼

概ね、次の地図の遼東半島(Liaodong Peninsula)で赤線から西南側が日本の主権に属すると合意された地域である。

1 三国干渉

下関条約の批准は、5月8日に日清両国で批准されるべきと条約第11条で合意されていた。合意通り批准はされるのであるが、批准されるより前に独仏露から条約第2条第1項の遼東半島地域の領有放棄するよう勧告があったのである。

林外務次官から陸奥外務大臣宛の4月23日の電報(露国と独国に関する)は次であった。(出所 JACAR レファレンスコード: B03041163100 )

露国公使の談話の大意左の如し -----今般調印されたる和約によれば遼東半島即ち大陸の一部を永久所有さるることになりたれば之を本国政府其他各国も驚きたるならんと信ず。--------遼東半島を担保等のため一時占領せらるるは異議なきことなるべし。依って日本政府はこれらの意を体し名誉を保持するの策を講ぜられんことを希望す。この宣言に対し至急の回答を望む。
独逸公使は面談の説日本文にて左の通り覚書を読み上げたり 本国政府の訓令に従って左の宣言を致します 独逸国政府が日清講和の条件を見れば貴国より請求したる遼東の所有は清国の都府をして何時までも不安全の位地に置き且つ朝鮮の独立をも水泡に帰させ依って東洋平和の永続の妨げになることであると認めねければなりませぬ。それ故に貴国政府が遼東の永久なる所有を断念なさるように本政府が御勧告致します。-----

2 遼東半島還付条約

日本政府は、勧告を受け入れなかった場合には3国からさらに軍事的な干渉を受ける危険性もあるとの判断、また米英からも勧告撤廃に協力を得られないと判断し、三国干渉を受け入れる決断となった。そして同年の1895年11月18日清国と遼東半島還付条約を締結した。

遼東半島は、北京から直線距離なら500km程である。「遼東の所有は清国の都府をして何時までも不安全の位地に置き」という独逸政府の指摘は、地政学から考えるとその通りであり、列強からすれば、遼東半島の主権を日本が獲得することは許せないとの考えになって当然と思う。

日本は下関条約で軍事賠償金として平銀2億両の支払を受けることの合意を得たのであるが、遼東半島還付条約により追加で還付報酬として平銀 3千万両の支払を受け取ることとなった。合計して平銀2億3千万両となるこの金額は、当時の日本の国家予算の4倍近くの金額であった。

3 独・露・仏・英の租借

日本の遼東半島還付で、終わったのではない。1897年9月山東省でドイツ人宣教師殺害事件が起こり、ドイツは賠償金を要求し、膠州湾(Jiaozhou Bay)に艦隊を派遣。ドイツと1898年3月膠州湾租借条約を結んだ。フランスとは、海南島の北に位置する広州湾(Zhanjiang)の租借を1898年5月に。英国とは香港に加えて山東省の威海衛(Weihai)の租借を1898年7月に。ロシアは、1898年3月に旅順口と大連湾の租借、さらにハルビンから大連までの鉄道敷設・経営権を得た。

アヘン戦争でのイギリスにはじまる列強の進出によって、清朝政府は不平等条約を強要された。さらにアロー戦争・太平天国の乱の混乱が続いたが、度重なる国内改革の失敗に終わり、近代化は遅れていた。下関条約によって生じた多額の賠償金支払いには、イギリスなど列強に対して外債を発行し、借款が増加した。

日本は、下関条約の結果として、条約第2条2項の台湾と第3項の澎湖列島を得たのである。

なお、澎湖島への上陸作戦開始は3月23日で澎湖島の清軍の降伏は3月24日であった。台湾については、下関条約が批准された5月8日から25日後の6月2日に引き渡し手続きが行われた。日本軍は5月29日台湾北部に上陸、6月5日基隆を占領、6月6日台北に入城した。そして、6月17日に、台北城で「始政式」行なわれ、台湾が日本の領土となったことが宣言された。しかし、台湾では、清国政府から派遣されていた漢人官僚や、この地に定着していた漢人の民間有力者たちによって、日本への台湾割譲に強く反対する動きがあり。下関条約批准後であるが、5月23日に台湾を「台湾民主国」という1つの国家として独立させる宣言がなされれていた。進軍してきた日本軍部隊との戦闘が行われ、10月21日に日本軍の第2師団の一部が台南に入城・陥落し、崩壊・組織的な動きは途絶えるまで続いた。国際的な承認がなかった台湾民主国は消滅した。そして、11月18日、樺山台湾総督によって、台湾の平定を宣言する報告が行われた。

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2022年8月 6日 (土)

日露戦争 明治37・38年戦争

8月は太平洋戦争が終わった月であり、1年の中でも平和と戦争を考えることが一番多い月かも知れないと思う。日本が当事者となった戦争は、太平洋戦争に限らない。共通する課題・問題もあるわけで、過去の戦争についても振り返って考える必要があると思う。

日露戦争は明治37年(1904年2月)から明治38年(1905年)夏までの戦争であり、戦闘に参加した日本の軍人と軍属の総数は、戦地と後方勤務の双方をあわせて108万人以上。戦死者・戦傷者は、それぞれ約8万4千人、14万3千人と言われている。日清戦争時の戦死者と比較すると、およそ10倍であった。

日露戦争は、明治37年(1904年)2月4日午前、日本政府の臨時閣議において、ロシアとの外交交渉の打ち切り、外交関係の断絶、軍事行動をとることが決定された。同日午後の緊急御前会議で承認され、翌2月5日に電報で外務大臣小村寿太郎から栗野慎一郎在ロシア公使に伝えら、2月6日栗野公使からロシアのラムスドルフ外相に伝達された。その内容は、小村外相から栗野公使への電報が次の内容であり、このような記名覚書が伝えられた。

(貴官は、左の趣旨の記名覚書をラムスドルフ伯へ提出せらるべし。)
日本国皇帝閣下の特命全権行使なる私は、本国政府の訓令を遵奉しロシア皇帝閣下の外務大臣閣下に対し茲に左の通告をなすの光栄を有す。
日本国政府はロシア帝国政府との関係上将来の紛糾を来すべき各種の原因を除去せむが為あらゆる和協の手段を尽くしたるも其の効なく帝国政府が極東に於ける恒久平和のためになしたる正当の提言並びに穏当且つ無私なる提案も之に対し当然に受くべきの考慮を受けず。従って露国政府との外交関係は今や其の価値を有せざるに至りたるを以て日本帝国政府は其の外交関係を絶つことに決定したり。
私は、更に本国政府の命ににより来るX日を以て帝国公私館員を率いて露京を引揚ぐる意思なることを茲に併せてラムスドルフ伯に通告するの光栄を有する。
出所:「聖坡得斯堡」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B07090546900、日露戦役ノ際在露帝国公館撤退及帝国臣民引揚並米国政府保護一件 第三巻(5-2-1-0-14_003)(外務省外交史料館)

理由として具体的なことは、述べられていない。また、国交断絶としているが、開戦とは書いていない。日本国内に対しては、2月10日付官報号外が次であり、詔勅として掲載された。

Kanpou19040210

冒頭の「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國皇帝ハ忠實勇武ナル汝有衆ニ示ス。朕茲ニ露國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海軍ハ・・・」という部分は、太平洋戦争開戦の昭和天皇の詔書と一言一句違わず同文である。異なるのは、「露國 」と「米国及び英国」の違いのみ。

詔勅とロシアに提出した記名覚書との違いは、日付が2月6日と2月10日。詔勅では開戦理由に繋がることとして「帝國ノ重ヲ韓國ノ保全ニ置クヤ・・・韓國ノ存亡ハ實ニ帝國安危ノ繋ル所タレハナリ・・露國ハ其ノ淸國トノ明約及列國ニ對スル累次ノ宣言ニ拘ハラス依然滿洲ニ占據シ益々其ノ地歩ヲ鞏固ニシテ終ニ之ヲ併呑セムトス若シ滿洲ニシテ露國ノ領有ニ歸セン乎韓國ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムヘカラス故ニ朕ハ此ノ機ニ際シ切ニ妥協ニ由テ時局ヲ解決シ以テ平和ヲ恆久ニ維持セムコトヲ期シ・・・・」のようなことが書いてある。

実際に戦争が始まったのは、2月6日に連合艦隊が佐世保を出航し、2月9日に旅順港を駆逐艦の水雷で攻撃している。陸軍の先遣部隊を乗せた輸送船団を護衛する別働隊の第2艦隊第4戦隊は、主力と分かれ韓国の仁川に向かい、2月8日仁川に碇泊中のロシア軍艦の巡洋艦ワリヤーグと砲艦コレーツの2隻と小競り合いとなった。仁川港で陸軍部隊の揚陸後、ロシア艦2隻に港外に出るよう要求し、2隻を砲撃。最終的には2月9日に2隻は爆沈と自沈。

朝鮮半島関係としては、2月23日「日韓議定書」が調印され、第三条で大日本帝国政府は大韓帝国の独立及領土保全の確実を保証するとし、第四条で第三国の侵害により若くは内乱のため大韓帝国の皇室の安寧或は領土の保全に危険ある場合は大日本帝国政府は速に臨機必要の措置を執る可し。而して大韓帝国政府は右大日本帝国政府の行動を容易ならしむるため十分便宜を与ふること。  大日本帝国政府は前項の目的を達するため軍略上必要な地点を臨機収用できるとした。

日露戦争開始の部分について書いてみた。開戦に至る部分や日本海海戦(Battle of Tsushima)についても続けて書いていきたいと思っています。

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2021年12月14日 (火)

真珠湾攻撃から80年

80年前の12月8日午前7時に「大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」とNHKの臨時ニュースが伝えた。

米英軍と日本軍の衝突が偶発的に発生したとのニュアンスが読み取れてしまうが、実際にはだまし討ちと非難されても、反論できない軍事行動であった。

1)真珠湾攻撃の時間

第一次攻撃隊の真珠湾到着時間は現地時間12月7日午前7時55分であった。日本時間では12月8日午前3時25分であり、米国東部時間(首都ワシントン時間)では12月7日午後1時25分である。

2)日本政府の文書(覚書)交付時間

文書に書かれている内容については、3)で述べるので、日本(大使館)から米国(国務長官)への文書交付時間について記載する。外務省から在首都ワシントン大使館に文書を伝達したのは12月6日の電報901号、902号であった。長文のため、電報を打ち終わったのは7日午後4時(米国東部7日午前2時)であった。

外務省から更に要求としてタイピスト等は使わず、機密保持に慎重を期すようにと要求(電報904号、7日午後5時30分発)があった。更には、外務省より電報907号で12月7日午後1時に国務長官宛てに大使から直接手渡しをするようにと指示があった。

Yake Law School Lillian Goldmad Law Libraryのこの資料 によれば、12月7日午後1時に国務長官への面会アポイントを申し入れた。調整結果と思うが、時間は1時45分となった。野村大使と来栖大使が到着したのは、2時5分。会談の開始は2時20分であった。

1時25分に真珠湾攻撃が始まったのであるから、文書の交付は、約1時間の後であった。外交交渉継続中に軍事攻撃を開始したのであるから、だまし討ちである。

3)交付した文書

日本政府は対米覚書と呼んでおり、外務省が12月6日に電報902号で英文を送っているのであるが、そのタイトルは”MEMORANDUM”である。

そして文書の中身に宣戦を布告するなんてことも書いていない。日米交渉を打ち切ると述べているだけである。当時日本で権力を持っていた連中は非常識きわまりない連中だったようである。文書もだまし文書である。

なお、この覚書(MEMORANDUM)は、Yale Schoolの資料にもあるが、ここ にも置いておいた。文書中に長々と説明が続くが、交渉打ち切りの宣言は最終節であり、参考に次に記す。

仍テ帝国政府ハ茲ニ合衆国政府ノ態度ニ鑑ミ今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得スト認ムルノ外ナキ旨ヲ合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ
<参考>よって日本政府は合衆国政府の態度を鑑みるに、今後も交渉を継続し妥結に達すると考えることはできないと遺憾ながら通告する。

The Japanese Government regrets to have to notify hereby the American Government that in view of the attitude of the American Government it cannot but consider that it is impossible to reach an agreement through further negotiations.

史料は、特に記載ないのは、すべて外務省 日本外交文書デジタルコレクション からである。

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2020年8月16日 (日)

日本を救った玉音放送

玉音放送から75年。録音ではあるが、「茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク」と天皇が「なんじ臣民」と国民に語りかけた。戦前の日本において、天皇が国民に対し直接語りかけることなど、あり得なかった。歴史的な8月15日である。玉音放送のNHKアーカイブスはここ にあります。

三上智恵氏の「証言 沖縄スパイ戦史」を読んだ。衝撃的内容である。太平洋戦争において日本国内で唯一戦場となった場所。戦場となることの意味は何であるか。32軍司令部・沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長長の自決の6月23日に沖縄守備軍の指揮系統は消滅したが、沖縄戦が終了したわけではない。戦争を終わらせること。戦闘を終わらせることは非常に難しい。

イラク戦争を考えてもそうである。フセインを捕らえて、イラク戦争は終わらなかった。ISISとは何であるのか?昨年、中村哲医師がアフガニスタンで亡くなった。同じ民族同士が憎しみあい、殺しあう。

沖縄戦の頃、それ以後も、本土決戦を唱えていた人や不敗の神国日本を固く信じていた人は多くいたと思う。本土決戦となったなら、大きな不幸は生まれていたはず。沖縄戦司令部消滅の6月23日は、ドイツ降伏5月8日から1月半後である。勝ち目がない戦争をしていた。

「負けた」と言えば、戦争は終わる。有利な条件で負けられないかとするから、外交で・・・・との発想になる。国内的な問題もある。そういった国内的な問題を含め本土決戦派をも何とか説得する方法として玉音放送は最高の切り札だったと思う。その点に関して天皇と当時の日本の指導者に感謝をしたい。

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2020年1月10日 (金)

太平洋戦争開戦(その9)雑感

太平洋戦争開戦に関して、その1からその8まで、8回にわたり幾つかの資料を参考として書きました。次が、その第1回から第8回であり、歴史のある一断面に接することが出来たと感じています。第9回として、私の思ったことを 書くこととします。

第1回 太平洋戦争開戦
第2回 開戦の通告

第3回 ハルノート

第4回 日米交渉

第5回 ハルノートから真珠湾攻撃まで

第6回 新聞報道

第7回 日米の国力差

第8回 御前会議

1) 御前会議

御前会議とは天皇陛下の出席を頂いて国家の最重要事項を決定する会議であった。太平洋戦争開戦(その5)太平洋戦争開戦(その8) で、1941年11月5日の御前会議と12月1日の御前会議に関して書いた。米国と戦争をするという太平洋戦争開戦に関する決定を下した2回の御前会議であった。米国との戦争は、冷静に考えれば、勝利の可能性がない戦争であり、その結果としては、数多くの日本人犠牲者を出した。

日本人の死者数は軍人・軍属で230万人、一般市民が80万人でその合計310万人という数字が一般的である。この数字には朝鮮人・台湾人戦没者が含まれていないので、その数字を加え、一方で開戦前の1941年以前の日中戦争期における死者を差し引くと300万人弱になると推定する。一方、米国人戦士の太平洋戦争での死者数は15万人にも満たない様である。日本の戦死者には戦病死を含んでおり、大雑把な比較であるが、戦死者比率が10:1なんて戦争をしたのであった。(なお、米国人戦士の第2次大戦における死者数は42万人という数字があるが、これは欧州戦線を含んだ数字である。)

明治憲法(大日本帝国憲法)は、第13条が「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」であり、天皇の関与なしでの戦争開始はあり得ない。一方、第3条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」を考えると、象徴天皇に近いと思える。太平洋戦争開戦(その8)の中で御前会議次第を掲げたが、天皇が御前会議に参列する入御は、各大臣による説明及び質疑応答・意見の聴取が終了した後であり、天皇の参加は形式的である。天皇とは神聖であり侵してはならない存在であるなら、神であり、責任を天皇に振り向けてはならない。明治憲法において、御前会議について触れている条文はなく、御前会議について定めている法律もないと理解する。しかし、天皇の出席を得た御前会議の決定は最大限尊重されることとなる。

戦前の日本国家はガバナンスが機能しない制度であると思う。憲法が第11条で「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とし、第12条で「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」としている。だから、11月1日の大本営連絡会議でも「外交は作戦を妨害しないこと」というような発言が陸軍参謀次長より出てくる。

今の日本の会社でもあり得る話かも知れない。一定の手順を踏んだ社長決裁という決定がなされると情勢が変化した場合に、あるいは見落とした点を是正しようとしても、そこに社長決裁という形式があれば、変更は容易ではない。一方で社長決裁があれば、それを理由にその推進者は他人の意見をくむことなく突っ走ることができる。結果、失敗に結びついてしまうことがある。すべてが、そうとは思わないが、無理矢理にでも社長決裁を得たならば、それで動いてしまい、歯止めが掛からない状態に陥っては大変である。

2) ABCD包囲網・大東亜共栄圏

太平洋戦争前1941年頃の日本人が持っていたアジア観にABCD包囲網・大東亜共栄圏という思想があった。ABCDとは、America、British、China、Dutchのことであり、フィリピンは米、マレーシア・シンガポール、ミャンマーが英、Chinaとは蒋介石一派のことで、インドネシアがDutchとなる。ABCD包囲網は大東亜共栄圏と重なってくる。友好を重視しない敵視思想と思えるが、当時の考えでは、アジア民族の解放であった。読売新聞が1941年8月16日から8月21日まで6回にわたりABCD包囲網という特集記事を掲載している。その第6回は次の書き出しで始まっている。

いわゆるABCD陣営の対日包囲線は最近来ますます露骨な攻勢をみせている、あるいは経済圧迫にあるいは恫喝にデマ撒布に太平洋の波はまたしても掻き濁されようとする、これら執拗な牽制は、わが大東亜共栄圏への毅然たる歩みをいささかも阻み得ないばかりでなく、徒らに彼らの貪慾をむき出しに過ぎない、ビルマ、シンガポール、蘭印比島から豪洲、サモア、ハワイ、グアム等へ馬蹄型にのびる一連の軍事基地‐本来東亜民族の勢力圏であるべきこれらの地が、いかにして白人のためにふみにじられ、ついには“みずからの東亜”に向って歯を剥くにいたったか、われわれは過去五世紀にわたる白人侵略の歴史と、屈従と忍辱に挫がれた現実の姿態とに眼を向けなければならない‐南方問題の一権威である太平洋協会の沢田謙氏がけうの“語る人”である

(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・読売新聞 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/G0000003ncc_00503550 より)

オーストラリア、サモア、ハワイも大東亜共栄圏と考えていたのかも知れない。どのような考えでいたのか、何故太平洋戦争を始めてしまったのか、Link先の神戸大学新聞記事文庫で全文を読んで頂くと、参考になると思う。

広い視野を持ち、議論(ディベート)することが重要である。権威主義や精神論は間違いを助長することがある。「和を以て貴しとなす」なんて諺はゴミ箱に捨てるべきである。力の強い者が、弱い者を従わせ、不正をするに都合を良くするように使われることもある諺だと思う。深く考えることが重要である。

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