検索語「八ッ場ダム」で、このブログを訪問いただいていく方が、最近増えています。ダム関係を書くに際して、8月22日 ダムの議論の中で、吉村昭の小説「高熱隧道」に少し触れました。そこで、もう一度、高熱隧道を読んでみました。 (Amazonへのリンクは次です。)
高熱隧道
高熱隧道とは、黒部第三発電所の水力発電所導水トンネルとそれに先立ち掘削完成させる軌道トンネルのことで、温度140℃(最高165℃)というダイナマイトの自然発火温度を超えた岩盤を相手に、熱水が噴き出してくる中を掘削した極めて難工事で完成したトンネルです。掘削といっても、トンネルボーリングマシン(TBM)があるわけではなく、人力によりドリルで穴を開け、そこにダイナマイトを差し込んで、発破により岩盤を崩し、崩した岩盤(ズリ)をトンネル外に出していく工事でした。当然人力で、トラックはなく、トロッコです。軌道トンネルとは、ダム建設時は、資材運搬用、完成後はメンテナンス用のトロッコ軌道です。
そのトンネル場所は、次のYahoo地図を見てください。トロッコ電車で有名な黒部峡谷鉄道がありますが、その終点が欅平です。欅平に建設した水力発電所が黒部第三発電所であり、そこから約6km上流(南)に行った地点に建設したのが仙人ダムであり、仙人ダムと欅平間を結んでいるトンネルの阿曽原谷と仙人ダム間の部分が高熱隧道です。隧道は、2つへ移行してあり、1つは水が流れており、人は入れませんが、もう1本も公開されていないので、通常は入れません。
地図の上の端に欅平があり、下の端に仙人ダムや黒四地下発電所という文字が見えると思います。高温部分は、地図の真ん中あたりにある、阿曽原谷や阿曽原小屋と書いてあるあたりから、仙人ダムまでの705mです。(欅平から水色の点線が下に出ているのが見えますが、これが水路トンネルです。点線が2本見えるのは、黒部第三発電所用と新黒部第三発電所用の2本あるからです。)
発電所着工が昭和11年です。当時の状況は、満州国建国宣言昭和7年、日本の国際連盟脱退昭和8年です。昭和11年に入ると、2.26事件がありました。翌年の昭和12年には盧溝橋事件が発生しています。日本が、軍事国家の色彩を強め、経済の上では、大不況を軍事支出増加の経済対策で、国家統制による社会主義色を強めていった時代です。米国の日本向け航空ガソリンの輸出禁止が昭和15年9月、石油前面輸出禁止が昭和16年6月で、そのような状態を政府首脳部は予想していたはずで、戦前の日本のエネルギー開発政策として、大規模水力の開発は欠かせなかった。同じような時期に着工され完成したのが東京電灯の信濃川発電所です。
吉村昭は「高熱隧道」で、限界に挑んだ人達、限界まで挑まざるを得なかった人達を小説の中で、描き出していると思いました。ちなみに、読んでいて、次のような文章には、すごさを感じました。
「日本電力でも、地質学者の意見に不信感をいだいている。大石教授の言うようにこれから掘り進んだ場合、温度が低くなるというような期待も全く持ってはいない。むしろ、温度は上がる一方だろうという意見が圧倒的だ。それに仙人谷から進んでいる本抗の抗道も、摂氏80度まで上がっているのを考えると、今のままのルートでは火の中の玉の中へ突っこんでゆくようなものだ。それで、日本電力でもルート変更を考えてくれたわけだ。 |
技師と人夫。そこには、監督する者と従属する者という関係以外に、根本的に異なった世界に住む者の違和感がひそんでいる。それは、一言にしていえば、技師は生命の危険にさらされることは少ないが、人夫は、より多く傷つき死ぬということである。と言うより、人夫たちには、死が前提となっているとさえいってよい。ある工事がはじまる時、その予算の中の雑費という項目には弔慰金に該当するものが必ず組みこまれている。死はあらかじめ予定されている事柄であり、しかも、それはより多くの人夫の死に対して支払われるような含みをもっているのである。 |
工事を強引に推しすすめることに、むろん藤平も異存はなかった。人夫たちの体は完全に熱に順応し、坑内の熱さに堪えられなかった者は一人残らず下山してしまっていて、工事現場にはたとえ痩せきってはいても強健な体をもった人夫たちだけが残されている。日当も普通賃金が1円80銭の相場なのに、いつの間にか割増金が加えられて、1日7円から8円の金額が支払われるようになってきている。かれらは岩盤温度が何度に上昇しようとも、日当さえ割額していけば作業をつづけてくれるにちがいなかった。
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今は昔の物語です。しかし、もしかしたら、そんな極限状態が今でも、存在しているし、これからもずっとある気がします。だから、吉村昭が小説として残したかった。
参考事項をもう少し書くと、小説に出てくる佐川組とは佐藤組で、今の佐藤工業と思います。佐藤工業は、2002年3月に会社更生法を適用申請をしましたが、2009年9月7日に更生手続の終結をしました。(佐藤工業の発表)おめでとうございます。他社にない高度な技術力とかKnow Howとかを持っていると、不況下で同じように苦しいが、再生する潜在力はずっと高いと思います。
黒部第三発電所と言うからには、第一、第二があるはずで、第四が黒四で有名な発電所です。実は、黒四発電所は、黒部第三発電所のダムである仙人ダムの少し上流で、そこから10km以上離れた地点にある黒部ダムからの水で発電しています。黒部第一発電所という名前の発電所はなくて、柳河原発電所が第一に相当します。(現在の新柳河原発電所は、国交省宇奈月ダムの建設により建て替えられた発電所ですが、同じ場所(柳原駅)にありました。参考に表にしてみました。
新黒部川第二、第三という発電所が、昭和41年と昭和38年に完成していますが、これは黒部ダムの完成によりピーク時間の発電量を増加させることができるようになり建設したと理解します。ピーク時間の発電量を増加させると、ピーク時間帯以外で発電量が同じだけ減少してしましますが、電力という物は、貯蔵が不可能であることから、大きな意味を持ちます。
新黒部川第三発電所の導水トンネルも、旧トンネルとほぼ並行して掘削されています。同じような高熱問題がありました。見ていませんが、地熱に挑む-新黒部第3発電所導水路-という記録映画が、存在します。170℃との説明があり、難工事だったと思います。
日本電力が黒部第三発電所の発注主ですが、当時の電力会社大手は、東京電灯、東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電力、関西共同火力といった会社でした。当時は、軍需工業が起り、電力が不足するから、国家の手において豊富な電力を開発せねばならない、そして、戦時においては電力は国家が統制すべきであるとの考え方でした。経済分野の多くで国家統制経済に向かおうとしていた中、電力はその先頭を走っていました。昭和13年に電力管理法、日本発送電株式会社法が成立し、これらに基づき日本発送電株式会社が昭和14年に設立されたのです。日本電力も日本発送電の出資者となり、黒部第三発電所は日本発送電に引き渡されました。
黒部川の開発の歴史に関しては、この宇奈月町商工会のWebに纏まっています。但し、新黒部川第二、新第三や宇奈月ダムについては、触れられていませんが、黒三発電所のWeb Pageはあります。この日本ダム協会の仙人谷ダムの建設に関するWeb Pageには、もう一つ「内田すえの、此川純子、堀江節子著『黒部・底方の声-黒三ダムと朝鮮人』(桂書房・平成4年)」の書があることが書かれています。図書館で借りないと読めないようですが、時代からして、朝鮮人の人夫が当然働いていたと思います。
黒部第三発電所は、黒四発電所よりはるかに多い300名を超える犠牲者(単純比較はできませんが)を出して建設されました。今も水という自然エネルギーのみで、CO2を排出せずに発電をしています。おそらく何百年あるいは、それ以上の長期にわたり発電をすると思います。仙人ダムは、総貯水量682千m3の小さなダムです。自然保護と産業開発との調和という観点では、優れたプロジェクトであると思います。なお、仙人ダムへ行くには欅平から片道5-6時間、そして帰りに4-5時間かかります。欅平に宿泊して、日帰りするか、阿曽原小屋に泊まる必要があります。そうなると仙人池や剣岳も含めて行く方がよいのでしょうね。もう一つは、仙人ダムから黒部ダムへ行く方法がありますが、こちらは、もっと距離が長いし、徒渉をする必要があるかも知れず、大変でしょうね。
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